『上宮聖徳法王帝説』/「役立たずな知識の有益性」

晴。
『上宮聖徳法王帝説』(改版)読了。いわゆる聖徳太子の古伝で、非常に簡潔なものである。「聖徳太子」というのは後世において伝説化された後の呼称であるため、「厩戸皇子」と云うべきかもしれない。『古事記』や『日本書紀』以前の成立とされ、 神秘化がまだ少ないことが特徴だろう。まあ、本文と注だけ読んでいても素人にはよくわからず、解説がある程度補ってはくれるが、詳しいことは自分にはわからなかった。厩戸皇子が「聖徳太子」として超人化されたのが、いかなる理由であったのか、まあ気になると云えなくもない。いずれにせよ、歴史の真実などはそう簡単なものではないことが痛感される。「歴史とは偽史である」というのも、極端ではあるが、ある程度真実味もある命題であろう。
 なお、岩波文庫が改版したものも旧版と同じISBNコードを付けているのは、マズいのではないか。旧版を独立して指すことができなくなってしまう。

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)


山形浩生氏が(勝手に)訳した、フレクスナーの「役立たずな知識の有益性」(参照)はなかなか面白い。物理学の成果の殆どが、有益性とは関係のないところで追求され、得られたと云えるだろう(熱力学などは例外かも知れないが)。現代のハイ・テクノロジーの多くは、電磁気学量子力学の産物であるが、いずれも有益性などとは関係なく発展してきたものである。それを創り上げるという知的興奮(と名誉欲もないとは云えまいが)こそが、推進の原動力だったのだ。今やヒッグス粒子が発見されて、素粒子物理学標準模型はついに完成してしまったが、これで物理学者にとって、世界は退屈なものになるのだろうか。いや、一〇以上のパラメーターを持ち、無限大のくりこみを必要とする標準模型の「醜さ」が、物理学者たちを納得させないだろう(また、場の量子論と重力理論の相性の悪さなども)。物理学者の信念として、世界は単純で簡潔な法則で表せる筈である。ここに有益性など、これっぽっちもない。
 この論文で扱われているのは、物理を学んだ者にはそれほど意外な話ではないが、具体例の豊富さが面白い(例えばマルコーニの「コヘーラー」)。ちょっと気になるのは、相対性理論と非ユークリッド幾何学というので、これはもちろん一般相対性理論のことであろうが、揚げ足取りだけれども、これを数学的に記述するリーマン幾何学は、ガウスの貢献が決定的だったわけではない。実際、そのリーマンが行った決定的な講演(今で云う「計量」の導入)を老ガウスは聴いており、途轍もなく彼が興奮したことは有名だ。そして、アインシュタインが使ったのは、絶対微分学(今ではこの呼称は殆ど使われない)としてさらにのちに整備されたものである(ここにガウスの精神が受け継がれていることには間違いはない。ちなみにその絶対微分学を建設したひとりにレヴィ=チヴィタがいるが、この翻訳ではレヴィ・シヴィタと誤記されている)。まあ、これは大した間違いでもない。そして、有益性などからは最も遠そうな一般相対性理論ですら、今では例えばGPSの計算に不可欠なのであるから、これもまた驚くべきなのだ。