宮台真司『日本の難点』

宮台真司『日本の難点』(isbn:9784344981218)読了。宮台さんは愛国者憂国者だなあ。
「そこ[ソーシャル・デザインしていかなければならないこと]には、重大な問題があります。それは『社会設計は基本的に人の手に余る』ということです。『カテゴリーの分節が恣意的だ』という意味論的限界、『世の摂理は人知を超える』という時間的限界ゆえに――総じて我々の知的限界ゆえに――社会設計は必ず間違ってしまうものなのです。
(中略)しかし、だからといって、社会設計も何もしないで良いのかというと、そう簡単ではありません。『不作為もまた作為なり』という『再帰性』の問題があるからです。既に述べたように、『するも選択、せざるも選択』という等価性の只中に我々が立たされてしまうのが、我々の生きている後期近代=ポストモダンだからです。」(p.111-2)
「つまり、<システム>の外にある目標――<生活世界>を生きる『我々』――のために<システム>が手段として利用されるのではなく、<システム>が作り出した課題である“理想のワタシ”のために<システム>自体が応えるというマッチポンプ再帰性が、多くの人々の目に露わになったのです。」(p.249-50)
「米の価格維持のための減反政策で水田の四割を減らしながら、大量のコメを義務的に輸入することはどう考えてもバカげています。山下[一仁]氏は、関税維持の代償にミニマムアクセスを受け入れるよりも競争原理を受け入れた方が、コメ輸入量が増えないばかりか、将来的にはコメの輸出さえ可能になると言います。」(p.263)
 それから、「セコイ奴」よりも「スゴイ奴」になって、「ミメーシス」を引き起こせ、というのは、まあその通りなのだが、なんだかなあ… 宮台さんは、自分が「スゴイ奴」だと思っているのだなあ… そうなのだろうが、それにしてもねえ…
 話はちょっと違うのだが、本書を読んでいて思ったのは、「主体」はないが「自由意志」はある、という、西洋哲学ではパラドックスに見える問題を個々人が解決しない限り、仏教の足元にも及ばない、ということになるのではないか。それを等閑にしてロジックを組み立てていっても、結局、すべて崩れ去ってしまうのだと思う。