安藤礼二『たそがれの国』/幸田露伴『天うつ浪 後篇』

曇。
安藤礼二『たそがれの国』読了。

たそがれの国

たそがれの国

幸田露伴『天うつ浪 後篇』読了。未完。日露戦争が始まって露伴は、こうした閑文字をつらねていくのが、居たたまれないような気になったらしい。それはそうと、いかに我々が、こういう雰囲気の世界から遠くなってしまったことか。
天うつ浪 (後篇) (岩波文庫)

天うつ浪 (後篇) (岩波文庫)


中沢新一「心のトポロジーとしての建築学」より。これは手厳しい。

近代というのは、過去の伝統とのつながりを断ち切ろうとする運動であった。いま自分たちのつくっている世界は、過去の遺産とのつながりの上に成りたっているという事実を否定して、合理的な原理だけで人間の世界をつくりあげて見せようとしてきた。その近代というプログラムが、いま行きづまってしまっている。そのために、未来へのヴィジョンがまったく見えないまま漂流をつづけているような不安感が、世界中を覆っている。
 こういうとき人はよく、自分たちの手近な過去へ目を向けようとする。近代の少し前の時代の伝統を取り戻そうとしたり、それが「日本的なもの」の神髄だなどと考えて、力ずくで復活させようとしたりする。しかしそういうタイプの「日本的なもの」に、いくらしがみついてみても、だめなものはだめなのである。そういう思考法じたいが、近代的な思考の仲間なのであって、そこから未来へのヴィジョンが開かれてくる可能性は、まったくない。

ディラック『量子力学』メモ(1)

著名なディラックの教科書『量子力学』を、大学に入りたての学生のように読んでみるつもりである。そのための、ほんのメモを記すことにする。飽くまでも自分勝手なメモであり、これを読んでも量子力学がわかるようにはならない。また、この一回で止めるかも知れないし、続くのかも知れない。他人には読む意味がないかも。

量子力学 原書第4版

量子力学 原書第4版

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ヴェーユの哲学講義/中西進『日本人の忘れもの1』

日曜日。晴。
シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』読了。「パスカルが深く感じとったように、『時間は存在が無であるという感情をうみだす源泉』です。人間に考えることをこれほどまでに恐れさせているのは、時間が逃れさるものだという事実です。『気ばらし』は時間の流れを忘れさせることを目的としています。人は自分の背後に事物を残すことによってみずからを不滅にしようとこころみますが、不滅になるのは事物だけなのです。」(p.318)

ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)

ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)

中西進『日本人の忘れもの1』読了。
日本人の忘れもの〈1〉 (ウェッジ文庫)

日本人の忘れもの〈1〉 (ウェッジ文庫)

オットー『聖なるもの』/北村薫『自分だけの一冊』

蝋梅

晴。
プールへ行ったら、またしても休みだった。今度は臨時修理。まぬけ。アピタ

オットー『聖なるもの』読了。新訳。本書の底流には、キリスト教こそ宗教の最高形態だという発想がある。このことは訳者も指摘している。

本書の根本的なねらいとは、諸宗教におけるキリスト教の卓越性を「聖なるもの」の構造から論証すること、そして、イエス時代の人々が有した「聖なるもの」としてのキリスト教の啓示体験が現代においても有効であることを主張すること、の二点である。(p.456)
こうしてみると、『聖なるもの』は、宗教現象学的考察のみがクローズアップされ、オットーすなわち「ヌミノーゼの宗教学者」といったイメージがすっかり一人歩きしているが、かれにすれば重心はキリスト教の卓越性、その信仰の有効性を主張するところにあり、そういう意味で本書はあくまで「キリスト教神学者」の立場から書かれたものである。……それにもかかわらず、『聖なるもの』を有名にしたのは、まさにこの予備的・序説的位置付けでしかなかった宗教現象学的考察にほかならない。(p.458)

聖なるもの (岩波文庫)

聖なるもの (岩波文庫)

北村薫『自分だけの一冊』読了。よく読んでいるなあ。
自分だけの一冊―北村薫のアンソロジー教室 (新潮新書)

自分だけの一冊―北村薫のアンソロジー教室 (新潮新書)

鹿島茂『吉本隆明1968』

曇。
「恵那」で昼食。
鹿島茂吉本隆明1968』(isbn:9784582854596)読了。日録に書く。書かなかったことで、ちょっと気になるところがあったので、引用しておく。

現在、日本のアカデミズムでは、学生確保のために、研究領域を、日本の漫画、アニメ、映画、テレビ、エンターテイメントなど、いわゆるサブカルとかクール・ジャパンと呼ばれるものにまで広げていこうとする傾向がありますが、これは、じつは、日本のこうした境域の活動が興隆期、成熟期を経て、衰退期に入ったからこそ可能になったものなのです。もし、それが興隆期、成熟期にあって「実態的」に元気に存在している場合には、これを「概念的」に捉えることは難しいのですが、衰退期に入り、活動のパワーが衰え始めることによって逆に概念的把握が可能になり、一般的、抽象的に論ずることができるようになるのです。そこから、日本的なサブカルの極端な「理想化」や、あるいはその逆の極端な「断罪」も起こってくるのです。(p.392)

宮台真司『日本の難点』

宮台真司『日本の難点』(isbn:9784344981218)読了。宮台さんは愛国者憂国者だなあ。
「そこ[ソーシャル・デザインしていかなければならないこと]には、重大な問題があります。それは『社会設計は基本的に人の手に余る』ということです。『カテゴリーの分節が恣意的だ』という意味論的限界、『世の摂理は人知を超える』という時間的限界ゆえに――総じて我々の知的限界ゆえに――社会設計は必ず間違ってしまうものなのです。
(中略)しかし、だからといって、社会設計も何もしないで良いのかというと、そう簡単ではありません。『不作為もまた作為なり』という『再帰性』の問題があるからです。既に述べたように、『するも選択、せざるも選択』という等価性の只中に我々が立たされてしまうのが、我々の生きている後期近代=ポストモダンだからです。」(p.111-2)
「つまり、<システム>の外にある目標――<生活世界>を生きる『我々』――のために<システム>が手段として利用されるのではなく、<システム>が作り出した課題である“理想のワタシ”のために<システム>自体が応えるというマッチポンプ再帰性が、多くの人々の目に露わになったのです。」(p.249-50)
「米の価格維持のための減反政策で水田の四割を減らしながら、大量のコメを義務的に輸入することはどう考えてもバカげています。山下[一仁]氏は、関税維持の代償にミニマムアクセスを受け入れるよりも競争原理を受け入れた方が、コメ輸入量が増えないばかりか、将来的にはコメの輸出さえ可能になると言います。」(p.263)
 それから、「セコイ奴」よりも「スゴイ奴」になって、「ミメーシス」を引き起こせ、というのは、まあその通りなのだが、なんだかなあ… 宮台さんは、自分が「スゴイ奴」だと思っているのだなあ… そうなのだろうが、それにしてもねえ…
 話はちょっと違うのだが、本書を読んでいて思ったのは、「主体」はないが「自由意志」はある、という、西洋哲学ではパラドックスに見える問題を個々人が解決しない限り、仏教の足元にも及ばない、ということになるのではないか。それを等閑にしてロジックを組み立てていっても、結局、すべて崩れ去ってしまうのだと思う。