荒川洋治『文学のことば』

日曜日。晴。
昨晩はアニメを観ながら寝落ちした。深夜にいったん目覚めて、電気を消してもう一度寝る。
 
NML で音楽を聴く。■シェーンベルクスケルツォ ヘ長調、プレスト ハ長調で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。■ベント・セアンセン(1958-)の「Adieu」「Angels' Music」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NMLCD)。■リゲティのチェロ協奏曲で、チェロはルノー・ドジャルダン、指揮はピエール・ブルーズ、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(NMLCD)。
 
Mäkelä Conducts López Bellido & Mahler 5 | Chicago Symphony Orchestra
クラウス・マケラの指揮、シカゴ交響楽団による、マーラー交響曲第五番の演奏の配信(全曲、70分)――各楽章の冒頭数分をつまみぐいして聴く。細部は精緻であり堅固に構築されスケールも大きく、マーラーが完全に消化されているが、情感的に(わたしには)あまり魅力的でなく、というかモノトーンで退屈であり、全体を聴く気にならなかった。若きクラウス・マケラは「天才」とされ、既にロイヤル・コンセルトヘボウシカゴ交響楽団を率いることが決まっており、マケラ時代が来るともいわれている。
 いま「才能と魅力がある指揮者の不足」は深刻で、各団体、困っているのがよくわかる。マケラくらいのクラスの「才能」になると、奪い合いだ。
 しかし、音楽を楽しむってなんだろうね。シンプルに音楽を楽しみたいものである。
 

 
「二人だけの道」 - okatakeのブログ
「こういう清潔で正しく、しんみりほのぼのする夢のあるドラマが茶の間から消えてしまった。」ほんと、いまや何でも複雑知的でむずかしすぎる。人間らしさ、ってなんだろう。
 
いい天気で庭へ出る。

ブルーベリーの花がたくさん咲いた。

アイリス。

ソラマメの花。実が生(な)ったら食べる。

白いスミレ。生命力の強い雑草なので、老母は庭から抜いてしまうそうだ。
 
 
図書館。鶴見俊輔さんと長田弘の対談集『旅の話』(1993)、荒川洋治のエッセイ集『文学のことば』(2013)、池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書2014)、藤津亮太『ぼくらがアニメを見る理由』(2019)その他を借りる。
 
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。いつものトーストサンド+ブレンドコーヒー1160円。おなかいっぱい。
帰りに老母のために手芸屋「トーカイ」へ寄る。あちこちでツバメ飛ぶ。
陽射しが強くなって車内が暑い。AUTO のエアコンは冷房が入るようになった。
 
 
長時間、ごろごろぼーっとする。
 
 
図書館から借りてきた、荒川洋治『文学のことば』(2013)をさらっと読了。エッセイ集。著者が若い人とその文化にほとんど何の興味も関心もないのがわかる。ま、それがダメな態度なのかはわからない。若い人だって概して老人には興味がないものだ。きたない、きもちわるいと思っていたって不思議はない。
 しかし、荒川さんはもはや現代、現実にもあまり興味がないのではないか。停滞し、退廃し、空気がよどんでいる。まあ、古くさい、それもよいのかも知れないが。わたしはつつましやかで古くさいのはきらいでない。

 

 
夜。
老父が三葉をたくさんもらってきたので、おひたし(山葵ポン酢和え)にして食う。ウチにも三葉はあるのだが、このような食用として畑で栽培されたものではなく、雑草として生えているので、小さくてかたいそうだ。かつては茶碗蒸しに添えたり、味噌汁に入れたりして食べた。
 
僕は友達が少ない』第9話まで観る。

しまなみ海道・尾道家族旅行(第二日)

明るくなってくるにつれておのずと目覚めました。今日はしまなみ海道を一気に戻り、尾道を観光してから帰る予定です。天気は薄曇りってところ。

ホテルで簡単な朝食を摂り、のんびりと八時半に出発。まずはホテルすぐ近くの今治城へ行ってみます。

建物は復元であり、石垣も修復の跡が見えますが、なかなかに悪くありません。海が近く、堀には海水が引いてあります。



復元天守と、今治城を築城した藤堂高虎の像です。
 今治市内を車で走ると、本町という城近くの商店街などは、いわゆるシャッター商店街ですね。城が中心の、落ち着いた街という印象で、岐阜県だと大垣に近い感じでしょうか。今治って、タオルの町ってことは知っています。 
 
今治市内から車で15分くらいしょうか、来島(くるしま)海峡大橋近くの、「来島海峡展望館」というところへ行ってみます。ここが、大正解でした。まさに瀬戸内海の景色を堪能でき、わたしは長い時間、なかなかに飽きるということがありませんでした。まあ、写真ではムリがあるのですが、たくさん撮ったものから、数枚をどうぞ。



来島海峡大橋が見えます。

船、小さくてわからないと思いますが、何隻かの漁船も出ています。潮の流れが速いです。

奥へ、じつは三つの橋が連続しています。



みやげ物屋もあります。橋の建設を図解したコーナーあり。
ここが、今回いちばん瀬戸内海の風景が楽しめたところでした。
 
高速道路に入ります。今日は途中の島々には寄らず、しまなみ海道60kmを今治から尾道まで、一気に一時間で走破します。料金は2800円だったかな*1。いや、すばらしい自動車道ですね。島また島の新緑の山々の間を抜け、立派な橋を次々に渡り、時には海がよく視界に入ってくる。なかなかのんびりと運転、ってわけにはいかないのですが、それでもわたしが走った自動車道の中でも、もっとも楽しく運転できたものです。そんなには利用されていない感じで、もったいないなって思いました。
 
尾道市内に入り、浄土寺へ。いや、ここは寺までの道がきわめて狭く、車で行ったのは失敗でした。

右は鎌倉後期の多宝塔で、国宝。左の阿弥陀堂は重文。

南北朝時代の宝篋印塔 (足利尊氏供養塔)で、重文。

国宝の本堂。本尊は秘仏でした。中で外国人の旅行者一行がまとめて説明を受け、通訳が英訳していました。

室町期の山門、重文。この狭い道を車でいくので、ほんと困りました。
 
尾道を車で回るのはムリだと実感したので、新尾道駅前まで戻ってレンタカーを返却し(十一時半)、タクシーで山陽本線尾道駅まで戻りました(15分、1500円くらい)。

JR尾道駅。なんだかすごくきれいな駅です。しまなみ海道の完成に合わせて整備されたようですね。写真に修学旅行生たち(東広島市の中学校だそうです)が写っていますし、観光客もかなりいました。

商店街を歩きます。「よたろう」という昭和のしけた喫茶店にて昼食。昼どきでも誰もいませんでした。

レコードショプが生きています。アニメ「ぽんのみち」は尾道が舞台なの?

しばらく商店街を歩きます。古い商店街をなんとか更新しようと努力している感じでした。あとでわかりましたが、尾道郵便局から向こう(駅から遠い方)がより活気がありますね。
 
商店街から出て、国道2号の向こう側(山側)の、寺が多い、いわゆる尾道らしい寺と坂の町を歩きます。

国道2号と山陽本線
以下、しんどいながら細い坂道、抜け道を歩いていきます。




下方には海がちらりと見えます。

だいぶ上から、下を見ます。千光寺公園(行きませんでした)へ登るロープウェイ乗り場や、山陽本線が見えます。

下の街と海。


尾道は猫が結構有名なんだそうで、「猫の細道」なんていう作り物のスポットもあります。今回は3匹と出会いました、その中の一匹。

艮神社の巨石と大クスノキ
 
もう一度商店街に戻り、駅まで歩いて帰ります。

雰囲気のある店もあります。新しいみやげ物屋で、はっさく大福と揚げたての尾道コロッケを買う(帰りの新幹線車中で食いました)。

尾道港、ちょうどフェリーが出るところです。海沿いも整備されており、外国人観光客の姿もちらほら見られました。

JR尾道駅の、改札内を覗く。中は旅情のあるホームっぽいです。

駅舎は新しい。
 尾道は三時間弱くらいかけて廻ったでしょうか。きちんと歩くなら丸一日はかかるでしょうね。坂道はたいへんですが。多くの映画の舞台になっていて、(訪れませんでしたが)「おのみち映画資料館」なんてのもあります。(ま、わたしの観たのは小津の『東京物語』とか、大林宣彦の『時をかける少女』くらいですが。)寺はめちゃめちゃたくさんあって、上に書いた浄土寺以外は、天寧寺の三重塔を見ただけで終わってしまいました。写真を撮るのが好きな人なら、尾道はかなり楽しめるんじゃないかと個人的に思います。
 
タクシーで新尾道駅に戻り、新幹線で帰ります。新尾道15:21発、福山、新大阪で乗り換え、岐阜羽島17:46着。自宅到着は夜七時前。今回も楽しい旅行でした。

*1:普通車で全区間走ると、平日で2950円、休日で2310円のようです。

しまなみ海道・尾道家族旅行(第一日)

最近は車での旅行が多かったのですが、ひさしぶりに新幹線を使って、しまなみ海道尾道の二日間の家族旅行を楽しんできました。
 しまなみ海道は、広島県尾道愛媛県今治を、瀬戸内海の島々(大きな島は向島因島生口島大三島伯方島、大島の六つ)を経由して結ぶ、西瀬戸自動車道(59.4km)の愛称です。一度走ってみたかったんだよね。島々にいくつもの大きな橋が架かっていて、自転車や(やる気なら)歩いてでも渡れるし、実際そういう人たちも見かけました。
 
朝起きたらいい天気、自宅を七時半に出て、まずは車で東海道新幹線岐阜羽島駅まで。充分余裕をもって出たつもりでしたが、朝のラッシュ時で一時間かかり、列車の時間にちょうどぴったりくらいになってしまいました。
 岐阜羽島08:58発、途中新大阪(列車が少し遅れて乗り換えがあぶなかったです)と岡山で乗り換えて、新尾道11:16着。

新尾道駅です。新幹線の駅としては随分と小さい。ここは在来線と繋がっておらず、JR尾道駅とは車で15分くらい離れています。
 駅前のトヨタレンタカーでアクアを24時間借ります。すぐ近くの尾道ラーメン「東珍康(とんちんかん)」へ。

尾道ラーメンの並を注文しました。醤油ベースのとんこつスープに、細麺という感じ、おいしかったです。地元では結構有名な店のようで、繁盛していました。
 
国道2号を経由して西瀬戸尾道ICから、いよいよしまなみ海道に入ります。まずは川のような狭い海峡に架かる新尾道大橋をわたって、向島(むかいしま)へ、すぐに高速道路を降ります。
 島の中をゆっくり走ってみます。テキトーに「向島休憩所」ってところで車を駐めて降りてみました。

いや、瀬戸内って感じで、悪くないじゃないですか。

次にわたる因島大橋が見えます。飛行機雲二本。

四阿(あずまや)もあります。ここはしまなみ海道のサイクリングコースらしく、自転車の人が結構いました。島の外周道路を、海を見ながら車をゆっくり走らせます。
 
高速道路に戻り、次の因島(いんのしま)はスキップして、生口島(いくちじま)で降ります。島の西側の、向上寺へ。寺へ入っていく道がわかりにくかったです。

室町期の三重塔が国宝です。


お寺が小高いところにあるので、眼下に島の海沿いの集落が見えます。これも、瀬戸内らしかった。

桜がきれいでした。この旅行中、あちこちで桜はほぼ満開でしたね。
 
多々羅大橋を渡り、生口島から大三島(おおみしま)へ。ここまでは広島県、ここからが愛媛県です。まずは橋近くの、「道の駅 多々羅しまなみ公園」へ。

いま渡ってきた、多々羅大橋がよく見えます。なんだかよくわかりませんが、完成当時は「世界最大の斜張橋」だったということで、すごいんだそうです。きれいな橋ということはわかりますね。

道の駅から。ちょっと買い物(地元産の鯛みそ)をしたり。瀬戸内なので柑橘類の商品が多く、実際、島を走っているとレモンその他が植えられているのを見かけました。
 
 大三島を西へ、大山祇(おおやまづみ)神社を訪れます。ここは前から一度訪れてみたかった、伊予一宮です。歴史が非常に古く、既に『続日本紀』に名前が見えるそうで、おそらくはもっと古くに遡るのではないでしょうか。祭神は「大山積神」という、海の神様、武の神様で、瀬戸内海の海上交通に関係があるように思われます。静岡県三嶋神社と共に、神道の「三島・大山祇信仰」の中心です。

総門。


境内の老楠。樹齢2600年といいます。他にも、境内には古いクスノキがたくさんあって、国の天然記念物に指定されています。


室町期の拝殿(重文)。
以下、神社付属の国宝館へ。


国宝館。古来、武の神として信仰されていたため、源氏・平家のものを始め武具が多数奉納されてきた歴史があり、多数の国宝・重文があります。特に甲冑が有名で、わたしは若い頃、小林秀雄のエッセイで知りました。国宝館に鎧多数あり、中でも源頼朝源義経のそれぞれ奉納した鎧は、共に国宝です。義経のは、壇ノ浦海戦のあとに、戦勝祈願の叶ったことに対する奉納であったと説明がありました。なんとも生々しかったです。
 刀、薙刀類もあり、義経、弁慶などの奉納、刃こぼれがいくつも見られ、これもちょっと身震いするほどでした。
 国宝館の隣には海事博物館もあったのですが、時間の関係や疲れていたこともあって、中には入りませんでした。

神社隣のみやげ物屋で、ソフトクリームを買って食いました。なんかきれいな、めずらしい声で鳴いている鳥がいるなと思って、ズームして撮ってみました。イソヒヨドリという鳥のようです。
 
また高速へ戻り、伯方島(はかたじま)、大島はスキップして、四国に入ります。今治市です。
 今夜は市内の「スーパーホテル今治」に、朝食のみのプランで泊まります。人件費節約型のまだ新しいビジネスホテル(?)ですが、風呂は温泉です。接客にわずらわされることもなく、却って気楽でいいですね、チェックアウトの手続きすらありません。
 夕食はホテルから歩いて10分ほどの居酒屋「陣」にて。家族三人で利用するにはぴったりの気楽で感じのよい店で、食べ物もおいしく、とても楽しい時間を過ごしました。今治のあたりは海水の流れが速くて魚がよいようですが、刺し身盛り合わせとかうまかったです。もう皆んな歳をとったので量はあまり食べられないのですが、それでも結構食べて飲みました。僕は、温泉旅館の懐石料理より、こういうのの方が好きですね。
 ホテルは老両親とわたしは別々の部屋をとってもらえたので、夜は静かにネットを見たりしてすごしました。iPad mini でしばらくマンガを読んでから、気持ちよく寝ました。

こともなし

未明起床。強い雨
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第五番 K.542 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NMLCD)。■モンポウの「内なる印象」で、ピアノはオレナ・クシュプラー(NMLCD)。このピアニストはよほどわたしに合うんだな。
 
スーパー。小雨(こさめ)で少し寒い。
 
昼。晴れる。

今日の桜。

落花。雨でだいぶ散った。

ブルーベリーの花。

花蘇芳(ハナズオウ)。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。塩キャラメルフレンチ+ブレンドコーヒー473円。
チョ・ナムジュ『サハマンション』(原著2019)を読み始める。ディストピアものの長篇、というところかな。巨大企業の独裁統治する管理都市国家「タウン」の中の、「住民(L, L2)」から外れた者の住む「サハマンション」で事件が起きる、それを描いているようだ。陰鬱な雰囲気がただよっている。訳者は斎藤真理子さん。
 
外気20℃を超える。那加駅近くの陸橋から北に見える低い山々の連なりが、雨で洗われたような緑で美しい。
 
ブログ本(2024.1.1~2024.3.31)落掌、読み始める。
 
夜。
ブログ本一冊読み終える。中身はまずまずだな。

こともなし

深夜起床。
PCの電源を入れる。椅子に座って長時間ぼーっとする。
曇。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第四番 K.542 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NMLCD)。清潔で気持ちのよい演奏。作為というものがまったくない。■ハイドンピアノ三重奏曲第十四番 Hob.XV:14 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NML)。軽妙なハイドン

グリーグのヴァイオリン・ソナタ第二番 op.13 で、ヴァイオリンはオーギュスタン・デュメイ、ピアノはマリア・ジョアン・ピリスNMLCD)。■ウィリアム・バードの パヴァンと二つのガイヤルド第二番 イ短調「ソールズベリー伯爵のパヴァン」、「鐘」、「おお、わが愛しの人よ」、第二グラウンドで、ピアノはキット・アームストロング(NMLCD)。中世の音楽、いいな。
 
少し Ruby で遊ぶ。AtCoder
スーパー。五倍ポイントの日。筍(タケノコ)を買う。
 
モズの子が餌を求めて鳴かなくなった。ひとり立ちしたのだと思う。
 
長時間、昼寝。
 
桜がほぼ満開になった。


ネモフィラ

シャガも咲いた。
 
 
「スマートEX」で予約した切符を発券するため、JR岐阜駅へ。券売機で発券したのだが、操作がいまひとつわかりにくく、駅員に訊きたかったが駅員もいそがしく、後ろもずらっと並んでいるし、エイヤッとやったら正解だった。疲れたー。パスワードが必要とかも考えてなくて、昨日アカウントを作ったばかりで覚えていたので、よかったし。はー。
 
家へ帰って疲れているせいか、お茶の入っている容器を盛大にひっくり返して、あたりを大洪水にする。
 
夜。
『君に届け 3RD SEASON』 予告編 1 - Netflix Anime | YouTube
 
バシュラール『水と夢』を読み始める。
早寝。

エコクリティシズム批判 / 「徒然チルドレン」(2017)を観る

薄曇り。
 
昼。
自動車保険の保険屋が来る。
 
読書しようと「ひぐち」へ行ったら定休日だった、ボケていたな。
ドラッグストアで牛乳と歯磨き粉とかっぱえびせんを買う。
 
庭の花たち。

ネモフィラと芝桜。

桃。

クズ球根のチューリップだが、小さいのが却ってかわいらしい。


椿(ツバキ)二種。
 
 
図書館から借りてきた、結城正美『文学は地球を想像する――エコクリティシズムの挑戦』(2023)をテキトーに速読した。テキトーにしか読めなかったのでもしかしたらいい加減なことをいうかも知れないが――まあ、頑張っているところもあるけれど、根本的にダメ本であると思う。著者はいろいろむずかしい理屈を頑張ってこねているが、言語というものがそもそも「自然(=現実)からの疎外」であるという基本的事実に気づいていない。おそらく、本書でいうエコクリティシズム自体が、それに気づいていないのだと思う。どれだけ言葉を費やそうが、象徴構造は現実(=自然)より貧しい、ということが押えられていない。言葉は、「自然」の代わりにはならないのである。
 ただ、別の観点から見ると、優れた「文学」の如きが「自然を感受する感性」を涵養する、ということはあるかも知れない。(本書でも言及されている)石牟礼道子、あるいは大江健三郎の小説など、まるで自然のように複雑に絡み合った「豊かな」テクストが、こちらにセンサーを作り上げる可能性は、読み手によってはあり得る。しかし、それらの作家は例外的存在であり、実際、象徴構造に還元されない「豊かな」テクストはいまやめったに書かれることがないし、また我々の貧しさゆえ、そのようなテクストから富が得られることもめったにない。そして、本書は例えばいくら石牟礼道子を喋々しようが、そのような豊かなテクストでない。
 エラソーでマジごめん。

もちろん、わたしのこのブログだって、その意味で貧しいんだぜ。それはわかっている。
 
 
夜。
徒然チルドレン』(2017)第12話(最終話)まで観る。一話12分半のショートアニメ。いやこれ、笑った笑った、大爆笑。でもってキュンキュンする神ラブコメ。ラスト、マジで泣いたわ。最初は、絵柄が合わねーなーとか思ってたんだが、観ていくうちにこれはこれでストーリーにぴったりと感じるようになった。たくさんのラブストーリーが同時進行するというもの、皆んなはどの二人が好き? いやー、我ながらキモすぎるおっさんだが、じつによかったよ。騙されたと思って観てみ。
 原作は四コママンガなんだな、その雰囲気はよく出ている。

こともなし

昧爽起床。風雨強し。
朝食に昨日買ってきたドーナツを食う。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第二番 K.498 で、演奏はサバディ、オンツァイ、グヤーシュ(NMLCD)。実直で地味な、これで充分な演奏。自分(たち)は才能ある演奏家なんだぞ、みたいな衒いがまったくなく、気持ちがよい。いわゆる「ケーゲルシュタット・トリオ」で、もともとクラリネットヴィオラ、ピアノという特殊な編成だが、ここではクラリネットの代わりにヴァイオリンで演奏されている。
ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はリッカルド・ムーティフィラデルフィア管弦楽団NMLCD)。マジメで、ダサく、古くさく、田舎くさいブラームスが大好きだ。また、ムーティの演奏がとってもいい。でもね、古くさいっていったって、ご存知のとおり、シェーンベルクに「進歩主義ブラームス」って論文があるし、晩年の武満さんも、ブラームスを認めていたんだぜ。まあ、ブラームスの「新しさ」を強調するつもりはなくて、ブラームスはそこからいろんな方向へ行ける十字路なのであり、バッハやベートーヴェンの方へ行ってもいいし、現代音楽、人文学、あるいはアニメへすら行けるんだと、わたしは思う。
ベートーヴェン交響曲第三番 op.55 「英雄」で、指揮はチャールズ・マッケラススコットランド室内管弦楽団NMLCD)。マッケラスという天才を聴け。
 
 
昼。雨あがる。
ウチの桜開花。残念ながら、コンデジのピントがうまく合わず撮れない。去年の開花は 3.19 なので、他でもいわれているように、今年はだいぶ遅い。
 
松田聖子/一千一秒物語 | YouTube
先日その一部が頭に浮かんで、いったいなんだっけってなった曲。詞をよく吟味して(?)曲名を思い出した。1981年のリリース、わたしは中学生か(松田聖子のたぶん最初の4枚のアルバム、カセットテープでもっていた筈である。いまなら高く売れたかも)、若い頃の記憶力はすごいな。詞は松本隆、曲は大瀧詠一で、もちろんイナガキタルホをイメージしているわけである、高級ですな。なんたって「空にペイパームーン/銀のお月様」ですよ。
 
 
いい天気で外気21℃と、車内は陽射しで暑いくらい。珈琲工房ひぐち北一色店にて、種村季弘訳のシェーアバルト『小遊星物語』の続きを読む。承前。いい季節になって、コーヒーを飲みながら読書していると、眠くなってくる。あまり集中できず、70ページほど読んで切り上げる。外は青い空に白い雲、になってきた、もう春も闌(たけなわ)だ。
 

光の方向が変わって、開花した桜をなんとか撮れた。

まだオトメツバキ。
 
 
夜、中沢さんを読み返す。
 
吉本隆明全集27』を読む。吉本さんはいまの「加速主義」に近いことをいっている。ある種のエコロジーなど、進歩する科学・技術を制限するのはまったくダメで、むしろ資本主義を「加速」することで、科学・技術を進歩させてその力で問題を解決すべき、という考え方である。
 確かに、資本主義を前提とする限り、それは正しいし、それ以外の正解はない。さらに、資本主義のオルタナティブはいまのところ存在しない。ゆえに、吉本さんの発想は正しい、となる。
 しかし、そういうやり方は、持続可能でない、という考えは、わたしごときには説得力をもってしまう。資本主義は常に拡大するしかなく、それではいずれにせよ、自然からの収奪に限界が来る。我々は、常なる拡大で、みずからを破滅させてしまう、そういう未来にリアリティが感じられるような時代が、来てしまった。それが「人新世」である。
 たぶん人類には「加速主義」しか選択肢がなく、デッドエンドは避けられない未来であると、わたしには思われる。まあ、地球環境なんぞどうなろうが、我々大衆は自分の日々のおまんまのことだけ、考えていればいいのさ、てか。
 それから、吉本さんは都会っ子なので、自然というものに触れ合う感覚がほとんどない。たぶん、自然がめちゃめちゃに破壊され、生活環境が都会しかなくなっても、吉本さんは何の痛痒も感じなかったであろう。実際いま、地方の人間ですら、自然の中で生きる感性を大きく失ってしまっているし、そもそも地方にその中で生きるべき自然がなくなっているところが多い。むろん、大部分の人間に、そんなことがどうでもいいのは、よくわかっているし、実際どうでもいいのかも知れない。