こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十七番 K.453 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。のびやかないい曲だな。

祖父の三十三回忌。妹一家も来てくれる。法事はいつ以来だろう。
皆んなで珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。おいしかった。


しかしツイッターに問題の所在も正しい解決策も全部書いてあるらしいのに、何で何も変わらないのかね。いや、変わっていて自分が知らないだけなのかな。不思議。
もうツイッターを見ていてもむかつかないわたくし。いろいろなんですねって思うようになった。でもまあ、やることなくて暇つぶしにツイッターを見ているのは大概にしておこうと思う。それは皆さんに任せる。わたくしは寝る方を選択する。


アントニオ・ダマシオを読む。痛みを感じることと「痛い」と感じることがちがうというのはおもしろい。ものすごい痛みを感じながら、ふつうに快活に過ごせるということがあるのだ。不思議だな。一種の「病的な」状態ということになるのだろうが。その現象が見られたのは、ある病気の激痛に対処するためのやむを得ない手術によるものであったらしいけれども。

しかし、どうも皆さんベルクソンの『物質と記憶』をきちんと読んだ方がいいのではないかと思う。まあいわゆる筋のいい人はベルクソンというとオカルト扱いするので、誰も読まない訳だが。小林秀雄も『物質と記憶』はベルクソンの中でいちばん重要だと言っているのだけれど、そもそも小林秀雄が読まれないからなあ。時代遅れの人間がもう少しいてもいい気がするのだけれど、現状では無理ですね。


真面目で真摯な人間にこんなことを言うのは性格が悪いにも程があるのだが、若松英輔さん、ツイッターでナイーブすぎやしませんか。もうホントにごめんなさいだけれど。下らない人間にならないと、下らない人間のことはわからないと思うのだが。ミイラ取りはミイラにならないといけないと思っている。でもまあ、高みだけ見ているのが正しいのかな。下らない人間になって、だから何といわれると返す言葉がないか。

このところ、俺ってホント下らない人間になったなあと思う。前がそんなに立派だった訳でもないけれど。それだけじゃダメなのは感じますね。下らないだけだとやっぱりつまらない。カスだけでいいことはない。


常に相手の言説のメタレヴェルに立っていこうとするのが知性であると勘違いしている人が多くて、実際そういう人はきわめて頭がよいことが多い訳である(いまはツイッターでよく見かける)。東浩紀さんはかかる活動を「批評」と呼び、それは「日本固有の『病』である」と(カッコいいことを)言った。けれども、小林秀雄吉本隆明の「批評」はじつはそういうものではないのであり、かかる意味での「批評」は柄谷行人氏が典型だと思う。だから、いまや柄谷行人は大衆化したのであり、それが当り前になって御本家は陳腐化した。でもまあ、柄谷行人もじつはそれだけの人ではないのだけれどね。むしろそれは、東浩紀から遡行した柄谷行人なのだと思う。って、こんなことを言って何か意味があるのだろうか。

若松英輔『常世の花 石牟礼道子』

晴。
昨晩は南方熊楠を読んで寝た。むずかしい熊楠先生が少しづつ読めるようになってきたのは嬉しい。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十一番 K.331 で、ピアノは野平一郎(NML)。めずらしくこの曲が聴きたくなった。でも終楽章のトルコ行進曲じゃなくて、第一楽章だけれどね。第一楽章と第二楽章はこの曲の自分のイメージどおりの演奏。終楽章は速めのテンポだ。

モーツァルト:ピアノソナタ

モーツァルト:ピアノソナタ

ブラームスクラリネット・トリオ op.114 で、クラリネットはファビオ・ディ・カソラ、チェロはオフェリー・ガイヤール、ピアノはルイ・シュヴィッツゲーベル=ワン(NML)。
ブラームス : 室内楽作品集 (Brahms : Sonatas for cello and piano etc./Ophelie Gaillard, Louis Schwizgebel-Wang, Fabio Di Casola) [輸入盤]

ブラームス : 室内楽作品集 (Brahms : Sonatas for cello and piano etc./Ophelie Gaillard, Louis Schwizgebel-Wang, Fabio Di Casola) [輸入盤]

オネゲル交響曲第二番「弦楽のための交響曲」で、指揮はシャルル・デュトワNMLCD)。


我々の時代の正義は、学問的には一流、人間的には幼稚で、そのバックボーンは素朴な合理主義賛美である。「正義」たることを当然と思い、自負が強い。まさしくこれがこれからの支配的モデルになっていくことであろう。つまりは、西洋に一致していくのである。例は、二流だが典型として田中秀臣先生。若い人たちが目指すのはここであり、これは間違いなくこうなる。まあ、これでよいのであろう。自分に言うことはない。ただ、こんな簡単なことに気づくのにここまでかかったとは、まったくわたくしは明敏でない。問題があるとすれば、これが世界の最終的な回答ではないのに、そのように強力にふるまうことにある。「正義」の貫徹とともに、「人間」に必要であった「余分なよきもの」が洗い流されていって、跡形もなくなることになる。「人間」の死。徹底的な幼稚化。なるほど、ついに日本もこうなるのだな。これを止める手段はない。

しかし、自分だってどうしようもなく幼稚なのだ。何故あたらしい正義を非難できよう。これは「完全に正しい」のである。自分はアホであり、ただどうしようもなく時代遅れなのだ。

わたくしも基本的に合理主義者だが、西洋的な意味での第一原理がないので、じつは「なんちゃって合理主義者」である。合理主義にはすべての根拠となる「第一原理」が必要になるが、西洋にあってはそれをキリスト教が提供している。つまりは「神」。それはじつはいま現在でもそうなので、そうでないように見えてもそれは隠蔽されているのにすぎない。日本にはいまのところそれはないので、第一原理のところは奇妙なことになっている。しかし、このままでいけばどうしても第一原理は必要になるから、何らかの超越が導入されることになろう。それがどうなるかは確かに注目すべき点である。

例えば政治学などを論じていると、どうしてしばしば古代ギリシアまで遡行していってしまうのか。それは第一原理に苦慮するからである。例えばロックあたりだと根底は平気で「神」であるが、いまの学者はさすがにあからさまに「神」を持ち出すわけにはいかない。ゆえに、第一原理を求めてプラトンアリストテレスだとか、いやいやアテネ的民主主義だ民会だとか延々とやっている。日本人も西洋化しているので、学者は似たようなことになっているが、ユダヤ、キリスト、イスラム教的一神教なしにそうなっているところが苦しい。しかし思うが、日本人もこれからその三つのどれかへ行く人が増える筈である。それが論理的帰結なのだが、さて実際はどうなるでしょうね。

で、ここで変なことをいうが、日本の「オタク的感性」はそれに加えてどうなるのでしょうね。いまは全面的な「オタク的感性」の時代である。世界もその意味で「日本化」しつつある。ここに没頭していけないのが自分の完全なる限界であろう。あとは若い人に託すより他ない。じつは自分も昔はオタクだと思っていたのだが、もはや到底ついていけない。お願いします。まあ自分もやってはみるけれど。しかし、白痴的快楽主義が第一原理になるなら、「神」よりはいいのかも知れない。知らんけど。

あとは、「国家」か。ああもう面倒なので書かない。ちょっとだけ書いておくと、国家に対するのに「中枢」から見るのと「末端」から見るのと両方の見方がありますよね。ツイッターなどでは完全に「中枢」に集中して語られている。ちなみにわたしは「末端」の人である。ちなみに「末端」というのは地方公務員とか、そういう意味ではまったくない。具体的サービスとかでもない。どちらかというと「アナーキスト」的な意味であるが、アナーキストというわけでもない。ただ、「国家を信用しない」とか「非国民」とかいうのに近い。しかし、「反国家」でもない。国家の必要性は認識している。いわば矛盾的であろう。ゆえに学問化できない。


結局、あんまり深く追求すると問題がどっと湧出してきてしまうのだな。だから、じつはあまり深くは問わないことに大多数はしている。しかし、クリティカルな問題になってくると、いつまでも浅さだけではやっていけなくなる。そのときどうするのか。たいていは、体よく誤魔化すことになるのだが、それをプラグマティズムともいう。プラグマティズムは、よくも悪くも「大人の知恵」である。バカにしているのじゃありませんよ。念のため。

自分にあっては矛盾は必定である。それがいいというわけではないが、無知と愚かしさと思索力のなさでそうなっているのだ。残念である。

昼過ぎ、ミスタードーナツ イオンモール各務原店。家族のものも含め、持ち帰りでもいろいろ買う。
石牟礼道子さんの二冊の本と同時に図書館から借りてきた、若松英輔の『常世の花 石牟礼道子』を読む。ちょっと勘ちがいしていたが、本書は評伝の類ではなく、短文や石牟礼さんとの対談などを含めた、雑多な本であった。そのせいか、三十分ほどで読み終えた。若松は石牟礼さんに信頼され、彼女が亡くなる直前にもわざわざ会うことを求められているほどである。あいかわらず深くて読みやすい文章。個々の文章について感想を書いてもよいのだが、本書を読み終えて、これは若松か自分か、どちらかがニセモノなのだなと強く感じたことを記しておきたい。そして、結論的にいえば、ニセモノなのは自分の方であると思う。若松英輔の文章は偉人たちのオンパレードであり、自分のような霊性の低い人間のいる場所はない。いや、そのような考え方をするだけで既に碌な者ではなかろう。ただ、自分が言いたいのは、石牟礼さんの文章には我々凡人のいる場所もあるということだ。これからも石牟礼さんを読んでいきたい。それに、若松英輔も。

常世の花 石牟礼道子

常世の花 石牟礼道子

しかし、わたしは本というものを読んではいないのだな。読むというより、眺めているようなものである。だから能力不足でそれのできない、外国語は苦手だ。

しばしば小林秀雄はモノローグの人であるといわれる。自分ひとりでぶつぶつ言っているだけだということであろう。さて、わたくしもまたモノローグの人なのであろう。よくいわれる、「他者がいない」というヤツか。

1500ページもある『田村隆一全詩集』を読んでいるが、マジカッコいいぜ。まったく俺はクソだな。

神は
たった六日間で
ぼくらの世界を創ってしまったというのだから居心地の悪いのも無理はない

ハハ、こいつは笑うぜ。そのとおりさ。俺にキリキリのドライ・マティーニをくれよ。カッコつけるからさ。俺もよ。

おまけに気まぐれで神経質な神は
七日目にその手を休めてしまったのだから
かわりにぼくたちは働かなければならないのさ

こともなし

晴。
寝坊。

NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第一番 BWV1066、第三番 BWV1068 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団NMLCD)。

火野正平さんの「こころ旅」が今週は岐阜県なので、とりわけ楽しみにしている。ああやって映像で見てみると、濃尾平野でかいなとか、恵那の山奥よいなとかちょっとうれしくなる。変なものですね、愛郷心というのは。まあ岐阜というと高山とか郡上とか下呂温泉とかであるかなあであるが、他は特に何もないけれど(鵜飼?)、それでも自分の故郷なのだなあと思う。ウチのあたりは郊外化しつつある無個性な町ですけれど、それでもここしかないしな。それで何の不満もないね。

岐阜県といっても、自分はたぶん美濃の意識が強いのでしょうね。飛騨の人は岐阜よりも飛騨を意識しそうである。そう思うと、昔の国名というのは割と自然な区分な気もするな。僕は美濃に住んでいるのだけれど、飛騨は高級な感じがする。それから、美濃でも自宅からは離れた東濃とか西濃の方が文化的な感じがする。各務原って、人によっては自衛隊の飛行場だし、また何もない殺風景な土地と思う人もいるだろう。実際そのとおりで、自分の愛郷心がどこにあるのか不思議である。どこかにあるのだけれど。

いつも愛読しているブログで、四方田犬彦さんの「鳥を放つ」という小説が読まれていた。最近の文芸誌に掲載されたものということで、自分は知らなかった。ある意味ではかなりきわどい小説のようである。「実際にあった人事スキャンダル」の「東都大学」というのは東京大学で、「李家堂直輔」というのは中沢新一さんであろうか。僕はこの話もあまり知らなくて、ただ当事者の西部さん(だったっけ)の暴露的文章を読んだくらいだ。それはいいので、四方田さんであるが、自分の印象ではこの人、かなり悪口を言われる人であるというそれがある。この小説も、ちょっとブログ記事を読むと露悪的な印象で、また人から嫌われるかも知れないなと思った。でも、自分はそんなこともまあどうでもいい。四方田さんは自著をあまり文庫本にしないので、文庫本の人であるわたしはあまり読んでいないのだけれど、図書館から借りて読んだものも含め、おもしろくなかったものはひとつもない。特に外国を訪れるものが好きで、いつもすぐに現地で親しい知人を作ってしまう能力には魔術的なものを感じる。現代思想的な本はまあそこまで好きではない。この人、何でも楽々こなしてしまうのが嫉妬を買うのじゃないか知らん。でも、吉本さんは四方田さんを最大級に評価しておられましたね。『先生とわたし』とかはめっちゃおもしろかったが、自分でこれは嫌われると思いながら書いたのではないだろうか。今回の小説はさらに露悪的っぽいのだろうか。やけくそなのか何なのか、四方田さんはどこへ行ってしまうのか。どこかで出会ったら読んでみたい小説である。

ちょっと吉本さんを思い出したわけだが、吉本さんはひどい罵倒をする人で、吉本ファンの僕も罵倒はもちろん好きでないのだけれど、吉本さんは嫉妬というのはまるで、これっぽっちもない人だったというのは理解されているだろうか。まあ変な話、吉本さんは自分の能力を正確に知っておられたし、他人の能力もすぐわかってしまう人だったので、そういう人はたいてい嫉妬しないものである。例えば浅田さんなどを口を極めて罵倒したが、『構造と力』の本質的な新しさに素直に驚いたのをまったく隠しておられない。嫉妬ってのはいやなもので、自分のことはまあどうでもいいのだけれど、自分がアホだと気づいてからあまり他人の才能に嫉妬しなくなったように思う。でも、自慢癖はなかなか治らない。これ、むずかしいですね。承認欲求と共に、凡人はある程度しかたがないのじゃないかな。

わかっている人には当り前のことだが、学者とか芸術家の世界というのは、すごい嫉妬の世界である。それはいまの若い人たちでも同じですね。子供みたいなもので、自負と嫉妬をまるで抑制することもなく見せつけていて、じつに不思議な感じがすることはしょっちゅうである。あれって、わざとやっているわけではないのかな。知識人というのでバカになれる人というのはほとんどいなくて、例えば僕は山形浩生さんはあまり好きな人ではないのだけれど、意識的にバカになれていてそれは本当にリスペクトする。でも、山形浩生さんの飛び抜けた頭のよさと率直さを尊敬する人はたくさんいても、バカになれる(stay foolish)ところをマネする人はほとんどいなくて、わかってないなあという感じ。まあ僕なんかはただバカなんですけれど。

あんまり書きたくないけれど、ネットもすごい嫉妬の世界ですね。自分のブログの過去記事も、それを免れていない。なかなかね。ここでちょっと弁解しておくと、僕がネットを見ていてむかつくのはそれほど嫉妬ではないと勝手に思っています。無意識の嫉妬はあるかもしれないけれど。たぶん、人間を信じていないとはいいつつ、まだどこかで人間に期待しているからそうなるのだと思う。また吉本さんだけど、吉本さんはある人に「まだ絶望が足りない」と言った。この言葉はよく思い出します。上から目線っぽくてごめんなさい。

ああ、どうでもいいことを長々と書いた。ちょっと気が弱くなっている。

昼過ぎ、ものすごくひさしぶりに県図書館へ行ってみた。母の入院のときに返却に行って以来である。酷暑。初めて二階の郷土関連の棚から借りた。高校の先輩に当たる、世界的物理学者の大栗先生の本があるからだ。他にもいろいろ興味深い本があって、こういうのはさすがに県図書館だなあと思った。それから田村隆一全詩集を借りたのだが、分厚すぎて貸出の機械で借りられなかった。なのでカウンターで借りる。あと、アエネーイス、川村二郎訳のヘルマン・ブロッホエリアーデ著作集、吉本さんの全集など。ハードなのばかりなので読めるかな。たぶん一部しか読めまいな。

北田暁大『終わらない「失われた20年」』

休日(海の日)。曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。ピリスは DG 時代よりもこの Erato 時代の方が好きという人がいるが(さらに DENON 時代の方が好きという人も笑)、わかるような気がする。■オネゲル交響曲第一番で、指揮はシャルル・デュトワバイエルン放送交響楽団NML)。まさにこれぞ通俗という音楽。だからどうということはないのだけれど。デュトワはこういう曲はじつに上手い。BRSO の柔軟な弦も魅力的。

Honegger: Symphonies 1-5 / Pacific 231 / Rugby

Honegger: Symphonies 1-5 / Pacific 231 / Rugby

  • アーティスト: Arthur Honegger,Charles Dutoit,Symphonieorchester Bayerischen Rundfunks
  • 出版社/メーカー: Warner Classics
  • 発売日: 2016/08/01
  • メディア: CD
  • 購入: 2人 クリック: 9回
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酷暑。昨日より暑くて、車外は 39℃ある。
カルコス。さほど買えなかった。ひさしぶりに北田暁大を読もうと思って買ってきた。あとは「群像」の中沢さんの連載を立ち読みし直し。

北田暁大『終わらない「失われた20年」』読了。大変に刺激的でした。読んでよかったと思う。自分は社会学的な世界の「切り分け」にかなりうんざりしているが、それでももう少し勉強しないといけないなと思わされた。それからあと、いつも書いているけれど、自分はもはや何の意味もない(確信犯的)「ロマン主義者」になっているなということ。まあこれは自分の生き方なのでどうするとかいっても意味はないが、とにかくもう自分のやっていることは意味がない。さらに、そういうことをいうのも意味がない。
 本書の中身もかなりおもしろかったが、この北田暁大という自分より少し若い知識人そのものもなかなか興味深いなと思った。自分はどうしようもないパヨクだが、北田氏はシニシズムアイロニーを嫌うまっとうな「左」の人っぽい。北田氏に限らず、現在の知識人研究は個人的に(テキトーに)続けていかないとなと思った。それから、日本の「左翼」はどうしてこうも(経済)「成長」がキライなのかという著者のいらだちは、まったくよくわかる。まったくもう少し経済がわかっていないと、決して野党は安倍政権に勝てない。その認識はそのとおりだと思った。
 それにしても、北田氏は東京国の人だなあ。自分は東京国のことに本当に無知であるし、あまり興味もない。まさに、滅びてよしという田舎者なのだった。

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

しかし、エビデンスとロジックで語るといういまどきの若い学者(まあ北田先生はもうそんなに若くないですが)のやり方は、基本的に正しいと思うし、頼もしい。ただ、わたくしのような蒙昧主義者の意味がまったくないとも思わない(というのは、事実というよりもそう思いたいだけであるが)。まあしかし、蒙昧主義者というより、頭が悪くて勉強していないだけかも知れず、そこらあたりは気をつけないとなと思っている。若い人で「左」に親和性のある人は、北田先生を読むのはいいのじゃないのかな。

僕がどうしようもない人間だというのは、北田先生が徹底的に批判する源一郎さんとかが好きだからですね。僕は「正義」の北田先生よりも、いいかげんでバカな源一郎さんが好きである。それに加えて、あのどうしようもなく「凡庸なオカルティスト」中沢新一の大ファンなのだ。まさに死んでしかるべし、クズの見本であるな。

でも、マルクス・ガブリエルを読むより北田先生を読む方がまったくマシじゃないかな。って何でそういう比較になるかっていや意味ないテキトーなのですけれどマルクス・ガブリエルって本当に大したことないと思いますよ。まあ、いまだに舶来品を祭り上げたいという奇習が生き残っているわけだが。いっておくけれど、自分はマルクス・ガブリエルに何の含みもないですからね。実際に読んでみれば、誰でもわかると思う。いや、じつはバカには何もわからんけれどな。それがバカだから。

また石牟礼さんを読んでいる。どんどん読みたいのだけれど、自重して少しづつ読んでいる。さて、僕はふつうに田舎に住んできて、田舎というのは全然いいものではないと知っている。田舎の人間は、イヤな人たちである。ヨソモノを嫌うだけではない。人の不幸が好きであるし、人のうわさ話が好きで、それはほぼ100%悪口だ。誰もが陰では自分も悪口を言われていることを知っていて、それでもそこにいない人間の悪口を言って、見かけは不幸の同情なんかをしてみせる。というのは、別にめずらしい話でもなくて、きだ・みのる(ってわかるかな)さんのレポートなんかは古典的だ。石牟礼さんも、そういう世界をよく知っておられるのだなとわかった。まったく、庶民というのは不思議なものである。そういう人たちはしかし、悪人というわけでもないのだ。時として義理堅く、あるいは情深くなったりするのも彼ら彼女らその人なのである。
 それに、昔(っていつのことという問題があるが)の農民の生活は大変だった。農家の嫁などは、嫁いでのち一生大変な労働の中で死ぬまで働かねばならなかった。石牟礼さんはここでも、そういう農家の嫁のつらさを散々体験されている。そもそも農家の嫁である石牟礼さんがものを書くようになったのも、自分の中にあるつらさが、(夫を含めた)誰にも相手にされなかったからであったのだ。嫁など、人間扱いされていなかったのだ。石牟礼さんの実父などは、彼女が水俣病について書くようになって、アカみたいになりおって(っていまの人にわかるだろうか)と石牟礼さんに憤りつつ死んでいったそうで、石牟礼さんはすまながっている。まわりの人たちの反応もそうで、彼女が大変に高名になったがゆえに、最近では多少は見方が変ったかもというくらいであったわけだ。
 むずかしいものであるな、人間というのは。自分ごときには、一生かかっても解きほぐせまい。

さても、仮にいまがダメであっても、かつてがよかったとは軽々しく言えない。むしろ、いつの時代であっても存在は一切苦であるというのが正しいのかも知れない。あるいは、意外とそういう認識こそが洒脱な生への捷径ではあるまいか? 逆説的ではあるが。


ああ、そうそう、ふと思い出したので書いておく。石牟礼さんは子供の頃というか、幼児の頃に、母親が田仕事をする際に畦に仰向けに寝かされていて、あたりの雰囲気を感じながら青空を見つめていたことを、さりげなくではあるが何度も書いておられる。これはこの先石牟礼さんを読み解く方に、覚えておいてもらいたいエピソードである。例えば中沢さんが、アボリジニの人々がイニシエーション(だったと思う)の最中に、岩の上にあお向けに寝転がって、青空を見つめる体験をしていたのではないかと推測しておられるのが思い出される。また、柳田国男が自伝的文章で、子供の頃昼間の青空に星のようなものを見て、それであやしい感覚になったことを書いているが、これも同等の体験のように思われる。以上、何でもないことながら。

青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ嬰ヘ短調 BWV910、ニ長調 BWV912 で、ピアノは近藤伸子(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はカール・ベームウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。ポリーニベームの「皇帝」である。超ひさしぶりにこの録音を聴いたのだが、圧倒的な感銘を受けました。ポリーニとグールドは自分の出発点のいくらかであるが、それは決してまちがっていなかったことを確信した。それにしてもすごい突き抜けぶりである。ミケランジェロが永遠であるように、音楽を聴く人がいる限り、ポリーニの七〇年台の録音は再現芸術のひとつの頂点として参照され続けることであろう。まさに「最後のピアニスト」である。それにしても、ポリーニも自分も、いまやここから遠いところまで来てしまったなと思う。ちなみにいま聴いたものはリマスタリングがやり直されているのか、自分のもっている CD より明らかに音がよい。若い音楽家に刺激されて、ベームの気合が入りまくっているのもよくわかるようになっている。

Complete Concertos

Complete Concertos

■リストのピアノ・ソナタ ロ短調で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。1966/11 Live. この曲のリヒテルによるライブ録音はたくさん種類があって、自分はどれくらいあるのか知らないが、自分が聴いた中ではもっとも破綻の少ない演奏であると思う。ピアノ・ソナタ ロ短調の録音としては、自分はベルマンとポリーニのそれが双璧だと思っていて、リヒテルのは聴くのがちょっとこわい。リヒテルは人間にはほとんど不可能な演奏を指向しているからだ。これは、人間のほぼ限界だと思う。崩壊しない方がおかしいくらいで、この演奏ではぎりぎり持ちこたえていて、音楽を聴いているのだか何だかわからない緊張感がある。時期としては、リヒテルの全盛期であろう。この曲を楽しむ向きとしてはあまりおすすめしない。そんな演奏である。なお、余裕をもって弾かれている部分は、超一流の美しくて深い演奏である。それで終わらないのがリヒテルであろう。
2 Piano Concertos / Piano Sonata

2 Piano Concertos / Piano Sonata

ブラームスの二つのラプソディ op.79、三つの間奏曲 op.117 で、ピアノはイーヴォ・ポゴレリチNML)。世の中にはポゴレリチ教徒というものがいて、ポゴレリチの演奏を特別に熱狂的に祭り上げている。チェリビダッケ教徒みたいなものであろうか。自分は残念ながらポゴレリチ教徒ではないのだが、かといってポゴレリチがきらいどころか、彼は好きである。このブラームス集もすばらしい。ポゴレリチは確かに特異なピアニストであるが、決して曲の精神に反する演奏をするわけではない。もしそうなら、自分のような保守的な耳が受け付ける筈はないのである。これも、カッコいいブラームス。op.117 に 19分以上かけるのもすばらしい。ただ、ポゴレリチは(自分はであるが)あまり繰り返して聴く気になれないのもまた事実である。一度聴くだけなら新鮮であざやかなのであるが。 

同時代のレヴェルが低い中で自分もそのレヴェルの低さにつきあっていくことは必須であると思えるが、その中で自分のレヴェルを保っていく仕方は自分にはわからない。基本的に自分には確固たる「自分」というものがないし、もともとレヴェルも低いので、結果的に自分のレヴェルも低徊してしまう現状に陥る。実力がないとはこのことであろう。結局、レヴェルの高いものとつきあって HP を回復させるというのしかなくて、そうすると現状から離れてしまうことになる。どうしたらよいものだろうか。いまをレヴェル高く生きているひとを探さないといけないのだが、アンテナも狭いし、そんなにたくさんは見つかっていない。ホント低レヴェルな悩みなのだけれど、結構深刻である。自分のようなニセモノで、同じような問題を抱えているひとっているのではないだろうか。

結局、いまの大多数の人のように「レヴェルなんて低くていいじゃん」「ふつうでいいじゃん」っていうふうに思えないのがいけないのだよね。もちろんある意味では「ふつうでいい」のは当り前で、その意味では吉本さんなんかは極「ふつう」の人だったのでそこがすごいのだが、いま言っているのはそういう意味ではない。なんつーか、うんこくさくて無知で幼稚くさいのは生理的嫌悪感をどうしても覚えてしまうのだよなあ。自分のそういうおしっこくさいところもイヤだ。そこがおかしいのかも知れない。皆んなで白痴になりましょうというおりこうたちに賛同できない。

つーかさー、おりこうたち見ていると、「お前らってじつはクソじゃね」って自分ごときが思ってしまうところがあるのだよなあ。頭はいいのだけれど、倫理的に突き詰めたところがまったくない。頭がいいことがすべてだと思っている。自分のまわりにもよくいたよ、そういうヤツ。自分はエリートじゃないけれど、ある時点まではエリートたちの真っただ中で生きてきたから。

何だか話が逸れてった。まあどうでもいいのだが、「文学」とか「哲学」(古くさい意味での)がないのだよね。薬にしたくてもない。それは別に、一部のよくわかっていない人たちが考えるような、ポストモダニズムのせいなのではない。ポストモダニズムはもはや死んでいるものを御臨終と言っただけで、じつはそれらを延命させようという試みであった。まあ、必ずしもそれは成功しなかったのだけれど。それの成れの果てが東さん界隈なのだよな。あそこが終っているのは、いや、仮に終っているとすればそのためなのである。おりこうたち。どうでもいいか。

でも、戦線はバラバラだけれど、同じように孤独で特に知られることもなく戦っている人たちがいるのも事実だ。そういう人たちには、あらゆるちがいを超えて勇気づけられるところがある。別に戦っているそぶりも見せず、ただ困難な状況をなんとかして生きているだけでも同じことである。そういう人たちは、極少数ながら確かに存在する。まったく目立たないのだけれど。

現実の幻想性。我々の現実は、夢やまぼろしとまったく同じような幻想の構造をしていると中沢さんは言っている。というか、仏教という心の科学が明らかにした事実だ。(西洋の方から迫ったってもちろんよい。仏教ほどシンプルには言っていないが。)それを徹底的に知ること。平凡だが、修行とはまさにそれだ。


カルコス。「群像」の中沢さんの連載を立ち読みし直す(こればかりですね笑)。前読んだときは細かいことがだいぶわかっていなかった。フロイトの Das Ding は事事無碍法界そのものではないのだ。事事無碍法界は言葉で捉えることはまったくできず、それは言葉が時間的にリニアな構造をもっているからである。それに対し、事事無碍法界は過去・現在・未来が互いに相即相入しあう、時間を超えた領域だ。といって、自分にそのことがよくわかっているのでも何でもないが。レンマ的領域の探求は華厳から「大乗起信論」に至って、それから発展していないというきわめて難解なものである。中沢さんは、それを現代的な装備で大きく前進させようという驚くべき試みに取り組んでいるのだ。とてもではないが現在の自分のレヴェルを遥かに超えているのだけれど、連載が楽しみでしようがない。連載が終ったら、できるだけ早く単行本化してほしいものだと切望する。
 事事無碍法界はある意味では機械のように動作するのであるが、中沢さんはそれに関して、ガタリの「機械状無意識」の概念を評価している。これは、ラカンのさらに先にあるらしい。ガタリというのはおもしろい人だったな。しかし、これじゃ自分に事事無碍法界がわからなくても当然という気がする。ひよっこやからね。

ミスタードーナツ イオンモール各務原店。ホット・スイーツパイ りんごとカスタード+ブレンドコーヒー486円。青木やよひ先生のベートーヴェンの伝記を読む。エロイカ交響曲のあたりまで読んだが、放っておくといつまでも読んでいそうなのでとりあえずそこまでにした。ベートーヴェンの若い頃の話であるが、彼は人に恵まれていますねえ。父親がアル中だったり母親が早死したりして子供の頃は大変苦労しているのだが、まわりの人たちが彼の驚くべき才能にすぐに気がついて、厚遇してくれる。また、彼の紋切り型イメージである「努力家」というのはやはり事実で、ウィーンへ出てきてすぐに注目され、あっという間に若手 No.1 の音楽家として大成功してしまうのだが、それでも当時の何人もの大家たちに師事して真面目に課題をやっているのですね。それが実際に残っているそうで、例えばかつてモーツァルトのライバルだったとされるサリエリからも、かなり長い間教わったそうだ。声楽の扱いなど多くを得ているらしい。もちろんハイドンに師事したのは有名だが、これも在来の説どおり、あんまり細かいことは教えてくれなかったようである。ただ、ハイドンが若きベートーヴェンを最大級に評価していたのもまちがいなく、ベートーヴェンはそのうちヨーロッパ最大の音楽家になるだろう、自分はその師とされて光栄だみたいな文章が残っているくらい。基本的にはバッハとモーツァルトを咀嚼して身に付けたのだが、何といってもベートーヴェンは当時の「最先端」の音楽家で、そういう先端部分は実際の師事から多くを得ているということです。
 それから、ベートーヴェンは恋多き人だけれども、醜くてエキセントリックだったので女性からは相手にされなかったという俗説があるが、これは俗説にすぎないようである。確かに美人は好きだったようだが(自分も好きである笑)、ベートーヴェンは才能ある女性には、どちらかというと同志的な感情をもって、相手をリスペクトしつつフランクに付き合うのを好んだらしい。当時はまだ女性というと恋愛の相手か結婚の相手としか見做されてなかったので、進んだ女性たちはきっとうれしかったと思います。まあ、恋愛もあったらしいが(笑)。
 で、やはり避けては通れない、ベートーヴェンの「難聴」。最終的には完全に聞こえなくなってしまうのであるが、我々はついその事実を忘れてしまうくらい、その音楽はすばらしい。まあグレン・グールドみたいに口の悪いことに、彼の耳の聞こえていた時代の音楽こそがよいとか、ひねくれたことをいうヤツもいるが(笑)。しかし、音楽史上最大の音楽家の耳が聞こえなかったというのは、何かふしぎなものがあって、あらためて驚かされる。でも、「遺書」も書いたくらいだが、それは死後見つかったもので、まわりの人に弱音を吐くようなことはなかった。実際、その時期の音楽はどれもとても充実しています。「難聴」が彼の意識を変えたということはあったと、著者は資料を紐解きつつ述べている。そこで自分の「音楽的使命」のようなものに気づき、ここで我々の知るベートーヴェンが誕生したのであると。
 本書はじつにおもしろいが、ただもともと新書だったせいで、楽曲分析の類がないのだけは残念。紙幅が足りなかったのであろう。さて、続けて読みまする。

そうそう、おもしろいのは、ベートーヴェンは自分のライバルになりそうな同時代の音楽家たちと、ライバルというよりはすぐに友達になってしまうのですよね。当時は公開の場でピアノの腕比べみたいなのがあったのだが、ベートーヴェンに叩きのめされたヤツがそのうち友人となって出てくる(笑)。本書を読んでいると、ベートーヴェンは本当に変人だったのかと疑われる。とにかく、深い付き合いの友人が多いし、若い人にはやさしくてよく面倒をみている。そういう感じです。


青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』読了。上にも書いたが、おもしろかった。一音楽ファンとしては、ベートーヴェンの伝記として充分であると思う。曲そのものについての記述が少ないのは、多少残念であるが。ベートーヴェンの女性関係の話もまあ興味深いし、ゲーテとの交流は感動的だった。ゲーテベートーヴェンと会って直ちに魅了され、そののちも高い評価を変えることはなかったし、ベートーヴェンの方としても多少の行き違いはあったが、ゲーテの真意を悟ったのちは最大級のリスペクトをゲーテに示して渝ることがなかったのだ。
 しかし、やはりベートーヴェンは変人といえば変人だったようですね(笑)。というか、曲の精神そのものの人であったようである。ベートーヴェンに会った中で鋭い感受性をもっていた人(女性が多かった)は、彼の精神が自分たちの遥か先を行き、凡人が追いつけるものかどうか疑問に思うほどであったと。これもまた、彼の作品どおりともいえるだろう。ベートーヴェンの音楽はロマン派に継承されて爆発的な音楽語法の拡大を見たが、フマニタスの発現としては事実上ここで音楽は終ったと見做す人も少なくないし(例えば浅田彰氏)、自分もまたそれに賛同する。
 しかし自分はよく知らなかったが、アドルノは最晩年の弦楽四重奏曲たちをしてベートーヴェンの音楽の崩壊であるとし、エドワード・サイードなどはそれを受け継いでいるとのことで、それは少々意外だった。アドルノやサイードはそんなことを言っていたのか。もちろん彼らは専門的な知識と強靭な理性の持ち主であり、自分がどうの言える存在ではないのだが。自分はベートーヴェン最晩年の弦楽四重奏曲たちをめったに聴かないが、それはあまりにも深遠なものに日常でそうそう触れているわけにいかないからである。まあ、自分がまちがっていてもよいのだけれど。
 結論的に、やはりベートーヴェンは真面目で偉大なひとでした。山口昌男氏に反論できなくて残念である(笑)。

ベートーヴェンの生涯 (平凡社ライブラリー)

ベートーヴェンの生涯 (平凡社ライブラリー)

これはどういうことなのかよくわからないのだが、ベートーヴェンは耳が完全に聞こえなくなってからも、自分の目の前でなされるピアノやヴァイオリンや声楽の演奏をじっと見ていて、その演奏の良し悪しがわかったようである。的確な評価をしたり、一音でもまちがえるときちんと指摘したりしたらしい。まあ目で見てわかったのだろうが、不思議な話である。それから、自然を愛した彼は、森の中で妖精の子どもたちが跳ね回る幻覚を見て、曲にしたり(第九交響曲スケルツォ)しているらしい。どうも、その精神は古代人のように、とてつもない深みにまで達していたようだ。

こともなし

晴。

大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・セイボリーパイ フランクフルト+ブレンドコーヒー386円。小林信彦氏のエッセイ集を開く。クロニクル、2011年度版だ。震災その日の記事まで読む。政府への不信があらわ。僕も最近までは当時の管政権をバカにしていたところがあったが、いまは必ずしもそうでない。原発事故時の政権内部のドキュメントを読んだからである。管首相は理系であり、しかもたまたま原子力工学に通じていた。そのことが事態への対応において果たした役割が意外に大きかったと思っている。また、変な話だが肝も座っていた。当時官房長官であった枝野氏が「管さんが首相でよかった」と言ったとされるが、肯われるところがある。いや、つまらないことを書いた。

ひさしぶりに虹を見た。虹を見るのは、何故か車に乗っているときが多い。行きはぽつぽつ雨が降っていたが、きれいに上った。

植山類さんが日本で仕事をしていたとき、技術のわからない上司にプログラムの解説をするというのが大きな仕事のひとつだったそうである。まったくバカバカしい話だが、最近でも事情がそれほど変わらないらしいのは、驚くべきであるというか、ほとんど絶望的な話である。もちろん自分は IT業界の内部事情など具体的に知っているわけでないので、これが事実とちがえばむしろ喜ばしいことだ。いまの会社(米 Google)では、上司の方がやたらめったら何でも知っているとは植山さんの談だ。まあ上司がとんでもないハッカーだらけの Google と比較してどうするのということはあるが、日本との差は何なのだろうと思う。
 いま「裁量労働制」の導入が話題になっているが、これは明らかに「定額働かせ放題」を導入するということで、「産業界」とやらの希望であるそうだ。労働者の「派遣労働化」も同じようなことをやって、またかであるが、まあ企業もそうしたいなら勝手にすればいいと思う。しかし、これは明らかに労働者のモチベーションと所得と生活の安定を低下させるもので、そういう働かせ方をして本当にそれは企業のためになっているのか? 自分は企業という場所で働いたことはないが、社員のやる気を削ぐような企業がはたして国際的な激しい競争に勝ち抜けるものなのか? 人件費を削れば経営がラクになるという、確かにそれはそうだが、どうも近視眼的な、場当たり的な対応策だとしか思えない。どうでもいいことを書くが、僕が学生の頃、SONY は世界でも最高ランクの企業のひとつだった。その SONY は、先月発表されたことに 20年ぶりに最高益を更新したという。SONY の CEO は、「自分の社を 20年間超えられなかった」と、喜びの発言ではなかった。SONY の世界的な存在感の低下はもはやはっきりしている、というか、日本の若い人たちにも SONY など特に思い入れのある企業ではないだろう。これは確かに、長期に亙る日本経済の低迷のせいでもあるが、おそらくそれだけではあるまいと、自分は勝手に思っている。
 なかなか「日本などどうなろうと知ったことか」とは割り切れないものであるな。自分は何でも日本がいちばんだった、あの 80年代に育ってきた人間なのだなと思う。確かに、その当時から同時代に対して納得のいかないものを抱えてはいたけれど。自分はたくさんのエリートの卵たちと共に育ってきたが、彼らを見ていて現在の日本はほぼ予想できていた。しかし予想どおりになったとはいえ、まさか本当にそうなるとはという気持ちも大きいのである。自分自身もまた無力であった。何ひとつ決壊を止めることに貢献できなかったという気持ちがある。
  
植山さんなど典型的にそうだが、いまや日本人の優秀な人は、企業であれ学術であれ、もはや日本では働かないという時代になってきた。いや、理系の学問などは僕が学生の頃からそうではあったのだが、それが全面化しつつある。誰が衰退の始まった国で、魅力的でない職場で働きたいか。特に、中国という距離的に近い存在が魅力的になってきた。学術分野でも、世界から中国へ留学する学生の数は日本の大学生の総数と同じくらいになったという。日本からも中国へ優秀な人材が留学するという時代が必ずくる。それにしても、文科省はこの期におよんですら「選択と集中」を止めようとしないのには何ともいう言葉が見つからない。本気で日本の学術(特に理系)を崩壊させるつもりなのか*1。(既に手遅れに近いが。)これまで、このような愚かなことをやった近代国家は他にはない。どうしてこの問題が国民の間で共有されないのかも謎である。マスコミもまさか何も知らないのか。それともバカすぎて事態が理解できないのだろうか。

エラソーなこと書きすぎた。
夜のニュースを見ていたら安倍首相、「裁量労働制」は撤回だそうである(笑)。

早寝。

*1:日本の学術の国際的な地位の低下については、外国では既に研究の対象になっている。自分は読んでいないが、確か「nature」誌も特集を組んでいた筈だ。

『ハーバート・スペンサー コレクション』

晴。
よく寝た。12時間くらい寝た。昨日はなぜかすこぶるしんどく、早く寝てしまった。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十八番 op.101 で、ピアノはフォルデシュ・アンドール。これはめったにない優れた演奏。しかしこのレヴェルでも忘れられてしまうのか…。


シューベルトの三つのピアノ曲 D946 で、ピアノはヴァルター・ギーゼキング。リコメンドにギーゼキングシューベルトがあったので、つい好奇心で聴いてみた。驚いた、すごくよかったのである。ギーゼキングというのは変な(?)ピアニストだな。いわゆるザハリッヒなピアニストであり、何を弾いてもいわばまるで機械のように演奏するのだが、それがいいというね。何だかこの人、自我がないみたいな感じがする。こんなピアニストは他にいない。

Linux Mint に不具合が出て、マウスでのクリックが全然できないようになってしまった。ファイルシステムの不具合でもなさそうだし(GRUBリカバリモードで立ち上げてチェックしてみた)、システムを再起動してもダメで、たぶんアップデートのせいだろうとは推測されたけれど、どうも雲をつかむようでさっぱりわからない。ただ、[Ctrl] + [Alt] + [F1] で tty(仮想コンソール)には入れたので、これから $ sudo timeshift を実行したところ、再起動で正常に立ち上がった。ふう、助かった。
 timeshift は Linux Mint 18.3 へのアップグレードの際に導入を推奨されたもので、システムのバックアップを自動的に取るツールである。Windows の「復元ポイント」みたいなやつ。バックアップの実行時に CPU に負荷がかかって多少フリーズするのでちょっといやだったのだが、助かりました。しかし、何が悪かったものか。システムのアップデートには少し時間をおこうと思う。
 なお、/home 以下の個人用のファイルは定期的に簡単にバックアップが取れるように Rubyスクリプトを組んでいるのだが、今回は必要なかったけれどやはりこまめにバックアップしておかないといけないことがわかる。特に SSD は死ぬときは一瞬らしいので。HDD だとたいてい徐々に弱っていくのでわかるのだけれど。

アベノミクスはベストの方策ではなかったが、日本経済を確実に好転させたという証拠は日々様々なところで既に検証されている。もはや、まともな経済学者でアベノミクスを否定する者はほとんどいなくなった。実際、アベノミクスで日本は崩壊すると騒ぎ立てた「予言」が、どれも的中しなかったことからも明らかなことである。ちなみに、日本の「国債の借金」で日本が崩壊すると騒ぎ立てた「予言」も、まったく的中せず、その反対の結果が出ていることも明白であろう。
 しかし、前途が明るいとはいえない。安倍首相は将来のさらなる消費増税を明言しているからである。8%への消費増税は明らかにアベノミクスの中の失敗のひとつであった。これを突く野党がいないのは奇っ怪である。むしろ消費減税が必要である。
 また、アベノミクスのおかげで日本企業は一息つくことができたが、日本企業の世界的な存在感の低下は急速である。これはアベノミクスのせいというよりは、日本人の「劣化」のせいなのかもわからない。もちろん「日本人の劣化」というのは印象でしかなく、まったくの裏付けを欠いているし、まあ遊びみたいな話である。このブログでも何度も書いてきたが、日本企業は「IT革命」に完全に乗り遅れた。いまや、世界的に存在感のある IT企業は、日本にただの一社もなく、中小企業でも世界的に有望なIT企業に育つと思われる存在は 0 である。IT企業の存在感という点で、日本は先進国ではない。
 また、一般的な電気・家電分野でも、じつは日本の存在感が既に低下していることは、意外と(日本では)知られていない。日本でのイメージでは中国・韓国・台湾のメーカーの製品は低品質でも安いから競争力があると思われているかも知れないが、事実は既にそうではなく、ヨーロッパの家電売り場などでも、高級品でかつ売れているのは中国・韓国のメーカーの製品であり、日本製品はむしろ中級品で、人気も苦戦しているというのが事実のようだ。いわば、「ものづくりの日本」の「敗北」である。まあ、勝ったとか負けたとか、どうでもいいことかも知れないが。

と、何も知らないくせに、エラソーに書いてみました。事実は皆さんでお確かめ下さい。まあ、ほんとどうでもいいことですね。

それから、アベノミクスの成功如何にかかわらず、「弱者は死ね」というのは現代日本のデフォルトになりましたね。今日も、いつも巡回するブログで「弱者を甘やかすからつけあがるのだ」という主張を見ましたが、いまやじつによく耳にする意見であります。まあ我々弱者としてもあまりこの世の中に生存していたくもないのですが、簡単に死ぬわけにもいかないですし、むずかしいですよね。でも、弱者を殺すのは強者としてもあまり得策ではないと思いますよ。いまや、ちょっとした運(のなさ)で、誰でも簡単に弱者に転落してしまい得るご時世ですから。まあそういうことはありえないという人には、関係のない話なのでしょうけれどもね。

ハーバート・スペンサー コレクション』読了。森村進編訳。

ハーバート・スペンサー コレクション (ちくま学芸文庫)

ハーバート・スペンサー コレクション (ちくま学芸文庫)

 

立場がちがえば、見えるものもまたちがう。その間を埋めることはむずかしい。
心が汚い。