マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』

雨。

自分のブログの文章がキモい。当分、仕方がないか。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ BWV846 - BWV849 で、チェンバロはルカ・グリエルミ(NML)。これはすごい。ひさしぶりに大物チェンバリスト発見の予感。

Bach: the Well-Tempered..

Bach: the Well-Tempered..

 
ウチの夏みかんマーマレードを作る。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十番 op.74 で、演奏はクァルテット・エクセルシオNML)。よい。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十四番 op.131 で、演奏はクァルテット・エクセルシオNML)。名演。■ラヴェルのピアノ協奏曲 ト長調で、ピアノはアレクシス・ワイセンベルク、指揮は小澤征爾、パリ管弦楽団NML)。ワイセンベルクと小澤というのが一見ミスマッチっぽいので聴いてみたら、おもしろかった。わたしはワイセンベルクはこれまでよくわからないという感じで、ただグールドの好きなピアニストという印象だった。でも、いいじゃないか。色彩感豊かで、クールなヴィルトゥオーゾだな。随分昔の録音だと思うが、若い頃の小澤征爾もいいね。でも、小澤征爾のよさって、言語化しにくいのだよなあ。なお、この曲がわたしは好きで、特に中間楽章はこんなセンチメンタルな音楽はない。涙腺がゆるむ。 
マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』読了。 
講談社文芸文庫小沼丹を読み始める。

夜。
録画しておいた、BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 1年の苦闘」を見る。先日の、地震津波の記録はただ呆然と見ていたが、今回のはほんとにつらかった。何と書いていいかわからない。最後は十年が経って、多少は希望の見えるような終わりに描いてあったが、本当にそう思ってよいのだろうか。「復興」は充分に進んだのか。わたしの狭い見聞では、とてもそうはいえない、という感じもするのだが、結局のところはわたしにはわからない。

田中小実昌『バスにのって』

晴。

中沢さんの『レンマ学』を読み返す。とりあえず最初からと思って読み始めたら、冒頭の数十ページのたんなる導入部で、中身が濃すぎて沈没。わたくし、ほんとまだまだだなあ。
 中沢さんはもはや東洋だの西洋だのという区別を超えて、一般科学における「レンマ学」的事象の漸次的な解明からのインパクトを語っておられるが、これは文字どおりの意味の他に、もはや東洋において「レンマ学」的探求が極度に先細りになっているという絶望的な現実が背後にある気もした。そこから、一般科学への接続を試みようというのは、信じがたい力技である。まさに、これから数百年の射程を見据えた、絶望的な努力だ。いや、そんなセンチメンタルに考えるのはたぶんまちがっているのだろうが。
 しかし、本書は現代における新しい「大乗経典」と見做すことも無理ではないだろうし、わたしはそのような読み方から多大な果実を受け取っている。井筒先生のエラノス講演という、ひとつの東洋思想入門書をいま読み進めているのと、だいぶ響き合っている感じだ。
 とにかく、まだまだぶ厚い壁がある。突き抜けていない。


昼寝。起きたら暑い。

珈琲工房ひぐち北一色店。オカタケさんの『明日咲く言葉の種をまこう』の続き。クソ生意気なわたしなんかだと「名言集」とかついバカにしたくなる悪いところがあるが、著者の心にちゃんと響いた言葉たちなのだなということがよくわかる本だ。時には「それはちがうんじゃない」と思うところもあるが、わたしが正しいとはいえないしね。文学からの名言が主ということはないけれど、やっぱり文学をよく読んでおられる人の選であり、文章だと思う。上から目線だったらごめんなさい。

明日咲く言葉の種をまこう

明日咲く言葉の種をまこう

  • 作者:岡崎武志
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
帰りに肉屋。

図書館から借りてきた、田中小実昌『バスにのって』読了。

バスにのって

バスにのって

 
池内紀モーツァルトとは何か』を読み始める。


解体され、白痴化していくわたし。読んでも見ても聴いても、瞬時に解体され、続けて読み、見、聴きすることが苦痛だ。これが、歳を取るということなのかなと思う。どれを読み、見、聴きしても、古いものも新しいものも、滅多に残るものがない。古い感性で充分で、新たな感性を開拓するまでもないし、そんなことを許してもくれない。
 何もかも退屈で、必死におもしろいものを探さねばならなくなって、初めて人生が始まったような気がすると、小林秀雄は随分と早い段階で書いていたと思う。わたしごときでも、その思いがよくわかる気がする。傲慢だろうか。
 いや、まだまだ修行の足りないわたしなんですけれどね。いま、吉本さんの晩年の本(『ハイ・イメージ論』)をテキトーにひっくり返しているのだが、ほんと、使い物にならない自分のレヴェルの低さを痛感する。インターネットなんかを見て、むかついていてどうすんだよって。
 しかし、わたしは本を読む力があまりないね。特に、下らない本を読む力がなくなった。あと、わかったようなことを書いている、わかっていない文章。わかるわからないって、それは何だと云われるかも知れないな。お前の書いているこれだって、そんなものじゃないの?とか。どうでもいいか。
 わたしの欲しているものは自分でわかっている。閉じていないものだ。窓が開いているものだ。わたしのスキルが上がれば、閉じたものでも対応できるかも知れないが。いやいや、傲慢なことをいうのはよそう。

『東洋哲学の構造』から、「4 東アジアの芸術と哲学における色彩の排除」「5 禅仏教における内部と外部」を読む。

世界を回転させる。

人生には意味がないという言葉遊びについて

日曜日。晴。

スーパー。

ウチでモズが二度目の子育てをしているらしい。今日、雛の鳴き声が聞こえたとのこと。ということは、先日巣に入っていったのは、抱卵するメスにオスが餌をもっていったのだ。いまも、二羽並んで電線に留まっていた。

長時間、昼寝。

なぜ人生には意味がないのか――野矢茂樹「解説」(中島義道『人生に生きる価値はない』、新潮文庫、2009年所収)より|山口尚|note
典型的な「言葉遊び」の哲学。言葉遊びの哲学がいけないというわけではない。さて、多くの人には、人生一般に意味がある、価値があるかどうかということよりも、「このわたし」が生きていて意味があるか、「このわたし」に生きる価値があるかということが重要なのではないか。それが、「人生」という言葉の言葉遊びで救われれば幸いというところである。わたしは、生きていて何の意味もない、価値もない自分というものをそのまま肯定することに、ひどく苦しんだので(いまもそれがゆるぎないものであるという自信はない)、「人生」という言葉をくるくる弄んでいられる人の幸福を、つくづく感じないわけにはいかない。


日没前、散歩。










いまほど歩いていてすばらしい季節は少ないだろう。暑くもなく、寒くもない。こんな季節は、長続きしない。

夜。
ブラームスの間奏曲集の CD を聴く。

10 Intermezzi

10 Intermezzi

  • アーティスト:J. Brahms
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: CD
若き天才によるピアノ。わたしを形作った一枚、というもののひとつであろう。

井筒俊彦『東洋哲学の構造』から、「3 禅仏教における意味と無意味」を読む。井筒先生流の、意味による禅的無意味の記述。

こともなし

晴。

大垣。いい天気で、運転するのにいちばんの季節ではないか。慣れた道で、何も考えずに運転だけしていられるのがいいな。
ミスタードーナツ大垣ショップ。クリームイン・マフィン アップルシナモン+ブレンドコーヒー。レジが新入りで、なかなか大変。まあ、誰もが最初は初心者だ。
オカタケさんの『明日咲く言葉の種をまこう』を読み始める。

明日咲く言葉の種をまこう

明日咲く言葉の種をまこう

  • 作者:岡崎武志
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
いまは引きこもりがちな生活を送っているのであるが、引きこもりでよくないのは、当然ながら視野が狭くなること。もっとも、これは長所にならないこともない。狭いところを掘り下げられるかも知れない。
 それからよくないのは、これも視野狭窄のせいで、自分ばかりが正しく思われがちなこと。ゆえに、寛容さも失われやすい。しかし、突き抜けていくには、世界を全否定したくなることもある。むずかしいものだ。
 引きこもって自分と向き合うことの危険は前に書いた
 まあ、引きこもりは他人にはあまり勧められないし、ひどいものだと病気とされることもある。そもそも、引きこもって幸せな人は少ないし、他人も幸せにできないことが多い。しかしそれが、社会的に何の意味もないかどうかはわからないし、弱くて価値のない人間が、生きていていけない世の中は息苦しい。

ひどくよい人間もひどく悪い人間もほとんどいなくて、合わせても全体の一割もいないだろう。大部分は、そこそこよくてそこそこ悪いだけの人間なのだ。

夜。
さくら荘のペットな彼女』最終話まで見る。

生の実存的基盤の破壊とフェミニズム

晴。

フェミニズムは理性による生の実存的基盤の破壊と関係がある(知的でないフェミニズムはない)。いまのフェミニズムの怒濤の一瀉千里は、この生の実存的基盤(これは想像界と関係している)の破壊を、我々の多くの(漠然とした)予想を遥かに超えて進ませることは明らかだ。これは、多くの精神的な「病」をも後に残すことになろう。以上のことは決して避けることができないゆえに、思想的な基盤の再構築は我々の緊急の課題となっている。正直言って、事態がこれほど急変するとは、わたしの予想外のことだった。

まずは、次に登場する世代を、あまり変わらない深部と変わりやすい表層のギャップという点に特に着目して、よく見ていくことが必要だろう。そのギャップは、精神的な「病」という形でも現れてくる筈だ。

つまりはさあ、派手にぶっ壊したのはいいんだが、でどうすんだよってことだよね。あとが、キメラみたいにぐちゃぐちゃになってるぜ。

母診察。
昼食はモスバーガーのドライブスルーにて。値上がりして、味も変った?

昼寝。
ごろごろ。


日没前、散歩。

シャガ。







ホケた土筆。
アニソンを脳内再生しながら、暗いこと考えて歩いていたり。

夜。
さくら荘のペットな彼女』第18話まで見る。

こともなし

晴。

スーパー。

無じゃなくてただの意識の空白になっている感じ。

「オカタケな日々」第50回更新。
「思って行動に移すことが大切で、重大ではないささいなことを億劫がって見逃すと、生活が痩せてしまう。」まさにそのとおり。何の話かというと、オカタケさんは観覧車が見たいというのである。栗木京子の「観覧車 回れよ回れ 想ひでは 君には一日 我には一生」なる短歌はわたしは知らなかったが有名なものだそうで、読んだ瞬間泣きそうになった。わたくしのセンチメンタルなことである。
 なお、春陽堂のサイトはコピペができないようになっているが、これはサイト製作者の思い上がりだと思う。どうせちょっと知っているものには無意味なのだから(例えば [Ctrl] + [U] とかでソースをみたらよい)、面倒なことはやめてほしい。99%の閲覧者は悪用しないし、悪用するような奴にはこんなもの通用しない。


昼から米屋。肉屋。マックスバリュ

蜘蛛の巣に引っ掛かってバタバタしているモンシロチョウを救出してしまった。蜘蛛には悪いけれども。自然の営みに介入してしまったな。


web岩波関川夏央の連載「人間晩年図巻」が最終回を迎えた。最後はやはりというべきか、山田風太郎だった。ウェブ連載というやつでいちばん楽しみにしていたそれだったのだが。
 何度も書くけれども、関川夏央はたいへんな実力者である。また、そのしみじみとした文章は他に求めがたい。仕方のないこととはいえ、オカタケさんとか、こういう人が侮られるのが現代という時代だ。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十八番 K.504 で、指揮はペーター・マーク、ロンドン交響楽団NML)。

 
昼食後、敷地内をぶらぶら。
20210407124051
暗くて狭い部屋にいると、どうしても自意識というものがざわざわと繁茂するけれど、外の美しい世界にいると自意識とか消し飛ぶな。

インターネットは腐った自意識の塊だ。
修行修行。

図書館。


田中小実昌『バスにのって』を読む。コミさんは初めて読むのかな(後記:ちがいました)。哲学好きのヒマ人と聞いていたが、どうしてどうして、映画は見るし、哲学書は読むし、それ以外の本も読むし、バスには乗るし、電車にもヒコーキにも乗るし、原稿は書くし、医者には通うし、それに毎日律儀に飲んでいる。全然ヒマじゃないじゃん。まあわたしごときと比較するまでもないが、敢てそうしてみると、わたしなんか睡眠以外は、ずっと何もせず部屋でごろごろしてるだけじゃん。さすがに気がとがめて、時々喫茶店とかでよくわからない本を読んだりもするが。ま、本書はおもしろいので、つい新幹線みたいに高速読書しつつあったから、テキトーに読みやめている。これもバス旅でないとね。

バスにのって

バスにのって

 
ブリテンのチェロ・ソナタ op.65 で、チェロはミッシャ・マイスキー、ピアノはリリー・マイスキーNML)。リリーはミッシャの娘。
祈り ~20世紀のメロディ

祈り ~20世紀のメロディ

■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 〜 Contrapunctus I - VII で、チェンバロトン・コープマン、ティニ・マトー(NML)。
Art of Fugue

Art of Fugue

 
夜。
さくら荘のペットな彼女』第12話まで見る。

しかし、このところ暗いブログになっているな…。現実逃避した方がいいような気もする。ひとりで深刻な顔をしたって、意味ないよ、ってね。