母退院

晴。

20200923085202青春ブタ野郎」おもしろくて、なかなか解体できなくてマジ困る。いろいろ考えていたが、まあここに書くまでもないことばかり。エンタメの感情移入みたいなことはちょっと意識的に考えていた。しかし、アニメとか見ていると、頭が中坊の頃から進歩していないんじゃないかと思う。もう、後期おっさんですよ(キモっ)。

しかし、大塚英志とか東浩紀とかのおっさんたちのオタク顔は何なのだろうね(コワいのでクリックしないように笑)。わたくしもマンガとかアニメとかいっていると、ああなってしまうのか。おそろしやおそろしや。(いや、ゴメンナサイ。リスペクトしております。)

午前中、母退院。結局懸念していたところは一応大丈夫ということで、退院してきた。丸三週間かかったな。
帰ってきて、「ウチはいいねえ」といった。

モスバーガーのドライブスルーでの昼食。
寝転がって、まずは今日からの献立の相談をする。まだ歩くのはよたよただし座れるのも短時間だけれど、これはまあ日にち薬だ。

昼寝。

夕飯はスシローでテイクアウトしたお寿司。ひさしぶりに三人での夕飯で、楽しかった。

早寝。

宇野重規『保守主義とは何か』

祝日(秋分の日)。晴。

ドリアン助川さんの『線量計奥の細道』の最終地点、大垣に着いて、ふと「奥の細道むすびの地記念館」なるミュージアムに入ってみる話がある。映像コーナーに立ち寄り、奥の細道の3D映像を見てみて、自分が旅してきた脳裏にあるものより、ずっときれいな景色がそこに写っていて、ドリアンさんがちょっと肩を落としてシアターを出てくるというエピソード(p.314-316)なのだが、まさにこれなのだ。へんな話、例えば写真共有サイトに人気画像として陳列せられているものたちも、我々がふつう体験するより遥に美しいそれになっている。これはいまの時代、我々がごく当り前に、ほとんど無意識として体験していることであるが、我々の生にじつは深く関係している現実であるといってよいだろう。

いまのアニメやゲームのフィクションの強度もまた、わたしのような後期おっさんには大変なものである。しかし生まれたときからこれが当り前な世代が、フィクションに合わせて外部世界を人工的に作り変えていくこともまた、特に驚くほどのことではないのかも知れない。都市の全面的な、蟻の這い出る隙もない、徹底した人工化と再構築。しかしそれは例えば田舎のイオンモールなどにおいて、もっとも巧妙に実現されている、という思いもないではない。

現代における物語は整流装置としての機能が第一義なのであるが、いわばそれを象徴界ではなく、現象論的に想像界において探求したい。でも、わたしには端的にそのための能力が足りない気がする。

今日は洗濯物が多くてちと疲れた。
スーパー。

昼食は冷やむぎ。

ごろごろしている。『大元帥 昭和天皇』の続きも読まないといけないし、ケンブリッジ・アナリティカ(って知ってる?)についての内部告発本も落掌しているので読まないといけないのだけれど、億劫。マンガを読むのはもっと億劫。なのでまたごろごろする。


図書館から借りてきた、宇野重規保守主義とは何か』読了。おもしろかった。著者のことは梶谷先生経由で読んでみようと思った。梶谷先生も著者もわたしの同世代の良質の学者であるといえる。つまり、バブル期に、わたしたちとはちがって、大学で真面目に勉強してきた人たちであり、わたしはそれだけでかかる良質な学者に敬意を抱きたくなる。わたしは本書のようなわかりやすい書物ですら、正確に理解できないほど勉強しておらず、恥ずかしいばかりだ。日暮れて道遠し。著者の本はもう少し読んでみたい。

 
夕飯は漬けておいた鮭を焼いたもの、冷ややっこ、市販の佃煮、昨日の残り物。


青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」第6話まで観る。
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現実世界 < フィクション総体の世界

祝日(敬老の日)。晴。
アニメっぽい夢を見る。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第五番 BWV816 で、ハープはクリスティアーナ・パッセリーニ(NMLCD)。すばらしい曲。

今日は洗濯も買い物もないので、朝からずっとごろごろ、何にもしていない、至福の時間である。切れ切れにふと気まぐれな想念が浮かんだりするが、それらはここには書かない。昼飯の準備に取り掛かるまで、あとしばらく怠惰にころがっているつもり。(AM10:34)

昼食はキャベツのカレー炒め、市販の佃煮、インスタントみそ汁。キャベツのカレー炒めはちょっと味が薄かったな。


とてもいい天気。気温は30℃くらいで、少し暑いがこれくらいならまったく大丈夫。わたしは「暑い暑いとうるさい」とよく笑われるのだが、近年暑すぎるのだよ。
TSUTAYA で長いこと真剣にマンガを選んでいるわたしはバカみたい(借りるのです)。いまのマンガ、全然わからない。
車で走るのが気持ちいい。


闇金ウシジマくん」第3巻まで読む。

闇金ウシジマくん 1 (ビッグコミックス)

闇金ウシジマくん 1 (ビッグコミックス)

  • 作者:真鍋 昌平
  • 発売日: 2004/07/30
  • メディア: コミック
 

日没前、散歩。

一昨日よりも大きく咲いている。




 
夕飯はゴーヤチャンプルーに、注文して届いた中華点心×2。


青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」第3話まで観る。
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大きな強度をもったフィクション総体(それは仮想的なものとしてとりあえず措定される)の世界がとてつもなく広がり、現実世界がその縮減として再構成されつつある。再構成された現実世界はフィクション総体より次元数が低く、フィクション総体はもちろん有限であるがゆえに、現実世界への無限の侵入は阻止される。もちろんフィクション世界が現実世界と混同されるというようなことはまずない。なぜなら、そこではフィクション世界こそがより高次の世界であり、より強いリアリティをもっているから。現実世界においてフィクション世界よりもリアルなのは、死しかないということが現実になろうとしている。

物語。

結局、わたしは子育てのリアルを体験していない。わたしの把握に限界があるとすれば、そこかなと思う。いずれにせよ、これからの世代は子育てを回避する傾向が出てくるだろう、それはまちがいない。それが相転移を起こすまでに至らなければ、大した問題は起きないかも知れない。当たり前か。

こともなし

日曜日。曇。

老母から連絡があって、予想外の展開。とりあえず、退院が先になるっぽい。どういうことかよくわからない。がっくり。

妹一家来訪。皆んなで「ひぐち」で食事。
妹とドラッグストアにて必要なものを買う。
皆んなでお彼岸の墓参り。妹のところは、お盆には来れなかったしな。
妹一家帰る。いつもありがとう。


NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、チェンバロはパオロ・ザンズ(NMLMP3 DL)。この曲の冒頭部分が頭の中でぐるぐる廻っていたので、聴いてみた(といってもすぐにはバッハということしかわからなくて、曲に行き当たるまで多少探したのだが)。冒頭部分はとてもメランコリックなのだが、ずっと聴いているとバッハはメランコリックな部分と数学的な領域を同時に包含していて、ちょっとしんどい感じだった。まあ簡単にいうと、あんまり偉くて立派すぎるというか。それでもやはり聴いていたのであって、はあって思った。すごいなあ。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十五番 op.28 で、ピアノはジョナサン・ビス(NML)。

Piano Sonatas 3

Piano Sonatas 3

 
夕飯は塩サバを焼いたもの、キュウリとキムチとツナのサラダ、昨日の残り物、市販の佃煮。

■バッハのフランス組曲第四番 BWV815 で、ハープはクリスティアーナ・パッセリーニ(NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はグァルネリ四重奏団(NML)。かつて CD で何回も聴いた名演。

■バッハのフランス組曲第二番 BWV813 で、ピアノはエフゲニー・コロリオフ(NML)。

Franzoesische Suiten

Franzoesische Suiten

  • アーティスト:Bach, J.S.
  • 発売日: 2007/11/28
  • メディア: CD
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第八番 op.110 で、演奏はソフィア弦楽四重奏団NML)。
Shostakovich & Goleminov

Shostakovich & Goleminov

ヘイト、深沢七郎的単純さ

曇。

しかし、何で日本でもこんなにヘイトが猖獗を極めるようになってしまったのかな。もはや末期的とでもいいたくなるような有り様であるが、わたしには根本的に何がヘイトを駆動しているか、よくわからないというしかない。やはりインターネットだろうか。日本のヘイトは中国・韓国が嫌いで、サヨク・リベラルが嫌いで、「優遇されるマイノリティ(障害者など)」が嫌いで、いまだと BLM、大坂なおみ選手が嫌いなわけだが、わたしには正直言って、その憎悪の心情を想像してみる、それに入り込んでいくことがむずかしいのを感じる。あまりにも単純すぎて、とっかかりがないのだ。ヘイトの感情というのは、たぶん個人的なものではない。感情の一種の増幅・強化・固定装置としてのメディア(本も含む)やインターネットがないと、こんなことにはならない気がする。わたしのいつも言っている、はてブとかフェイスブックの「いいね!」、ツイッターリツイートYahoo!のコメント欄などが典型的だ。なんつっても、もはやどうしようもない感じもする。人間の叡智、死したり。

ヘイトの人たちが「閉じている」のだけはまちがいない。関係性が乏しいのだ。関係性が乏しいというのは、まあつまりは、心が貧しいということである。いいたくないけれど。
結局さ、くだらんことでムカつきすぎ。そんなことどうでもいいだろって言ってくれる人が少なすぎるんだ。もっとエーカゲンに、テキトーに生きてほしいよ、まったく。そうしないと、心が開けないよ。

午前中、甥っ子をの勉強を見る。
昼食は甥っ子と博多ラーメン「まっしぐら」にて。

ゆたさんへのリプライを書いてから思ったけれど、自分はどんな人間でも受け入れられる、そんなすごい人じゃないね。あまりにも他人の迷惑を考えない、限度を超えた自分勝手な人間というのはやはり稀に居るものだ。そういう人間は、どうしようもない。願わくば、そういう人間とはあまり出会いたくないものである。これは理念の敗北というよりは、わたしの器の小ささだなと思う。


深沢七郎的単純さみたいなのを考えていて。吉本さんはもちろん複雑なことをたくさん考えていた人なわけだけれど、その種の単純さへの志向みたいなのは常にあったよね。というか、知性は最終的にそういう場所へ着地しないといけないということをよく書かれていて(吉本さんは「非知」といっていた)、ああ、そういうことなのかなと思う。概念的な肌理の粗い思考は解体して、なめらかで複雑な思考(これこそが単純なのである)へ帰っていくというか。吉本さんは、知性とはそういうものであるべきだと見做していた、それがわたしの読解だ。これまた、西洋的な知性とはいかにちがうものであろうか。ただ、文章というものはリニアな仕方で、(粗い)概念を使って書くしかない。なめらかで複雑なものは、「文体」で表わすしかない。そういうと、例えば小林秀雄的になるかな。小林は、「文章」「文体」という言葉に複雑な意味を込めた人だった。彼は、文章に「生命」が宿ると考えていたといって、わたしはよいと思う。

ようやくふつうに涼しくなってきたので、夕方に散歩。これからまた散歩できると思うとうれしい。いつもながら、平凡写真ですが。

彼岸花があって「あっ」と思った。そうだ、お彼岸だった。

これもまだ花は咲いていないけれど彼岸花彼岸花は宿根で、毎年同じ場所に出る。

ジュズダマハトムギの区別がつかないわたくし。


たぶん、カワラヒワなのだけれど、何だか毛がボサボサ(笑)。

馬頭観音さん。地元の人がきちんと花をお供えしてある。


ひさしぶりに少し長く歩いただけで、ちょっとしんどかった。体がなまっているなあ。

夕飯は豚肉とナスの炒めもの、ピーマンとツナを炊いたもの。食い過ぎた。

斎藤美奈子『学校が教えないほんとうの政治の話』

曇。

NML で音楽を聴く。■ニールセンのクラリネット協奏曲 op.57 で、クラリネットセバスティアン・マンツ、指揮はドミニク・ベイキルヒ、ドイツ放送フィルハーモニーNML)。

ショスタコーヴィチ交響曲第九番 op.70 で、指揮はマリス・ヤンソンスオスロフィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。ショスタコーヴィチの「軽い第九」。ヤンソンス、よいな。


ツユクサの類がきれいに咲き出した。いや、ツユクサは夏の花ということなので、今頃わたしが気づいただけかも知れない。


 
昼飯はソーセージと玉ねぎとピーマンの炒めもの、温泉たまご、インスタントみそ汁。

【第125回】百田尚樹の人気の秘密|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
おもしろい。わたしは斎藤美奈子は全然好きではないが、おもしろいし、わたしの読まないものをいろいろきちんと読んでいる。これなど、まさに「世の中ラボ」という感じだな。しかし、この文章の中身を読むと、自分は本当にヘイトの人たちに関心があるのだろうかと、疑問になってくる。結局、彼ら彼女らはかつて自分の周りにいた、わたしが納得のできなかった人たちの延長線上にあり、彼ら彼女らこそが「今どきの人」なのだ。残念ながら、わたしは彼ら彼女らから離れていってしまったから(あるいは彼ら彼女らがわたしから離れていってしまったのかも知れないが)、「今どきの人」たちをよく知らない。

ごろごろする。雨。

老母は退院する目処が立ったとのこと。もう少し先になりそうな感じだが。

夕飯は餃子、野菜炒め(以上、出来合いを買ってきてもらったもの)、ナス田楽。


図書館から借りてきた、斎藤美奈子『学校が教えないほんとうの政治の話』読了。たまたま借りてきていたので読んでみた。つ、つまらん。確かに「学校で教えない」ことを書いているのはよいが、口調はちょっとやわらかいけれど、基本的に詰め込み式教科書の書き方。上で紹介した「世の中ラボ」の方がずっとおもしろいし、勉強になることを確信している。といってもいまの若い人たちはマジメで学校の教えることはよく聞くが、逆に学校で教えないことは全然知らない傾向にあるので(もちろん例外はあるだろう)、本書のようなものでも一定の存在価値があるのかも知れないが。

ドリアン助川『線量計と奥の細道』 / マスコミと権力批判

曇。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー386円。図書館から借りてきた、ドリアン助川線量計奥の細道』読了。前にも書いたけれど、著者はほんとにマトモな人。マトモっていうのは、そうだな、自分というものがしっかりあるけれど、自分だけが正しい、自分の感覚のみが正当とは、思わない人とでもいうか。二枚腰、三枚腰の人ともいうか。そして、自分の弱さを認めることができる。冷笑しない。わたしのようにいまや主にネットで人と接している(?)人間には、こういうマトモな人はなかなかいないように観測されてしまうが、現実生活だとそうでもないのだろうか。著者は2012年、線量計を片手に、折りたたみ自転車で「奥の細道」を旅するわけであるが、よき出会いがたくさんある。まさに人徳という気がする。わたしのようにそこそこ悪く、そこそこよいふつうの人間にとっては、著者のような人はまさにそうありたい感じがする。

線量計と奥の細道

線量計と奥の細道

なお、本書は第67回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。エッセイというか、紀行文というか、なのだけれど。
 
BOOK OFF大垣バイパス店。ドリアン助川さんの『あん』があったので、買う。読むのが楽しみ。

吉野家岐阜六条店にて昼食。牛丼 並+卵458円。11時過ぎくらいだったのだが、僕以外にお客さんがひとりもいなかった。たまたまか。わたしは吉野家の牛丼は学生のときから好きなのだが、あれ、こんなものだったかと感じた。特にお米があまりおいしくなかった。あと、トイレがあまりきれいでなかった。たまたまか。

スーパーに寄ってから帰宅。

夕方までずっとごろごろ。
強い雨

夕飯はジャガイモのベーコン焼、サラスパサラダ。食い過ぎ。

「反対反対ばかり言っている野党は情けない、対案を出せ」という紋切り型がある。特に若い人に説得力があるらしく、彼ら彼女らは、「反対反対ぃー」の野党が「保守」で、憲法を変えようという与党が「革新」であるように思ったりもするそうだ(実際にこういう高校生を教えたことがあるので、わたしは少なくともサンプル1は持っている)。わたしはといえば、ほう、そういう考え方もあるかとちょっと思ったので、多少意識的に観察してきた。さらに進んで、「権力の監視・批判? 幼稚だね」というがごとき学者その他がぞろぞろと出てきたのも、わたしは最初はほうと思ったことを記しておく。それもだいぶウォッチしてきたつもりだ。
 その上での何となくの非論理的な心の動きとして、わたしはやはり権力批判はマスコミ(いきなり唐突ですが)の使命であり、そんなことは当り前だと思うようになった。これはとにかく何となくなので、正確に自分の中で論理化していない。しかし、こんな風にはいえるかも知れない。順番として、まず国民(人民)があって、それが前提で国家がある。わたしはそれがあるべき考え方だと信じている(証明はできないが)。しかし、それで国家が廻っていくうち、国家の存立自体が自己目的化することになる。たとえ一部の国民をひどい目に遭わせても、国家が栄えなくてはならない、そういう方向に、政治家・官僚(これに学者を加えてもいいかも知れない)が向くようになっていく。わたしは、特に確かめたわけではないが、それが日本における政治家・官僚のむしろ常態であると思う。そして、国民にはある種のことを隠しておけばよい、さらには国民を騙してもよい、そういう風になっていく。それが日本の政治の常態であると、わたしは確信している。外国のことは知らない。
 ゆえに、ここからマスコミは権力と対峙すべきであるという結論までは、わたしの中では感情の飛躍はない。論理の飛躍はあるいはあるかも知れないが。わたしは、少しずつそんな風に思うようになった。何となくである。権力の監視や批判は、わたしはやはり幼稚なことだとは思わない。御用学者はどうか知らないが。

なお、こういう文章を読んで、ちょっと気の利いた人なら「功利主義」と指摘したくなるかも知れない。つまり、「最大多数の最大幸福」というやつである。わたしはというと、功利主義自体は避けられないところがあると思っている(「幸福」というのは計量できるのかという意見もありそうだが、そしてわたしもそれは尤もだと思うのだが、じつに幸福の計量なんぞで驚いていては、いまの学問など勉強していられない)。それと、上のわたしの実感は同居している。まあ、論理的に言ったら矛盾ということになるのかも知れない。そのあたりは、わたしは割とどうでもよい。たぶん、「矛盾」を避けるために屁理屈を捏ねることもできようが、そういうことはかしこい人(って誰?)にでも任せておけばよい気がする。