立花隆『武満徹・音楽創造への旅』

昧爽起床。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻 ~ 第五番 BWV874 - 第九番 BWV878 で、ピアノはセドリック・ペシャ(NMLCD)。■シューマンのピアノ・ソナタ第一番 op.11 で、ピアノは梅村知世(NML)。

リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 op.18 で、ヴァイオリンは徳永二男、ピアノは坂野伊都子(NML)。 
例えばハードロックの「うるささ」というのは、乖離した生命力の領域と何とか繋がっていようとする希求の現れなのだと思う。それはまさに「躁鬱病」的なやり方だ。逆にその(冥い)生命力の領域へダイブしていって日常をコントロールできなくなると、「統合失調症」的な対称性があらわになってしまう。まあこうやって病気の比喩を使うのは、あんまりよくないのだけれどね(参照)。


昼過ぎ、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー。図書館から借りてきた、立花隆武満徹・音楽創造への旅』全66章をようやく読み終えた。本書にとても惹き付けられたことなど、これまで書いてきたので詳しいことは繰り返さない。武満さんの言葉はいちいち納得のいくもので、わたしに深く突き刺さったのだった。これまでも書いてきたが、本書を読んで繰り返し突きつけられたのは、ホンモノとニセモノということであった。このニセモノに取り囲まれた時代に、ニセモノとして生きる自分というものが、どうしても浮かび上がってしまうのである。そのようなことはもはやどうでもよい年齢である筈なのに、また自分がニセモノであることなどは当り前すぎて特に考えるまでもないのに、どうしようもないのだ。では、これは例えば憂鬱な読書であったか? いや、全然、その反対であった。「ニセモノに取り囲まれた時代に、ニセモノとして生きる」ことは普段は自然すぎて特に疑問にも思っていないのに、つまりは武満さんというホンモノに(活字をとおして)触れて、喜びを感じずにはいないのである。不思議なことである。そして、「ニセモノに取り囲まれた時代に、ニセモノとして生きる」ことが、いかに退屈なことか、知るのだ。これが、例えば自分に子供でもいれば、またちがうのかも知れないなとは思う。まあ、それは知らない。とにかく、稀有な読書体験であった。
 本書の原稿は、武満さんが亡くなったあと、本にされず十八年間放置されていた。立花氏にとって、武満さんの死は崩壊に近い衝撃であった。それが、立花氏の癌友達の壮絶な死をきっかけに急速に出版される経緯は、それもまた凄まじい話である。いずれにせよ、本書の出版があってわたしがこれを読み得たことを、何ものかに感謝したい気持ちである。

武満徹・音楽創造への旅

武満徹・音楽創造への旅

  • 作者:立花 隆
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本
結局我々は誰でも、深いところでは宇宙的なもの、コスミックなものとどこかで繋がっているのだ。武満さんの音楽は、それに確実に触れているし、その言葉も、そういう人のものとしてやはり突き抜けている。現代においてはしかし、我々はほとんどそういう感覚をもつことはできない。世界の無限の多様性から、切り離されているのだ。それはつまりは、感覚、センス、アンテナ、感受性、そういうものの貧しさなのである。すなわち、それが現代人、現代、というものなのだ。本来の意味での、「詩人」がいないといってもいい。

バッハ、モーツァルトベートーヴェン、現代では例えばメシアン、そして武満徹…。

こともなし

曇。よく寝た。

昨晩は澁澤龍彦を読んで寝たのだが、想像力の世界に大変な豊かさを感じた。澁澤をむしろまずしい、幼稚と思う人がいまは多いと思うのだが、わたしはどうして豊かと感じるのか。それと関係があるのか、わたしはいま特に自分に異様な貧しさを感じてちょっと苦しむ。中間領域が空疎で、心の真ん中に空疎さが広がっている感じ。澁澤は、現在中心なんてものがあるのかと書いていたように思うが、わたしも似たようなことを思う。いま安定している人の多くは、自分を neat に限定している人であろう。ちょっとこぎれい、ちょっとおしゃれ。しかし、小さくまとまるというのが現在においてはもっとも犯罪的なことなのだ、たぶん。

精神世界が生命力の領域と乖離しているということ。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻 ~ 第一番 BWV870 - 第四番 BWV873 で、ピアノはセドリック・ペシャ(NMLCD)。
 
午前中、甥っ子の勉強を見る。

あらー、本日の NML の新着は、メジャーレーベルの定評あるモーツァルトの名盤がてんこ盛りではないですか。太っ腹ですなあ。わたしは聴かないけれどね。

■マックス・レーガー(1873-1916)の弦楽三重奏曲第二番 op.141b で、演奏はイル・フリボンド(NML)。

String Trios 1

String Trios 1

武満徹の「星・島 (スター・アイル)」で、指揮は山田和樹、日本フィルハーモニー交響楽団NMLCD)。■モーツァルトのディヴェルティメント 変ロ長調 K.439b-5 で、演奏はシュタードラー・トリオ(NMLMP3 DL)。


日没前、散歩。

ウチにたくさんいるハグロトンボ。

ジャンボタニシスクミリンゴガイ Pomacea canaliculata)の卵。たくさんくっついているな。

ツバメ。きれいな声で鳴くよ。


銀杏が成り始めた。

サルスベリの花。

蒸し暑い。
 
夜、AtCoder 過去問を解く。

白石凌海『維摩経の世界』

昧爽起床。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第二番 BWV1047 で、指揮はフィリップ・ピケット、ニュー・ロンドン・コンソート(NMLCD)。■武満徹の「ア・ストリング・アラウンド・オータム」、「ノスタルジア」で、指揮は山田和樹、日本フィルハーモニー交響楽団NMLCD)。
 
図書館から借りてきた、白石凌海『維摩経の世界』読了。

維摩経の世界 大乗なる仏教の根源へ (講談社選書メチエ)

維摩経の世界 大乗なる仏教の根源へ (講談社選書メチエ)

  • 作者:白石 凌海
  • 発売日: 2019/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
母病院。
スーパー。肉屋。

モーツァルトのディヴェルティメント 変ロ長調 K.439b-1 で、演奏はシュタードラー・トリオ(NML)。

Basset Horn Divertimenti

Basset Horn Divertimenti

  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: MP3 ダウンロード
ブラームスのチェロ・ソナタ第一番 op.38 で、チェロはフランソワ・サルク、ピアノはエリック・ル・サージュ(NML)。
Integrale Musique de Chamb 7

Integrale Musique de Chamb 7

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第四番 op.102-1 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NMLCD)。
 
マーラー交響曲第七番で、指揮はエリアフ・インバル東京都交響楽団NML)。

関川夏央『人間晩年図巻 1995-99年』

深夜起床。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第一番 BWV1046 で、指揮はフィリップ・ピケット、ニュー・ロンドン・コンソート(NML)。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番 op.69 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NMLCD)。■ブラームスの弦楽五重奏曲第二番 op.111 で、ヴィオラはラファエル・オレグ、シネ・ノミネ四重奏団(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.121, K.122, K.123, K.124, K.125 で、チェンバロスコット・ロスNML)。

曇。

図書館から借りてきた、関川夏央『人間晩年図巻 1995-99年』読了。感銘を受けた。名著といったら言いすぎとされるかも知れないが、滅多にないレヴェルの本だというのは明白だ。これは伝記・評伝の類とするには一人あたりの分量が少ないし、やはり文学という他あるまい。一見、ゴシップ的記事の羅列かとも見えるが、文学にはゴシップの昇華としての側面があり、つまりは人間への興味ということになると思う。わたしがここでいう「文学」とは江藤淳的な意味というか、そもそも日本語で「文学」というのは江藤淳が明らかにしたそれに他ならないとわたしは思うのだが、その江藤淳の記事も本書にあって、特に印象に残った。愛妻を失った江藤を、沛然たる豪雨が自死に追いやるのである。この記事では吉本さんが登場人物に配されていて、著者にしては意外な感じをわたしは受けたが、吉本さんの江藤に対するリスペクトというか、配慮というかには、二人の対談集(文庫本)を読みもしたわたしは納得するところがあった。わたしは吉本さんと同じで江藤と政治的立場がちがうのだが(もっともわたしの政治的立場など大したものではないけれど)、江藤の文学的才能には敬意を払わざるを得ないものがある。というか、そんなエラソーなことをいわなくても、江藤ほどの人がいま読まれないのはとても残念な気がするというあたりである。全集も出ていないことを、先日確かめて知った。しかし、江藤が本書を文学として認めたか、まあわたしには自信がないのも確かだけれどね。丸谷才一に対してもニセモノ扱いをしたくらいの人だから。本書中にも、松浦寿輝への受賞スピーチで、松浦への批判しかしゃべらない江藤の姿が描かれている。しかしいずれにせよ、いまはそこまで誰も文学に自分の全人格を賭けたりしないのである、極端にいえば。
 わたしには、本書の短い「あとがき」に、関川の思いが強く篭っているように思われた。1995年から99年というのは、日本のひとつの転換期だった。しかしそのことを、多くの人たちはたぶん恐ろしさから、見て見ぬふりをしてやりすごした。その見て見ぬふりはいまでも続いているが、いまの日本の姿はその自業自得である――著者はそこまでは言っていないけれど、「あとがき」を読んで、わたしにそんな思いがこみ上げてきたのは確かである。

人間晩年図巻 1995-99年

人間晩年図巻 1995-99年

わたしは本書をあまり堅い本に描きすぎたかも知れない。ふつうに読んで、おもしろい本ですよ。「寅さん」の渥美清の俳句のよさに驚いたり、若くして病死した天才棋士村山聖のはかない生涯に涙したりしました。関川さんが誰を選ぶかというのも、なかなかに興味深いことである。

書くか迷ったのだが、少しだけ。河野防衛大臣の「イージス・アショア配備撤回」についてネットでも既にいろいろ言われているが、わたしは「核攻撃に対する安全保障上のリスク評価」といったことにほとんど興味はない。自分に意見がないことはないが、つまるところ専門家が考えればよいことである。しかし、「日本(人)のアメリカ拝跪」という構造を考えると、この「撤回」に興味がないとは言い切れないというのが正直なところだ。河野大臣の決断はもちろんこのことを視野に入れているわけであるが、よくもあの安倍首相が許可したなあと少し驚いている。当然アメリカ(のどこか)は激怒するであろうが、しかし日本の政治家と官僚と学者に、構造の変化をもたらす覚悟があろうとはわたしには到底信じられない。日本国民も同じことである。結局はアメリカに平身低頭し、河野大臣はどうかなっちゃっておしまいになるのではなかろうか。そうでない、つまりこれが大きな一歩になるということであれば、日米関係そのものの構造が変わってしまい、日本人のある分野の考え方が根底から変わることになる。これこそが、「戦後レジームからの真の脱却」であることはいうまでもない。当然ながら、「安全保障上のリスク評価」なんつーものも激変してしまうことになる。さて、実際どうなるのだろうか。

高度資本主義と「サブカル」

昧爽起床。曇。

NML で音楽を聴く。■ボロディン弦楽四重奏曲第二番 ニ長調で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。この曲が聴きたくなったので。この曲には民族的な情感を盛った限りなく優しいメロディがいくつも出てくるのであるが、それと楽曲を成り立たせる知的なフォルムの統合に苦心した曲かなと思った。そのあたりにひとつの解答を与えたのがチャイコフスキーだろうが、わたしにはまだ未熟なボロディンの素朴なメロディの方が好きな気がする。なお、ボロディンQの演奏は申し分ない。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第一番 op.5-1 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NML)。ベートーヴェンは野蛮人だと思う。その意味で反文明的だ。そして、そんなベートーヴェンがわたしは大好きだと付け加える必要があるだろうか。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第二番 op.5-2 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NML)。■コダーイ無伴奏チェロ・ソナタ op.8 で、チェロは川上徹(NML)。

このところ、吉本さんが晩年に、徹底した孤立無理解に晒されながら(それは現在まで続いている)、高度資本主義とその日本的な表現を探求していったことをぼんやり考えている。高度資本主義は現在ではグローバル資本主義といってもよいと思うが、それを生み出した西洋の態度は、その現実の上でそれを肯定し、勝ち組を目指す(保守)か、反対に高度資本主義を破壊する(マルクス主義由来のリベラル)かというものに大別されるということは、いまさらいうまでもないことであろう。日本でもその構図は基本的に存在するが、日本における特殊的表現として、高度資本主義の展開を基本的に(諦めて)受け入れ、その運動を深いところで引き受けて表現に落とし込む、マンガ、アニメ、ゲームその他の「サブカル」として一括される態度がある。吉本さんが晩年に探求していったのはこれであって、「サブカル」はそれなりにある意味では豊かといえる成果を確実に生み出し、それは世界的に広がっていって確実に受容されるようになってきている。これを新たな「ジャポニズム」とするのは決してまちがいではない。この態度が「正しい」かどうかはわたしにはよくわからないのであるが、我々の世代が生きてきた中で日本的にリベラルのイデオローグを引き受けてきた例えば柄谷行人浅田彰の「批評空間」が没落し、そこから誕生したものの「サブカル」を積極的本質的に受け入れ、理論的に展開していった東浩紀の独り勝ちとなったことは、ひとつの象徴として考えるべきものをたくさん含んでいることは明らかである。さて、日本の「サブカル」は(高度資本主義に関して)現実受容的であり、現実変革的でないのはどう考えるべきなのか。また、それらが高度資本主義そのものを変質させていくことがあるのか。いずれにせよ、このままではリベラルに可能性は少なそうだというのがこのところのわたしの実感である。ならば、若い人たちのように「サブカル」でいくべきなのか(リベラルと「サブカル」がトレードオフの関係にあるかははっきりしないが、かなりそれっぽいという印象はある)。しかしまあ、それは若い人たちが全力でやっていることであり、わたしのような人間は別のことをやればよいというのは個人的には明らかなことだ。他人にはどうでもいいことですね。

なお、わたしは既に「サブカル」世代であり(東浩紀の少しだけ年上)、「サブカル」に別に違和感があるわけでもなんでもない。マンガは活字本と同じくらい読んできたし、子供の頃からアニメは見てきたし(ヤマト、ガンダムマクロス世代!)、ゲームもかつてハマった。いま「サブカル」しなくなったのは、歳をとって硬直化したからにすぎない。
わたしは基本的にモダンの延長線上にあるのだが(つまりアナクロ)、高度資本主義はモダンから誕生しつつ、モダンを破壊していく運動性をもつ。中沢さんが過去へ過去へと限りなく深くダイブしていくのは、その破壊の限界点とオルタナティブの探求であるということが確かにあるだろう。中沢さんの「知の考古学」は、新石器から旧石器に至るところまで進みつつある。それはまた、吉本さんの成果の延長線上にあるところもあるだろう。
モダンはある種の安定性があったのだが(例えば澁澤龍彦)、それを破壊することで現代人の精神の不安定性がもたらされることになった。これは吉本さんのはっきり気がついていたことである。吉本さんはこれを彼らしく「公害」と呼んだが、おもしろい表現だと思う。この精神的病の多発(吉本さんの正確な表現は忘れた)が、これからいちばんの「公害問題」になる、と。
それから、近代(モダン)に関して、小林秀雄は日本での「近代批評の創始者にして完成者」といわれることがふつうであるが、これはかなりミスリードである。小林秀雄はとてもそれに留まらないし、もっともっと先のところまで気づいていた人だ。ただ、なかなか現代的な表現が見つけられなかったというところはあるかも知れない。それが現在での小林秀雄の忘却と関わっているのでもあろう。

インターネットの射程はまだ誰にもわからない。というか、インターネットはまだ「自然史過程」的に発展し尽くしていない。インターネットはコンピュータと不可分であるが、そのコンピュータのプログラミング言語の可能性については、ひととおりの基本的な材料は既に出尽くした感もある。手続き型、OOP、関数型。しかし、これからプログラミング言語のメタ発展がないとはいえない。インターネットが本質的にIP網であることは最初から何も変わっていないが、インフラ上位層はクライアント・サーバ型(ウェブサービスというのは基本的にこれを指すようになっている)がほぼ制覇し、P2Pなどの発展は阻害されている。これは「政治的理由」といってよく、これからは権力によるインターネットの管理が大きな問題になっていくだろう。それは「管理社会」の到来の不可避とも関係している筈である。

昼からイオンモール各務原。「足下を見る」という言葉があるが、いま履いている靴を履き潰したので、靴屋でウォーキングシューズと革靴を買う。わたしとしてはかなり高額だったけれど、コロナ給付金も出たしね。なかなか気に入ったのを買うことができた。
「恵那 銀の森」でアップルパイとわらび餅を購入。

図書館。まだまだ人は少ないな。


日没前。買ったウォーキングシューズで少しだけ散歩。

 
早寝。

こともなし

晴。昨晩遅かったので、寝坊。

午前中、かかりつけ医。スーパー。
昼食に焼きそばを作る。


だらだらとツイッターを見ていた。東さん、一時期アカウントを消していたのか。坂口恭平さん、鬱が寛解したのはめでたいけれど、言っていることがちょっと極端なのはあいかわらずだな。まあ、それくらいでないと「重要人物」ではいられないのかも知れない。湯浅誠さん、このところずっと見かけないなと思っていたら、もう政府批判も含め、他の批判はしないと。人々の「分断」があまりにも甚だしいからということらしい。さっそくクズが噛み付いていたが、これは確かにむずかしいところ。湯浅さんの態度の良し悪しはわからないが、人々の現在のひどい「分断」はわたしにも納得できるものである。さても東さんは、例の「愛知トリエンナーレ」でリベラルに人格批判までめちゃくちゃにされて、もうリベラルの人たちが嫌になったと言っていたが、これはわかる。いまの自称リベラルはほとんどが硬直化した教条主義だからな。「正義」がそうさせるのである。「正義」はほぼ必然的に分断をもたらす。論理はその機能として「分断」せざるはないからである。「論理」というか、概念はその本質としてすべて他からの分断である。突然だが、大塚英志はちょっと硬直化してきた感じ。あの大塚も正義派じみてきたかしら。(理不尽に)イヤミなのはまだ大塚らしいけれど。

黙っているのが必ずしもよいとは思わないけれど、いまのネットでしゃべるのは非常にむずかしい。ってここでしゃべっているから矛盾だけれど。お互いを褒め合い、あるいは貶しあっているのが無限に反射しあっているだけなので、すべての言葉が無意味になっていく。それに無感覚なナイーブな人たちはある意味幸せなのだけれど、そういう人たちの言葉もほとんどがただ埋もれていくだけのようにも見える。ま、埋もれていくだけでもよいと割り切っていられる人が、かなりの強さをもっているということなのだろう。というか、それしかないな。そこでわたしは小林秀雄の教えを思い出したりするのだが、まあ他人には意味不明ですよね笑。いまや小林秀雄も埋もれた。それは時代からして当り前な気がする。

正義ってむずかしいのだけれど、いったん物差しができてしまえば判断は苦もないことなのですよね。これは正しい、これはダメって簡単に、バカでも判断できる。その裏にナマの感情がくっつく。論理を表、感情を裏とかやったら、まずはダメなんで、ツイッターはその巨大な集積である。また注意しておくけれど、ここでの「ツイッター」は SNS の一機能を指す一般名詞です。


夕食に、老母に見てもらいながら鰺のフライを揚げる。

関川夏央を読む。