こともなし

祝日(成人の日)。昧爽起床。
僕は夢の中に「いいなづけ」がいるのだが、また彼女が夢に出てきた。まあ独身の後期おっさんにいいなづけも何もあったものではないので、ユングのいう「アニマ」でもあるのだろうか。彼女のイメージは結構はっきりしていて、現実に顔を見てわかるとまではいかないだろうが、雰囲気はわかると思うし、性格はかなりわかっている。もちろん、過去に現実に出会った女性ではない。齢は二十代後半くらいか、その夢に一緒に出ている自分も、もっと若いのかも知れない。変な話だが、極「ふつう」の女性である。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第七番 K.309 で、ピアノは稲岡千架(NML)。悪くない。

Mozart: Rondos & Sonatas

Mozart: Rondos & Sonatas

  • 発売日: 2017/05/05
  • メディア: MP3 ダウンロード
■バッハのフルート・ソナタ変ホ長調 BWV1031 で、テナー・リコーダーはミカラ・ペトリ、ヴィオラ・ダ・ガンバヒレ・パール、チェンバロはマハン・エスファハニ(NMLMP3 DL)。■ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ ト短調で、ヴァイオリンはクリストフ・バラティ、ピアノはクララ・ヴュルツ(NML)。
French Violin Sonatas

French Violin Sonatas

  • アーティスト:Debussy / Barati / Wurtz
  • 出版社/メーカー: Brilliant Classics
  • 発売日: 2020/02/07
  • メディア: CD

 

村田喜代子『飛族』を読む。なかなかおもしろい。舞台は福岡県の東シナ海上の小島たちであり、なんとなく石牟礼さんのことがちょっと思い出される(石牟礼さんは、もちろん熊本だったが、九州ということで)。小島にたった二人で住む九十歳近い老婆らと、役場の国境防備の話が対比して書かれている。つまりは、我々はたとえどんなに田舎で簡素に暮らしたくても、国家や文明から放っておいてはもらえないということだ。老婆たちは月数万円で暮らせるが、島への定期船の運行には何千万円という維持費がかかる。しかし行政は、たった二人の老婆でも、島にいてくれた方がよいという。無人島にすると、勝手に密入国者に入り込まれたり、引いては国境の問題まで出てくるから。嫌な話だが、いまの時代、これに類することから逃れることは誰にもできない。外堀も内堀も埋められてしまったのが現在だ。

しかしわたしも、インターネットを常用して簡素な田舎暮らしもないものだが。

曇。
■フランクのヴァイオリン・ソナタ イ長調で、ヴァイオリンはクリストフ・バラティ、ピアノはクララ・ヴュルツ(NML)。なかなかよかった。素直なヴァイオリンで、心に沁みた。

洗濯、風呂掃除。

昼食は昨日のキムチ鍋の残りを雑炊にした。

面会。寝ていることが多いので腰が痛くなるそうではあるが(妹が湿布薬を届けた)、今日から食事の許可が出て、とりあえずプリンが食べられた。だいぶうれしかったようである。少しづつ先へ進めているようで、今日も四人で一時間くらいしゃべった。帰りは途中まで歩いて見送ってくれた。このままいけるとよいな。
妹帰る。ありがとうございました。

夕方、しばらく休息。ごろごろする。

夕食は鱈ちり鍋と、妹の作っておいてくれた味噌汁。

佐藤文隆先生の『量子力学は世界を記述できるか』を読み始める。第二章まで読んだが、素直に題名どおりという本ではない。というか、先生の頭がよすぎて、何だかむずかしい本になっている。本書は物理の本ではなく、むしろ「科学の本」であるが、そういっても他人に伝わりませんよね。まあ、本書の説明はわたしの能力を超えている。それにしても、最低でもわたし程度の物理学の知識がないともうちんぷんかんぷんな筈だから、あまりにも読者を選びすぎる本だ。
 どうでもいいのだが、第二章の最後に「公共世界が確率合意性を受容するようになっていく可能性はある」(p.80)という文章があるけれど、なるほど、佐藤先生ですら10年前(の本である)でいまだにこのような段階だったのだなというのは感慨深い。いまでは若い人たちは基本的に「リスク」から人生を眺めており、近年急速に、佐藤先生の文章は現実化したことになる。もちろん「リスク」というのは、確率的思考であり、我々の人生はつまりは確率の束と考えられるようになったのである。まったく、時代の流れの速さには、時代遅れの人間としては驚かされる。

それから、佐藤先生でも量子力学の「遅延選択実験」は「驚き」(p.51)であったそうだが、わたしもこの実験をどう考えたらよいのか、ちょっとわからない。量子力学では一般に「観測」が対象系を「擾乱」するが、一旦「観測」しても、その観測の効果をあとで打ち消せば、対象系は「擾乱」されないというのである。見方によっては過去を改変することが可能なようにも受け取れる。これは、量子力学の理論自体から自明に引き出せる実験結果なのか、わたしごときではよくわからないわけであるが。

こともなし

日曜日。曇。
早く起きたのだが、今朝はふとんの中でごろごろする。

老母から電話があって、ドラッグストアで買い物をして届ける。ちょっと障害が出ていて、おさまるとよいのだが。しばらくいろいろ話す。これはすぐには退院できないよということをいうので、まあそうかも知らんなという。大きな手術だったからな。しかし、少しづつはよくなっているような感じもするのだが。歩けるし(歩かされるのだが)、顔は思ったよりすっきりしていて、話していると笑顔も出る。まあ、帰ってくるまでこっちもがんばるとよという。

ついでにスーパーに寄って、今日と明日の分の買い物。

昼食は雑煮。老母が作るのとあまり変わらなくできるようになった。老父も満足しているようだった。

妹が来てくれる。
面会。妹がいたせいもあっただろう、今日はよくしゃべった。一時間近く話していた。
帰りにドラッグストア。

夕食はキムチ鍋。妹に見てもらいながら作る。まあ、こんなの誰にでもできますよね(市販のつゆ利用)。おいしかった。デザートはりんご。
りんごの皮を剥いていて、自分ってどんだけ不器用なんだと思った。

早寝。

鈴木大拙『禅問答と悟り』

昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ BWV860-863 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。■ソフィア・グバイドゥーリナ(1931-)の「Jetzt immer Schnee」で、ナレーターはLeonid Stasov、オランダ室内合唱団、シェーンベルク・アンサンブル、指揮はレインベルト・デ・レーウ(NML)。

Gubaidulina: Jetz Immer Schnee

Gubaidulina: Jetz Immer Schnee

ブリテンの「二つの昆虫の小品」で、オーボエハインツ・ホリガーNMLCD)。

曇。今日は晴れるって予報なのだけれど。
洗濯、風呂掃除。

モーツァルトオーボエ四重奏曲 K.370 で、オーボエハインツ・ホリガー、他(NMLCD)。

よく晴れてきた。
昼まで甥っ子の勉強を見る。昼食は甥っ子と老父と三人で、珈琲工房ひぐち北一色店。甥っ子を名鉄岐阜駅まで送って帰宅。

ドラッグストアに寄ったあと、面会。少しづつは回復しているようだけれども、依然なかなかにつらい感じ。まだだいぶしんどそうだ。

夕方、県図書館。ひとりで運転していて、いろいろ考えてしまった。母の以前の入院のときもだったのだけれど、父がなかなかに使えねーんだよなあ。まあ、自分の分担はやってくれるのだけれども、そうでないことは全然気が回らない。家事をしたことのない男性ってのはこういうものなのか、しかし、ねえ。ある種の女性の気持ちがちょっとわかってしまうね。ってわたしも少々疲れているのかも知れないな。修行が足りぬ。

夕食前、老母から電話があって、ドラッグストアで買い物をして届ける。
夕食は常夜鍋。僕が出かけてるあいだ、老父にだいぶ用意をしてもらった。で、いろいろ命令して手伝ってもらいました。まあ今日くらい、そうしてもバチは当たらんでしょう。食事はおいしかったです。というか、だし昆布を二枚も入れてしまったので、かなり美味かった。やりすぎだけれどね(笑)。

コマネズミみたいに、今日は一日くるくると廻っていたな。疲れた。

図書館から借りてきた、鈴木大拙『禅問答と悟り』読了。「仏」とか「悟り」とか、言うだけで口が穢れるしろものだから、大拙ほどの捌きの達人でないとなかなかである。大拙は禅は仏教ではあるが中国で発した、インド的なものではないということをしきりと強調するが、これは現在だと、禅が「本来の仏教」から離れた、既に釈迦牟尼の教えとは変質したものであるといって、ネガティブに捉えられることが多い。「仏教学者」でもそうであるし、もはや(日本の)「仏教徒」ですらそうであるかも知れない。もちろん禅の立場からするとそうではないわけで、釈迦牟尼の核心をみずから体験するのが禅ということになるわけで、それも中国風になのである。いや、核心の表現が中国風というか。けれどもまた大拙のいうように、それは既に中国にはほとんど残っていないし、日本にも(いまですら)禅寺はたくさんあるが、やはり中国よりはマシというほどしか、既に大拙の頃ですらなかった。わたしのごときは、いまでは臨済宗に寥寥としか残っているのを知らないが、それはわたしが何も知らないからであるかもしれない。大拙は、禅を世界へ持ち出したわけだが、たぶん、西洋にもっとも影響を与えた日本人になった。それが大拙であって、よかったとわたしは確信している。とクズのわたしがいうのであるが、さて「禅問答」について本で読む人はいまでも相当に多い。ネットを見ても、いくらでも目にするくらいである。で、公案がわかるとかわからんとか、いや、オレは「ただ座る」のだ、道元禅師に私淑(あるいは「公淑」)するのだという輩とか、掃いて捨てるほど存在する。まあ、それは好きにすればいいので、それで「禅問答」だが、これがわからないのは、それが中国の発想だからということもある。さても、それはいまでも中国には残っているのか、なんだかわたしは知らないが、日本の禅というのはそれを取り入れて、あるいはさらに一部日本化した。(これでもっと釈迦の仏教から遠くなったという人も多いだろう。)いや、わたしはよくわからないのだけれどね、とにかく、それを世界にまで持ち出した大拙と、そのやり方はすごいですよ。って日本人のバカにする大拙は、わたしは本当にえらかったと思っている。でも、ここまでやっても、世界に開放した「禅」を、誰かホントに「経験」してみた人間は出たのだろうか。大拙の蒔いた種は、発芽したのか。いやいや、わたしはそんなに悲観的でない。むしろ、日本ではもうあと少しの〇〇だから、大拙が世界に蒔いた種しか残らないのかも知れない。中国の事情を見ていると、それはあり得るように思える。

鈴木大拙禅選集〈2〉禅問答と悟り

鈴木大拙禅選集〈2〉禅問答と悟り

  • 作者:鈴木 大拙
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 単行本
いっておくが、わたしはテキトーに言っている。信用するだけバカを見るですよ。

大拙は、砂糖の甘さを知るには幾ら言葉で語ってもダメだ、自分で舐めてみるしかないと言っているね。

こともなし

晴。
今日はよく寝た。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ BWV856-859 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十一番 op.22 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.71, K.72, K.73, K.74, K.75 で、チェンバロスコット・ロスNML)。

いい天気。庭を歩く。ふつうの花の写真。
20200110095923
20200110095946

スーパー。今日はポイント5倍の日でした。

昼食は卵とほうれん草の炒めもの、妹の作り置きの味噌汁、明太子、のり、おせちの残り。卵とほうれん草の炒めものは、塩こしょうがちょっと薄かったので後で追加した。これ、老母に作り方を聞いたのにもう忘れたので、だいぶ不安だったけどえいっとやった。でもまあ一応おいしかったのでは。

昼から面会。今日は顔がだいぶすっきりしていて、ふつうになってきた。でも、気持ちが悪くて水も飲めないのがつらいそう。ベッドに腰掛けてしゃべっていた。まだ痛いがという。
帰りに肉屋。

わたしは、何時に何をやるとか先の献立とか、そんなことばかり考えて過ごしているな。

夕食はブリの照り焼きに、ブロッコリーとゆで卵とハムのサラダ、あとはおせちの残り。デザートはプリン(ウチはオハヨー乳業のプリンをよく食べる)。ブリの照り焼きはまたしてもいろいろ手順をまちがえたが、それでもおいしくできたと思う。それにしても、初めて作る料理は、作るときドキドキする。火の加減をよくまちがえてしまう。それから、何というほどでもない細かいことが、初めてだとわからない。


Ruby に関するブログを読んだり、Ruby コードを眺めたりする。

唐澤太輔『南方熊楠』

昨日疲れすぎて、うとうとしかできず。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第一番 K.279 で、ピアノはクラウディオ・アラウNML)。

Mozart: Works for Piano

Mozart: Works for Piano

スカルラッティソナタ K.46, K.47, K.48, K.49, K.50 で、チェンバロスコット・ロスNML)。

昔の写真を見ていたらきれいだったので、貼っておきます。自己満足(笑)。

晴。
洗濯。洗うものが溜っていてたくさん。風呂掃除。

午前中、妹とスーパー。
昼食は雑煮。前の反省点を改善(?)して、なかなかうまくいったと思う。

昼から面会。昨日よりは随分安心して見ていられる顔になった。手術後第一日なので、どうしても熱があるらしいが。もう、少しだけ歩かされたそうである。そして、妹がいろいろテキパキやってくれて助かる。
妹帰る。お世話になりました。ありがとう。

夕方、少しだけ寝る。

夕食はブリとタイの刺身、妹が作っておいてくれた味噌汁、ほうれん草のおひたしにおせちの残り。デザートはウチの蜜柑。まあそれなりにおいしかったのではないか。

唐澤太輔『南方熊楠』読了。先日も書いたが、大変におもしろい本だった。熊楠はもちろん常人とはかけ離れた広大な精神の持ち主であったが、本書の著者もわたしよりずっと遠い射程をもった人である。本書は熊楠の小さな評伝であるが、著者は振幅の極端に大きい熊楠を正面から扱って、破綻なく論じきっておられるだけで非凡である。仮に熊楠について簡単な伝記的事実を知りたいと思って本書を読んでも、無理なくそれ以上のものが得られるであろう。熊楠の外面的な伝記的事実だけでなく、「南方曼陀羅」のような熊楠の最深部まで、着実な理解を推し進めているのが力作たりである。そして「やりあて」の語の発掘とそれへの注目は、著者独自のもので、すばらしい。著者なら、もっと遠くまでいけるのではないか。

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

「おわりに」を読むと著者は本書、つまり新書本の執筆に二年間をかけたことがさらりと書いてあるが、これは「インスタント本」の真逆ではないか。とても気合の入ったことである。こういう人もまだ存在するのだな。いま、わたしはあまり本が読めないのだが、こういう本なら話は別である。

「南方二書」を読む。

母手術

雨。しかし暖かい。
昧爽起床。

八時頃家を出て、老父、妹と共に病院へ。病室で老母も交え、しばし閑談。

九時、母手術室へ。長丁場になることはわかっている。

処置のあと、たぶん十時半頃から執刀らしい。といってもロボットアーム操作の機械であるという。

我々は談話室で待つ。わたしは一時間ほど本を読むが、疲れてしまう。なので、もってきたDS用のゲームをする。「シヴィライゼーション レボリューション」というシミュレーション・ゲーム。叱らないで下さいね。あまり何も考えたくなし、ゲームとか普段まったくやらないので、とまどって時間がかかるだろうという読みである。マニュアルを見ながら、遅々と進める。

知らぬ間に晴れる。十一時半頃、病院内のレストランで食事。わたしと老父はカツ丼。妹は天ぷら蕎麦。

延々と待つ。わたしは途中でゲームは疲れてしまう。バッテリーの残量がなくなってきたのもあって中断。iPad で時間つぶし。

十八時半頃、先生がいらっしゃって、手術は予定どおり終了。摘出した臓器を前に説明を受ける。すべて予定どおり。とりあえずはホッとする。

しばらくして、病室に母が戻ってきた。酸素マスクや管やらが付いているが。我々に反応する。
かぼそいが、声も出る。しかし看護師が退出したあと、気持ちが悪いとか、それにやはり痛いらしい。以前大病院の看護師だった妹が対応してくれる。心強い。
別に悪い状況というほどでもないらしいが、眠れないだろうなと自分でいう。一時間足らず病室にいて、もう帰れと言うので、わたしは多少心配ではあったが、帰ることにする。明日来るといって帰る。なんとか今夜何もありませんように。

帰りにスーパーに寄る。

家で三人で夕食。暖かくおいしいものを食べて、生き返った心地。

片付けも済んで、少しリラックスしていまこれを書いている。今夜何もないことを願う。(21:40)

こともなし

曇。
昨晩は中沢さんを読んで寝た。

朝食を採ってしばらくのんびりしたあと、洗濯と風呂の掃除。以前やっていたのを思い出しながら、三十分ほどで終了。

雨。
昼食は雑煮を作って老父と食う。ちょっと手順をまちがえたが、何とかカバーした(笑)。まだまだいろいろと手際が悪いし。

肉屋。


妹が来てくれた。
夕食はカレー鍋。手際が悪いのを、妹がいろいろ手伝ってくれて助かった。おいしくて皆んな満足だったと思う。