足立巻一『日が暮れてから道は始まる』

日曜日。台風一過。晴。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十九番 Hob.XVI:49 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はエベーヌ四重奏団(NMLCD)。すばらしい。現代で可能な最高のベートーヴェンのひとつだろう。■バラキレフの「イスラメイ」で、指揮はエサ=ペッカ・サロネンバイエルン放送交響楽団NML)。

1812年、だったん人の踊り~ロシア音楽コンサート

1812年、だったん人の踊り~ロシア音楽コンサート

 
どうでもよいのだけれど、今回の台風関連のツイートを見ていて、やはり日本の「知識人」は東京近辺に住んでいる人が多いのだなあと思った。地方に台風直撃しても、こんな TL にはならない。

珈琲工房ひぐち北一色店。図書館から借りてきた、足立巻一『日が暮れてから道は始まる』読了。以前記したとおり、遺稿集であるが、まったく衰えというものが見られない。わたしは知らないが、突然死であったのだろうか。足立さんは神戸新聞の読者文芸詩欄の選者をやっておられたようで、目についた投稿者の中でも、特に気になった人を訪ねるということをしておられる。これもわたしは知らないが、こういうことをする選者というのは、非常にめずらしいのではないか。いかにも民衆詩人という人たちを発掘した、その文章には特に感銘した。こういうのは、ちょっと他の人にはむずかしいと思う。仮に自分だったら(と仮定するのは愚かしいが)、このような「素朴な」詩人たちの詩魂を見抜くことは到底無理だろう。たぶん、技巧のなさだけで、落としてしまうに相違ない。そんなこんなで、もう少し足立さんの文章を読んでみたい気がしきりである。

神坂次郎『今日われ生きてあり』を読み始める。

シューマンの幻想曲 op.17 で、ピアノは園田高弘NML)。誰も園田高弘について何もいわない。それとも、園田に感銘を受ける自分がおかしいのか?

ラグビーW杯で日本がスコットランドに勝利した。日本代表、決勝トーナメント初進出。死闘というか、すごい試合を見たな。興奮しすぎて眠れるかしら。

マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』

雨。

テレビではずっと台風情報を流していて、岐阜県も要警戒ということであるが、お昼あたりでは雨少々、風はほとんどなし。東海地方では三重県がひどいようだ。あとは静岡県に最大級の警戒とか。関東など、被害が大したことないとよいが。

マルクス・ガブリエルの『「私」は脳ではない』を読む。わたしはこういう論にあまり興味がないのだが、読んでいて、パトナムの例の「水槽の中の脳」はあたらめておもしろく思った。このアイデアの映画化が有名な「マトリックス」であるが、わたしは見ていない。いずれにせよ、我々は水槽の中に浮かべられた脳を中心とする神経系にすぎず、外部コンピュータの電気的入力によって、擬似的に生きていると「錯覚」しているにすぎないという発想である。著者はこれに反論するため、こんな風に言っている。「タンクの中の哀れな脳は、自分自身の作り上げた空想の産物以外、何も知りません。つまり、その脳は言語というものを(中略)もっていない、ということです。脳が知っている単語は、幻覚によるエピソードや対象と関係づけられているにすぎません。水も、国も、友達も、床暖房も、指も知りません。」(p.197)しかしこれは、かなり弱い反論であろう。実現可能かどうかは別として、外部コンピュータは水や国や友達や床暖房や指に関する(言語やクオリアまで含めた)あらゆる構造とニュアンスを我々の脳にジャック・インしているかも知れないから。だいたい著者はここの部分について、「哀れな脳」とか、「ゾッとします」とか、あまり論理的でない印象づけが多いように思われる。しかし著者がはっきりと理解していないことがあって、それは、我々の脳は「入力系」だけでなく、「出力系」があるということだ。我々の脳はとりあえずここでは「入力系」と「出力系」をつなぐ一個の関数であるとして、そのアウトプットは「現実に世界を変える」のである。もし外部コンピュータが「出力系」にまで対応し、実際に出力された電気信号の結果から対応する「外界」を計算し直してタンクの中の脳にフィードバックできれば、それはまさに「世界」そのものといえないのであろうか? 強調しておくけれど、わたしはこんなことは別にどうでもよいのだ、けれども、そのような我々のあり方はある程度真実であると確信している。しかし、そこまでして「タンクの中の脳」と「外部コンピュータ」を作ってどうするのかという疑問があるが。それこそは、ある意味で「神による世界の創造」ではあるまいか?

それから、これはマルクス・ガブリエルに対する些細な揚げ足取りだが、彼がフロイトに対して優越感をもってちょっと揶揄してみせている「脳の小人(ホムンクルス)」(p.263-264)であるけれども、これは完全に彼の誤解である。フロイトが言っている「脳の小人」は、いわゆる「ペンフィールドホムンクルス」で、マルクス・ガブリエルがそこまでで散々揶揄している彼の「ホムンクルス」のことではない。それにしても、自信満々で脳科学を批判しているマルクス・ガブリエルが、脳科学の簡単な教科書にも出てくる「ペンフィールドホムンクルス」を知らないとはちょっと思えないので、何かがあったのだろうな。それともこれは、わたしの読解力不足であろうか?
 もうひとつ揚げ足取りをしておくと、本書のどこでだったか忘れたが、著者が物理学の還元主義の不完全さを(またしても)揶揄するのに、いまだ模索中の段階である「超弦理論」の未完成をもって行っているけれども、これは物理学に対してフェアであるとはいえない。「超弦理論」は自然界の四つの「力」を統一するために発展中の理論であるが、現在においてある意味では「最終理論」は存在しているのであり、それは「標準理論」というつつましい名前をもっている。いま、世の中のあらゆる現象において、「標準理論」に矛盾するそれはただのひとつも見つかっていない。それはもちろん「標準理論」が直ちに世の中のあらゆる現象を説明するということではないが、物理学の還元主義的アプローチは既に終了していると思ってよいのである。ただ、物理学者の「美意識」からして「標準理論」には「美しさ」が足りないと思う人もいて、「超弦理論」などの「統一理論」が求められているにすぎないとも言える。

さらにマルクス・ガブリエルを読んでいて、恐るべき誤りに逢着したので呆れてしまった。真空中では大砲の球と鳥の羽が共に鉛直落下するという事実を受けて、彼はこう書く。「しかしながら、この自然法則は、実際に私が窓から羽を放り投げたら何が起きるのかについては何も教えてくれません。(中略)それに、実際は羽と大砲の球は、まったく同じ速さでは落ちません。(中略)このことからすぐに分かるのは、自然法則が例外なく適用できるのは特定の理想的な条件を実現したときだけだ、ということです。(中略)ですから、自然法則についての知識だけを基にして、次の瞬間に何が起きるのかを予測することはできません。」(p.287-288)これはあまりにもひどい物理学理解である。空気中での羽の運動の予測が「困難」なのは、鳥の羽の形状を条件として与え、大気の抵抗力の効果を計算するのが非常に複雑であるということゆえのみで、自然法則は適用可能であり、羽の落下運動が原理的に予測不可能であるというわけではまったくない。少なくともこの例のニュートン力学的なレヴェルでははっきりそう言えるので、原理的に予測は完全に可能なのである。ちょっとこの誤りは「揚げ足取り」のレヴェルを超えていて、ひどすぎるので、自分は本書を丁寧に読む気力をここでほとんど失ってしまった。こんなことを書くならせめて高校物理程度のことは学んで、えらそうなことを語って欲しいものである。

マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』読了。上で散々著者を批判したが、わたしもまた「『私』は脳ではない」と思っている、その点で著者に賛成である。それから、意外であったが、本書の主張では「決定論と自由は共存可能」(p.300-325)であり、わたしもこれには完全に賛成である。これは、ピーター・ヴァン・インワーゲンという人の「共存論」と「非共存論」の整理によるものだそうで、なるほど、これはおもしろい。わたしの考えはまだ煮詰まっていなくて、著者の議論にはだいぶ疑問があるが、それでも決定論と自由の共存(というか両立)が出てくるというのはなかなかによい。著者はこれからライプニッツの「充足理由律」に及んでいるが、ライプニッツはこんなことを言っていたのか。これはわたしは無知でした。本書は徹底的な「自由擁護の書」であるが、それは決定論と両立するという類の自由なのである。なお、わたしの「共存論」は、(オレオレ)仏教的なものであると楽屋を公開しておこう。なんだ、そんなものかと思われても一向かまわない。
 それから、本書に共感するところ、もうひとつ。本書では人類はいつか必ず滅亡すると断言されているが、わたしもまたそのとおりだと思う。物理学による宇宙論を正しいとするなら、人類や地球上の他のあらゆる生命体、あるいは地球外に存在するかも知れないすべての生命体も、すべていつか滅びることはまったく疑いない。まあ、こんなことはどうでもいいことであるが。

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ 710)

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ 710)

大木毅『独ソ戦』

深夜起床。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十八番 Hob.XVI:48 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はエベーヌ四重奏団(NML)。すばらしい。西洋にはまだこれだけのベートーヴェンを演奏できる力が残っているのだな。名演という他ない。

Beethoven Around the Worl

Beethoven Around the Worl

スクリャービンのピアノ・ソナタ第三番 op.23 で、ピアノはヴィンチェンツォ・マルテンポ(NML)。
Complete Piano Sonatas

Complete Piano Sonatas

曇。
台風に備えて雨樋の掃除。

昼から県営プール。


大木毅『独ソ戦』読了。独ソ戦についての手に入りやすいエディションでコンパクトな本はこれまでなかったのではないか。本書は要を尽くした戦略・作戦細部の描写から、「世界観戦争(絶滅戦争)」概念などによる大局的な理解まで、様々な観点を有機的に結びつけた記述で、とても見事な出来といってよいと思う。独ソ戦研究の世界は何度もパラダイムが替わっているようで、過去の研究の批判なども適宜取り入れられており、おもしろいという他ない。そう、本書は戦争を記述した本であり、戦争の悲惨(特に独ソ両軍の残虐行為など)についても筆は及んでいるけれども、戦争本にしては「楽しすぎる」かも知れない。というのはもちろんわたしの感想に過ぎないわけであり、ただわたしがあるいは戦争を喜ぶクズであるせいなのかも知れないけれども。つい、「ヒトラースターリンも軍事の素人なのにバカだなあ」とか、「戦後ヒトラーに責任を押し付けたドイツ国防軍ひでー」とか、「ソ連軍の『作戦術(アピラーチヴノエ・イスクーストヴァ)』マジすごいよね」とか、血沸き肉踊ってしまうのである。ほんとわたしはクズですね。さらに、独ソの話だから、日本軍の残虐行為とか気にせず読んでいられるし。いや、本書はとてもよい本なので、読んだわたしが悪かったということになろう。なお、本書はどうも売れているらしい。さもあらん。

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

現実の戦闘、民衆の悲惨から離れれば離れるほど、戦争というものは楽しいものになっていくらしい。どうやって戦争に勝つのかという考察は、大本営の作戦地図が象徴的であるように、知的な「ゲーム」に他ならないのだ。

そういえばわたしは、子供の頃第二次世界大戦に例を採ったシミュレーション・ウォーゲームが好きだったなあ。学生のとき友人のパソコンで、戦略ウォーゲームをやるのも好きだった。もしかしたらいまでも好きかも知れないけれども、もうゲームはめんどうくさくてやらない。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ No.19 BWV864 - No.24 BWV869 で、ピアノはアブデル・ラーマン・エル=バシャ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十五番 op.28 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第六十二番 Hob.XVI:52 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。すばらしい。

昼から市役所。あまり愉快な話ではなかったのだが、丁寧に対応して下すった。
図書館。

早寝。

こともなし

晴。涼しい。
よく寝た。昨晩は『熊楠の星の時間』の第四章と第三章を読んで寝た。

午前中、うとうと。

昼寝。

出かけようとしたら、老母が「あんた、ヒマやねえ」というので笑ってしまった。じつにそのとおり、むちゃくちゃヒマである。涼しくなってきたし、庭の自然破壊(草取りともいう)でもするかということになる。麦藁帽かなんぞでも買ってこようか。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・シュガーボール+エンゼルクリームボール+ブレンドコーヒー351円。足立巻一さんの続き。こういう人はわたしのとても好きな人だ。地に足がついていて、わたしのような頭でっかちは到底及ばないし、真似ができない。何でもない文章が心に染みる。『やちまた』を見てもわかるが、巨人なのになかなかそうは見えない。真情という言葉を思い出す。

カルコス。新書本を二冊買う。貯めたポイントを聞いてみたら、3000円分以上あったのでびっくり。何年も放っておいたら、そんな額になっていましたか。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのフルート協奏曲第一番 K.313 で、フルートはスーザン・パルマオルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■シベリウス交響曲第二番 op.43 で、指揮はマリス・ヤンソンスロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NML)。

Sibelius: Symphony No 2

Sibelius: Symphony No 2

細川俊夫の「春の庭にて」、「夜の音楽」、「歌う庭」、「航海 V」で、指揮はルイージ・ガゲーロ、ウーホ・アンサンブル・キエフNMLCD)。■リストの「超絶技巧練習曲集」 ~ No.1 - No.6 で、ピアノはラザール・ベルマン(NML)。これはすごいな。
Etudes D'execution Transcendante: Berman

Etudes D'execution Transcendante: Berman

唐澤太輔『南方熊楠の見た夢』 / 南方熊楠コレクション2『南方民俗学』

曇。
昨晩は『熊楠の星の時間』の「熊楠の華厳」を読んで寝た。『レンマ学』への突破のきっかけとなった文章である。これはこれで、明恵さんへの比較的詳しい言及があっておもしろい。中沢さんはここ以外では明恵にほとんど言及していない筈である。

午前中ごろごろ。


NML で音楽を聴く。■シューマン交響曲第三番 op.97 で、指揮はカルロ・マリア・ジュリーニ、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団NML)。いわゆる「ライン」。第一楽章があまりにもすばらしくて感動させられた。マーラーオーケストレーション補筆が(といっていいのか知らないが)ここまで立体的に表現されている演奏は初めてだ。第四楽章も、マーラー版なのでちょっとあっさり目だが、集中力がすばらしい。終楽章は古典的で悪くないのだが、自分の好みとしてはもう少しリズミックでドライブ感が欲しく、多少音楽に入りきれなかったのは残念である。なお検索してみたところ、名演として有名な録音なのですね。さもあらんな。

Giulini in America I

Giulini in America I

わたしはマーラーオーケストレーション補筆についてはよく知らないが、全体的にすっきりと「白っぽく」なり、弦がざらざらした感じになるように聴こえる。オリジナルはもっとモヤモヤしていて、しかしコクがあるというか。第四楽章などはマーラー版はわたしには少しあっさりとし過ぎるようだ。

涼しい。
県図書館。米屋。餃子の王将

図書館から借りてきた、唐澤太輔『南方熊楠の見た夢』を速読する。本書の論考はわたしにはあまり価値がないが(しかし「やりあて」についてはおもしろかった)、わたしは熊楠の日記を読んだことがないので、熊楠の夢に関する日記からの引用はじつに興味深く読んだ。ああ、南方熊楠全集はまことに欲しいが、家族の迷惑になるので我慢している。図書館から借りてくるかなあ。
 図書館では明恵さんの「夢記」の全現代語訳本も見つけて借りようか迷ったが、まあ次回以降にしておく。このところわたしは夢というよりは、睡眠自体に興味をもっている。わたしは凡人なので特に「天才的」な(?)夢を見ることはないが、それを措いても無意識への扉として夢はとても大事だ。ただ、あんまり夢の世界に同一化すると危険なので、あまり気にしないようにしている。睡眠に関しては、まだまだ自分では納得していない。

南方熊楠の見た夢

南方熊楠の見た夢

図書館には平凡社南方熊楠全集はないようだな。うーん。まあ選集でも読むか。

南方熊楠コレクション2『南方民俗学』読了。

『シェーンベルク音楽論選』

曇。
高校の時につるんでいた連中とまったく架空の場所(日本ではあるらしい)を旅行(?)する夢。彼らはいまでもあの頃のままだった。

このところ完全に煮詰まっていたみたいだ。もう少ししたら多少ラクになるのではないか。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第六番 op.10-2 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十四番 Hob.XVI:40、第十九番 Hob.XVI:47bis、第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。


ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー407円。足立巻一さんの『日が暮れてから道は始まる』を読む。遺稿集。淡々とした文章だが深い思いが込められていて、おのずと目をしょぼしょぼさせながら読んだ。わたしのような人生経験の薄い者にも、著者の心情はわかる。題名の「日が暮れてから道は始まる」というのは、著者四十九歳のとき、仕事で竹の内街道を歩いていてふと心中に浮かんできた言葉だそうである。わたしはしばしば「日暮れて道遠し」と思うようになったが、「日が暮れてから道は始まる」というのは、確かにそうありたいものだ。著者は七十歳を超えて、ますますそう思うのだと。
 著者は女子大学の先生をしておられたようだが、まことに感動的なエピソードが本書で幾つも紹介されている。著者を師と仰いだ学生たちは幸いなるかな。そしてわたしは、自分がよい教師でなかったことをつくづくと思う。どちらかというと、わたしは教師をやるべき人間ではなかったかも知れない。子供たちの態度を見ていれば、自然と納得されることである。
 神坂次郎氏の『今日われ生きてあり』という本は読んでみたいものだと思った。「散華抄」という題で連載されていたものだそうだ。
 現在だって、地の塩たる人々はもちろん存在すると思う。しかしそういう人はいまやひっそりと隠れていて、そういう人の声を聞き取る人も減ったのかなと本書を読んでいてなんとなく思った。

シェーンベルク音楽論選』読了。シェーンベルクはもののよくわかった人なので単純化してはいけないが、やはり最高の音楽は専門的な音楽教育を受けていない人間には理解できないという考えの持ち主だったように思われる。いや、はっきりとそうは言っていないと思うし、一般人にだって音楽はわかるというようなことも言っているが。まあそのあたりのことはシェーンベルクの意図に関して白黒をはっきりさせる必要もないだろう。わたしはといえば専門的な音楽教育を受けておらず、実際にそれで音楽を聴くに当たり、隔靴掻痒たる気持ちになることは正直ある。結局自分には音楽の本当のところはわからないのだと、残念な気持ちになることがあるのだ。まったく面倒な話である。もちろんそんなことは気にせず、好きに音楽を聴けばよいではないかといわれるかも知れないし、それはたぶんそれでよいと思うが、一方で自分にはエラソーなところもあって、アマゾンのレヴューなどを見ているとこいつはまったく聴けていなくてヒドいと思ったりもするから、話がややこしくなる。結局何が正しいのか、よくわからないというのが本音だ。ゲージュツはめんどうくさい。
 岡田暁生氏の文庫解説(これはよいものである)によると、シェーンベルクという人は非常に表現意欲の強い人だったということで、これは確かにシェーンベルクを聴いていて納得できる。まさに霊感(インスピレーション)に従って猛烈に作曲をするタイプの作曲家で、彼の十二音音楽というのがオートマチズムであると誤解されるのが大変に腹立たしかったらしい。トーマス・マンの『ファウスト博士』の主人公アドリアン・レーヴァーキューンは誰が読んでもシェーンベルクがモデルであるが、そこで描かれている作曲家像がシェーンベルクには不満で、本書所収の論文でもマンに入れ知恵をしたアドルノに憤懣やる方ない。アドルノは作曲家としてはシェーンベルクの孫弟子にあたるが、アドルノの音楽を聴いているとその複雑さと退屈さにウンザリさせられるのであり、シェーンベルクの気持ちがわかる気がする。まあわたしごときにはわからぬアドルノなどはよいので、シェーンベルクの音楽は慣れればきちんとその美しさがわかるようなそれだ。でなければ、十二音技法があれほどの影響力をもった筈がないのである。敢ていうなら、シェーンベルクは最後のロマン派であり、最初のモダニストだったのだ。