『Ryuichi Sakamoto : Coda』

晴。
昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻 ~ 第一番 BWV870 - 第六番 BWV875 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。園田高弘はもっと聴かれてよいと思っている。わたしは好きだ。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus I, II, III, IV, V, VI a 4 in Stylo Francese, VII a 4 per Augmentationem et Diminutionem, VIII a 3, IX a 4 alla Duodecima, Canon II alla Ottava, III alla Decima in Contrapunto alla Terza で、チェンバロはピーター=ヤン・ベルダー、ヘラルト・デ・ヴィト(NML)。

Kunst Der Fuge

Kunst Der Fuge

 

春陽堂書店HP の「オカタケな日々」更新。いつも楽しみに読んでいる。岡崎さんは実力者で、いい文章を書かれるし、読んで気持ちがよい。本の話ではないけれど、ひまわりを育ててみて咲いたのがうれしいというのはよくわかった。ガーデニングとかお好きな方はそんなことで何だと思われるかも知れないし、また興味がない人には全然関係ないだろうが、わたしも毎年(わりと広い畑があるのに)プランターミニトマトを育てていて、といってもほとんど何もせず放っておくだけなのだが、小さなトマトが出来てそれを食べるのがなかなか楽しい。今年も充分楽しませてもらって、先日引っこ抜いてしまったところではあるが、オカタケさんの気持ちはよくわかるのである。無聊なおっさんにはおすすめであるよ。

午前中から台風の風が強い。もう鉢がころがって被害(?)が出ている。

今日図書館の返却日だということに気づいて、台風の風の中行ってくる。さすがに人は少ない。「おい、あんなところでメシを食っているのはいいのか!」というへんなおっさん、あるいはじじい。図書館員「あそこはいいんですよ。」やれやれ。
動画の早回しのように流れていく雲。信号待ちをしていてちょっと見とれる。雨は降っていないが、ものすごく蒸し暑い。

妹一家帰る。

20190815165055
録画しておいた、『Ryuichi Sakamoto : Coda』を観る。坂本龍一さんのドキュメンタリー映画(なのだろうなあ)。台風の中で見るにふさわしい作品だった。齢をとった坂本さんがマジでカッコいい。わたしは映像作品に対する感受性に乏しいのだが、なかなかよかったと思う。いろいろ映画の引用があったのだが、『シェルタリング・スカイ』の断片はすばらしかったので、ちょっと見てみたい気もした。坂本龍一さんの音楽自体はもう四半世紀以上聴き続けているわけだが、ニューヨークの自宅でバッハを弾いてこんなコラールを自分で書いてみたいと作曲しておられたのは印象的だった。わたし個人の思いとしては現在音楽はほぼ終っているという感じがしているが(それほど強い気持ちでそう思っているわけではない)、坂本さんは(わたしと比べるのはわたしがバカだが)似たような感じをもっておられると認識しているし、すごい才能で健闘されているとも思っている(ホント何様ですが)。

買った Blu-ray プレイヤーでいろいろ見ようかなと思っています。


中沢さんを読む。

早寝。

妹一家来訪

晴。

昼前、妹一家来訪。

皆んなで珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。
その後、暑い中、岐阜市歴史博物館へ。「縄文人のくらしと心」展を見る。展示物は基本的に岐阜県で発掘されたもので、意外におもしろく、皆んなでわいわい楽しんだ。ちょっとうるさくしていたが、ローカルなところで特に叱られることもなくよかった。夏休みで、人も思ったより来ていた。わたしはなさけないことに疲れてしまったが。

お墓参り。

帰宅後、高校生の甥っ子の将来の話でいわゆる「家族会議」になる。彼は黙ってしまって、かわいそうでもあったが仕方のないところだ。いまの子育て、いまの子供は本当にむずかしい。わたしはそういう子育ての当事者には、(たぶん不幸なことに)なれなかった。伯父として、言えることは言ったつもりである。よい方向にころぶことを心から願っている。

夕食後は、昔話などで大人たちで盛り上がった。盛り上がったというのもへんかも知れないが、皆こころが動くところがあったのだな。

早寝。

石牟礼道子自伝『葭の渚』

晴。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。セイボリーパイ チーズとチキンのトマト煮込み+ブレンドコーヒー396円。店は混んでいた。石牟礼道子さんの自伝を読む。ついに水俣病が登場。石牟礼さんは本などあまりない家に育ったけれど、特異な感受性と已むに已まれぬ表現欲のようなものが抑えきれなかったことがわかる。最初は短歌へゆくのだけれど、そのうち短歌では自分を表現しきれなくなるのだな。それから、谷川雁さんその他の人たち。
 石牟礼さん自身が述べておられることだが、『苦海浄土』は水俣病のドキュメンタリー乃至ノンフィクションではない。より奥の真実を表現するためのフィクションであり、それだからこそ文学史に残る作品になったのである。それは当然のことであるが、「ウソ」ではないのだ。むしろその反対である。

帰り、20分ほど渋滞して何だと思ったら、事故だった。


図書館から借りてきた、石牟礼道子自伝『葭(よし)の渚』読了。『苦海浄土』を執筆し始めるあたりでお終い。

…文字を読まなければ生きていけない階層と、わたしの周りにいる無学な庶民とは、言葉からしてまるで違う。そのような人たちの目に、この近代百年とはどのように映っているのだろうか。無学といっても小学校くらいは形だけ出て、自分たちのことを山学校組とか灯台組とか自称している人々の世間と、学校秀才の世界の見方はまるで質が違う。この、違和感に満ちた近代は、一度無学と思われている人たちの目で、とらえ直してみなければと、わたしは思うようになっていた。(p.328)

わたしははっきりと「学校秀才の世界」の人間であるという他なかろうが、さて、わたしの思うところではいまや「無学な庶民」という人たちがどこにいるかということである。確かに「無学」な人間はいまだって少なからずいるだろう。しかし少なくとも石牟礼さんの見たような牧歌的な庶民の世界は、とうに消滅してしまったような気もするのだ。いや、それはわたしの勘違いで、発見されるべき豊かな「庶民の世界」がいまだどこかに存在しているのだろうか。わたしが唯一思いつくのは、いわゆるヤンキーの世界くらいのものであるが。それは確かにわたしの知らない世界である。

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

どうでもよいが、石牟礼さんは「葭」(ヨシ)と「葦」(アシ)を区別しておられるが、わたしは同じものだと思っていたのだけれど。つまり、「アシ」は「悪し」に通じるので、「良し」と言い換えたものだと。

note.mu三中先生の日記からたどり着いた note。ネットで(素人に)見当違いの評価をされて、もう本を書く前向きの気力がわいてこないという話。また、池内紀ヒトラーの時代』の誤りは擁護しないが、池内さんの気持ちを深く忖度しておられる。結局、SNS って何だろうとわたしも思うのだ。わたしも note の執筆者と同じく、ツイッターをあまり好まない。あれ、皆んなどういうつもりでやっているのだろう。わたしは、あそこに現れているのこそが現代の「庶民」だと考えている。では、SNS をやっていない人たちは何なのか。ネットに一切出てこない人たち。それとも、可視化されていないかかる人たちこそが「庶民」なのか?
 

https://earth.nullschool.net/jp/#current/wind/surface/level/orthographic=-222.53,39.99,2236/loc=139.364,35.716
地球シミュレータとでもいうのかな。すごくきれいですね。

yasuyuki-iida.hatenablog.comほお、ポピュリズムについて飯田先生もそういうお考えですか。共感いたします。わたしは「ポピュリズム」は「大衆迎合主義」と訳すより、「反エスタブリッシュ主義」と訳する方がミスリードしにくいという意見(松尾匡先生のだったかな)に賛成です。ここで紹介されている新書本は、読んでみようかな。

Blu-ray ディスクドライブ落手

振替休日。晴。
このところ印象的な、わけのわからない夢を延々とよく見るのであるが、無意識の活動が活発なのか、そうなら気をつけないといけないな。

NML で音楽を聴く。■プーランクの「カリグラム」で、ソプラノはヴァレンティナ・コラドナート、ピアノはクラウディオ・プロイエッティ(NML)。

Poulenc: Mélodies 1939-1961

Poulenc: Mélodies 1939-1961

  • アーティスト: Valentina Coladonato & Claudio Proietti
  • 出版社/メーカー: Brilliant Classics
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る
 
午前中、甥っ子の勉強を見る。

昼から、珈琲工房ひぐち北一色店。石牟礼道子さんの自伝を読む。ひぐちのスタンプラリーみたいなのが一列揃って、パックのドリップコーヒーをひとつもらった。

杉本家の開放感に満ちた民話的日常に心うばわれているうち、わたしはこれは大変だ、日本の民衆の、大地や山や河川や、海などへの深い信仰は、この家を最後にして絶えるのではないかと思うようになった。/いやいや、そんなことはあるまい。…(p.178)

いまの我々の、どこに「大地や山や河川や、海などへの深い信仰」があるというのか。日本の大地はいまや北から南まで、コンクリートアスファルトで覆われ切っているのだ。陳腐な左翼的エコ信仰とおっしゃるか?


時々更新されるわたしの好きなブログが、このところ立て続けに更新されていてうれしい。

Blu-ray ディスクドライブ落手。レンタルしてきた Blu-ray ディスクを見るというよりは、テレビから録画した番組を自分の部屋の PC で見るために買った。意外と安かったです。テレビは主に老父母が見ていて、なかなか自分は落ち着いて見られないのだよね。付属ソフトをインストールしたあと Windows で実際に確認してみたところ、ちゃんと見られることがわかった。Blu-ray はふつうは Linux で見られないので、こういう時のために Windowsデュアルブートにしているわけである。

ブレイディみかこ&松尾匡&北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』

日曜日(山の日)。晴。
昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十五番 K.385 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■シューベルトピアノ五重奏曲イ長調「ます」 D667 で、ピアノはゾルターン・コチシュ、タカーチ四重奏団(NML)。

Piano Quintet in a

Piano Quintet in a

細川俊夫の「開花」、「花の妖精」、「書(カリグラフィー)」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NML)。
細川俊夫 : 弦楽四重奏作品集 (Silent Flowers ~ Toshio Hosokawa : string quartets/ Arditti Quartet) [輸入盤]

細川俊夫 : 弦楽四重奏作品集 (Silent Flowers ~ Toshio Hosokawa : string quartets/ Arditti Quartet) [輸入盤]

スクリャービンの「五つの前奏曲」 op.15 で、ピアノはジュディット・ハウレギNMLMP3 DL)。

朝寝。

図書館から借りてきた、ブレイディみかこ松尾匡北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』読了。副題「レフト3.0の政治経済学」。話題になった本で、期待どおりおもしろかった。いまやリフレ派も「国民の分断をあおる」という批判でまさに自分が国民の分断をあおっている論者が大きな顔をしていたり、せせこましい運動に成り下がったが、本書は骨太の主張でゆるやかな連帯を思い出させるよい出来になっていると思える。まあそれでも批判する人は批判するのだが、わたし(もちろんただの素人の一般人)はまっとうな主張がなされていると判断する。また、鼎談の三者の役割が絶妙だ。特に我々には、非学者代表で、イギリスの庶民感覚を教えてくれるブレイディみかこさんの存在が頼もしい。つまるところ左派たる三人の主張は、とにかく「ご飯を食べること」が重要なのだ、それを忘れた左派に未来はないということに尽きると思う。これはまさに、そのことを忘れた日本の「左派」に対する手厳しい批判になっている。
 個人的には、本書の最後の方で「左派ポピュリズム」の重要性が強調されているところが我が意を得た。わたしは先の参議院選のれいわ新選組はまさしく「左派ポピュリズム」として機能したと思う。山本太郎さんは、そのことを忘れずにやってもらいたいものだと思う。それから、北田暁大さんの本は前から読んできたが、あらためてこの人は興味深いなと思った。とても優秀な社会学者で書くものは正直言ってわたしの能力を超えているのだが、学者・北田さんもそうだけれど、むしろわたしには人間・北田さんに興味がある。特に貧しい出自というわけでもない、東大出のバリバリのエリート学者であるのに、(よい意味で)どうしてこうなった(笑)。北田さんはわたしより少しだけ年下であるが、(わたしとはちがって)大学できっちりと学ばれたことがよくわかる。それでいて知情のバランスがとてもよい。ただ、書かれるものはわたしには難解になってしまうので、あれは戦略なのか、自然なのか、レヴェルを落として不正確になるのをきらっておられるのか。いや、もっと勉強しないといけないですね、我々は。

 

もっぱら技術的興味から、Lubuntu 19.04 に古い Linux カーネルをインストールしてみる。将来カーネルのダウングレードが必要になるかも知れないので。

クリストファー・R・ブラウニング『普通の人びと』

晴。
昨晩は中沢さんの『レンマ学』を読み始めて、興奮してなかなか寝付けなかった。少しづつ読もうと思っているのだが、まず一読するのは仕方がないかも知れない。導入は思ったよりわかる。すでに「群像」連載で全体像をおぼろに掴んでいるからだろう。連載時は「縁起」の重要性は感じても(本書の土台である)、よくわからなかったのだが(つまり何もわからなかったに等しい)、もともとの意味はそんなにむずかしくないことに気づいた。つまり「世のすべては互いに関連し合っている」というくらいのことである。しかし大乗仏教はそれを、とことんまでチューンナップしてみせた。つまりは華厳の世界ということになる。それに気づけてよかった。まだまだ先は長い。
 レンマ的知性は粘菌のような脳をもたない単なる細胞にも働いているものである。脳と相性のよいロゴス的知性より「基本的な」知性でもあるわけだ。


NML で音楽を聴く。■ペルゴレージの「スターバト・マーテル」で、ソプラノはエマ・カークビー、カウンター・テナーはジェイムズ・ボウマン、指揮はクリストファー・ホグウッドエンシェント室内管弦楽団NML)。

ペルゴレージ : スターバト・マーテル

ペルゴレージ : スターバト・マーテル

クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』読了。読んである意味ではおもしろかったし有意義でもあった。ナチ・ドイツのユダヤ人虐殺についての(特異な)歴史書であるので、気が滅入るような読書体験であったのも事実である。本書については以前に多少書いたし、本書を紹介した他のよいブログなどもあるので、ここでは内容について詳述しない。歴史研究としてはたぶん傑出したものだと思う。著者が研究者として信用に価するというか。必然的に複眼的な本なので、読者も一定のリテラシーを要求されるであろう。わたしがそれに値したかはわからないところである。なかなかに複雑で読むにしんどかった。

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

 
早寝。

南直哉『仏教入門』

晴。朝から酷暑。
相変わらずあまり元気がないが、凹まないようにしよう。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

NML で音楽を聴く。■ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノはジュディット・ハウレギNMLMP3 DL)。このピアニストはまずまず悪くはないのだけれどじつのところよくわからないのだが、ショパンスクリャービンと初期シマノフスキというのがわかっているなという感じでアルバムの構成がよい。■ジョスカン・デ・プレの「おお、いと聡明なる乙女」、「アヴェ・マリア」、「復活のいけにえに」、「私にキスしておくれ(4声)」で、指揮はエドワード・ウィッカム、クラークス・グループ(NML)。

Des Prez: Missa Malheur Me Bat

Des Prez: Missa Malheur Me Bat

 

昼から、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。宇治抹茶ホイップ+ブレンドコーヒー399円。夏休み、子供たちがぎゃあぎゃあ走り回っているフードコートで、『そろそろ左派は…』の続きを読む。うーん、しっかり理解しようとすると相当にむずかしい本だな。学者の二人は当り前だが、ブレイディみかこさんもすごく勉強されていて、ついていくのが大変。本書の「レフト3.0」というタームが含蓄がありすぎるのですけれども。このあたりになると、わたしの不勉強ぶりがはっきりとするな(特に北田さんの話がわたしにはむずかしい)。それに、そもそもわたしはあまり頭がよくない。まあしかし、読んでいて元気が出る本である。それにしても、小泉政権民主党政権もいまから思うと緊縮政策でひどかったのだなあ…。小泉政権(日本を海外に売り渡した元凶)は当時も全然支持していなかったけれども、民主党の「事業仕分け」とかには興奮したものだった。あれは確かに不況下の緊縮策で、どうしようもない愚策だったといまならわかるのだけれど。無知はこわいな。

カルコスに寄る。わたしは何だか仏教に関してエラそうなことをいっているが、もちろん素人によくあるオレオレ仏教に過ぎずレヴェルも超低い。ま、いまのトレンドでも読んでおくかとえらい南直哉師の新書本を買ってみる。たぶん、読んだらむちゃむちゃ反感をもつだろうと予想しているので、読むのが楽しみ。オレってクソだよね。
 それから、梶谷先生の共著新書もあったので買う。
 と店内をふらふらしていたら、中沢さんの待望の新刊が出ているではないか! 全然知らなかった。「群像」の連載から、意外と早く一本にまとまったな。うれしい。いま、いろいろ同時並行的に本を読み散らかしている最中だが、これは読まざるを得ない。もっとも、読んでもたぶんほとんどわからないと思うが。

レンマ学

レンマ学

 

南直哉『仏教入門』読了。以下のことは一切信じてもらう必要はない。ただの未熟な馬鹿者のつぶやきである。
A crazy fool says. 本書は敢て言うが悲惨な本である。著者は高僧であり、そのような方が形而上学を構築してしまっている。いや、それがいけないというのではないが、川は川であり山は山であり、しかし川は山であって山は川であるが、けれどもやはり川は川であり山は山である(中国仏教くさいですね)というところがまったくないのではないか。この人の形而上学はこれも敢て言うが「煩悩」(あるいは「無明」)に他ならない。永平寺で二十年間修行された高僧がこれだとは。わたしは超恥ずかしながら道元禅師の御本は読んだことはないが(よくそれで仏教とかいうよw)、道元禅師は本物だったと信じているけれども。おそろしやおそろしや。

仏教入門 (講談社現代新書)

仏教入門 (講談社現代新書)

クソ素人であるわたくしは著者とはちがい、ブッダに還れは納得するが、ブッダの言ったことに還れは敢て言えばどうでもよい。いやはや、まったく意味不明ですね、逆、つまり著者が圧倒的に正しいですね。わたしもそれは認めないでもないですけれど(笑)。つまり、わたしはまちがっているのです。

しかしそういうわたしが中沢さんの「形而上学」を喜び勇んで読もうというのだから、わたしの矛盾もここに極まれりというべきか。

うんこ。

■バッハのブランデンブルク協奏曲第三番 BWV1048 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NML)。すばらしいのだが、Adagio のヴァイオリン・ソロは何?

Brandenburg Concertos Nos. 1-6

Brandenburg Concertos Nos. 1-6

■バッハのブランデンブルク協奏曲第五番 BWV1050 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NML)。最初にガーディナーを聴いたのはモーツァルトのいわゆる「大ミサ」 K.427 の録音だったと思うが、そのときはあんまり感心しなかった筈なのだよね。たぶん、それはブログのどこかにあると思う。しかしいまでは自分のもっとも好きな指揮者のひとりになったのだから、いかにわたしの音楽を聴く力が一貫していないかということだな。もちろんいまでは「大ミサ」の録音も大好きである。