多和田葉子『雪の練習生』

曇。

ちょっと PC をいじる。

夕方、珈琲工房ひぐち北一色店。多和田葉子さんの小説の続き。残りを全部読んでしまうつもりだったが、真ん中の短篇を読み終えて終了。いま自分の頭がふやけているせいだろうが、じつに読みにくい。多和田さんが読みにくいとは聞いたことがないので、自分だけがそう感じるのだろうな。また、小説も全然おもしろくなくて、進まないのである。多和田さんは受賞歴がなかなかすごくて、自分にはいったい何がおもしろいのかという感じだが、けれどもそのおもしろくなさがおもしろい気もして、読む。さて、続けて読もう。

いささか下品な行為だが、「多和田葉子 読みにくい」で検索してみると結構出てくる。ははあ、同じように思っている人はいるのか。もっと悪趣味に「多和田葉子 つまらない」でも検索してみましたが、これには沈黙しておきましょう(笑)。

図書館から借りてきた、多和田葉子『雪の練習生』読了。

雪の練習生

雪の練習生

NML で音楽を聴く。■ショパンのバラード第一番 op.23、スケルツォ第一番 op.20、スケルツォ第二番 op.31、バラード第二番 op.38 で、ピアノは佐藤卓史(NML)。僕は何にも知らないので、これだけ弾けるというのは「佐藤卓史、何者?」という感じだった。たぶん、皆さん御存知のピアニストなのだろうと思う。年齢は三十代の真ん中くらいで、もう若手とはいえない。それにしたって、ショパンスケルツォとバラード全曲の録音とは、よくやるよと思うよね。だって、すごいピアニストたちの録音がこれまで汗牛充棟なのだから。ホント、大変な勢いでバリバリ弾いている。深みもまずまずで(いやオレって何様)、でも正直言うとさらなる深みがないと世界的な一流ピアニストとして歴史に名が残るとまではいかないかも知れない、というのがわたしの無責任な予想である。しかし確かに興味深いので、どんどん次の曲が聴きたくなってしまう。いやあ、日本人にも興味深いピアニストは居るよ。なお、ディスクの曲順は作品番号順で、こう並べるとスケルツォとバラードが(一部を除いて)ほぼ互い違いに並ぶとは知らなかった。ふつうはスケルツォならスケルツォ、バラードならバラードでまとめるし、それに意味はあるのだけれど、おもしろい試みではある。

佐藤卓史 (ピアノ)ショパンバラード

佐藤卓史 (ピアノ)ショパンバラード

ボロディン弦楽四重奏曲第二番ニ長調で、演奏は関西弦楽四重奏団NML)。いい曲だなあ。
関西弦楽四重奏団 グラズノフ&ボロディン

関西弦楽四重奏団 グラズノフ&ボロディン

 

柴田宵曲を読む。内藤鳴雪という人はよく知らなかったのだが、立派で慕わしい人だな。その他愚庵禅師といい、我々が(あるいは単にわたしが)いかに下らぬ人間になったかを痛感する。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第三番 K.281 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。

昼寝。

■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノは市川高嶺(NML)。演奏会のライブ録音であるが、冒頭のこの曲以外聴けなかった。さすがにもう少し個性というか、深さがないと。

市川高嶺 ピアノ・リサイタル ライヴ・イン・東京2018

市川高嶺 ピアノ・リサイタル ライヴ・イン・東京2018

ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 で、ピアノは永岡信幸(NML)。こりゃ、なかなかの演奏ですよ。僕はこういうストイックな演奏は好みだ。全然知らないピアニストなのだが。
永岡信幸 ショパン ピアノソナタ全3曲

永岡信幸 ショパン ピアノソナタ全3曲

もうベテランといわれるピアニストなのですね。■ショパンのピアノ・ソナタ第三番 op.58 で、ピアノは永岡信幸(NML)。これもよかったですよー。このピアニストをもう少し聴いてみたいのだが、CD も多くないし、NML にはこのアルバムしかない。しかし、ここまで弾けるようになるというのは本当に大変な筈だが、人気ピアニストってわけではなさそうだし、日本の中堅・ベテランピアニストというのはホント報われることの少ない存在じゃないかと思う。

ショパンのピアノ・ソナタ第一番 op.4 で、ピアノは永岡信幸(NML)。うーん、これはすばらしくおもしろい演奏だった。御存知のとおりこの曲はショパンの中ではほとんど弾かれることのないそれで、わたしも二三回聴いたことはある筈だがまったく頭に入っていない。このような優れた演奏で聴くと、確かに聴くまでもない曲ではあるが、ショパンらしさがないわけではないし、そう、個性がまだちょっと薄くはあるとでもいうべきか。しかし、終楽章などは、バッサリ切り捨ててしまうのは惜しい気もする。この演奏は曲の姿をよく描き出しているように思えるし、美しくも骨太な演奏であるので、この曲に興味がある人には是非お勧めしたいところである。■ラヴェル弦楽四重奏曲ヘ長調で、演奏はロザムンデ四重奏団(NML)。

French Esprit Series

French Esprit Series

こともなし

曇。
昨晩は小林秀雄全集を読んで寝た。わたしは今までいちばん読み返した本が小林秀雄全集というへんな人である。いまでは小林秀雄という人は大変に評判が悪いので、自分にももう古くさすぎるかなとか思いながら読み始めたが、たちまち惹き込まれてだいぶ読んでしまった。小林秀雄は文章に心血を注いだ人であるが、いまや小林秀雄の文章は人々を捉える力を失っているという。わたしにはさみしい話である。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第六番 BWV830 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第九番 op.117 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。ずっと聴いてくるなかで、自分はちょっとフィッツウィリアムSQ を侮っていたのではないかという気がするようになった。これらは決してそんなつまらないものではない。


カルコス。探していた本がなかったので、他の本を二冊買う。さて平積みになっている本を見ると呆れてしまうことが多いが、まあそれは自分が現代についていけないだけであろうな。しかし、あんなに口汚い言葉づかいをするホリエモンが、皆んな好きなのですなあ。現代において価値があるのですね。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。多和田葉子さんの『雪の練習生』という連作短篇集みたいな本を読む。不思議な小説だ。人語を解するホッキョクグマが人間の中で暮らしているのだが、やはり思考回路(?)が人間とちがっていて、だいぶズレている。そこを楽しむ小説だろう。物語の中でカフカの小説が話題になっていて、ネズミの歌姫ジョセフィーヌ(だったっけ👉追記。「ヨゼフィーネ」だった)の話も出てくるが、そのあたりのカフカへのオマージュというか、挑戦のようにも思える。しかしじつのところをいえば、自分は多和田さんの小説の「読みにくさ」がいちばん読みたいのだという気がする。多和田さんの小説の文章にはどこかイヤなところがあって、(わたしには)読みにくいのだ。こういう文章は、なかなか書こうとして書けるものではなく、ある意味「才能」であると思われる。これは、多和田さんがバイリンガルであることと関係があるのだろうと思う。日本語でありつつ日本語っぽくない。でもやはり日本語。そんなところだ。続けて読む。


日没前、散歩。
20190701193813
このところ蒸し暑くなってきて、散歩できなくなってきたなあ。

ひさしぶりにプログラミング・ブログを書いた(参照)。

津野海太郎『最後の読書』

日曜日。雨。

昼から雨の中、肉屋。

寝ていた。起きたら夜だった。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLCD)。自由を感じさせるバッハ。少しシェン・ユエンがわかってきた感じ。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第二番 K.280 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。■ベートーヴェン交響曲第四番 op.60 で、指揮はルネ・レイボヴィッツ、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団NMLMP3 DL)。いやあ、すばらしい。第一楽章の Allegro Vivace に入るところでは、ビンタを喰らったみたいに、目が覚めるように感動させられた。レイボヴィッツベートーヴェンの指示したメトロノームを尊重した濫觴であるそうで、全体的にテンポが速いが、ただ速いだけではなくてそれなりの表情をきっちり付けているところが非凡である。レイボヴィッツベートーヴェンはもっと聴こう。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 で、ヴァイオリンはゲオルク・クーレンカンプ、ピアノはゲオルク・ショルティNML)。1947年の古いモノラル録音で、マスターのヒス・ノイズが除去しきれていないが、ヴァイオリンもピアノも音は充分生々しく、聴くのに支障はない。演奏はなかなか立派なもので、堪能した。ショルティはピアノも上手かったのだよね。

BETHOVEN,MOZART,BRAHMS

BETHOVEN,MOZART,BRAHMS

■ジョン・ダウランドの「ファンシー」、「別れを惜しんで」、「ハンズドン令夫人のパフ」、「ウィンター夫人の跳躍」、「ファンシー」、「エリザベス女王のガイヤルド」、「靴屋の女房」、七つの幻想曲 ~ 「告別」で、ギターはマイケル・バトン(NMLCD)。■ストラヴィンスキーバレエ音楽ペトルーシュカ」で、指揮はルドルフ・アルベルト、チェント・ソリ管弦楽団NML)。これは爽快なペトルーシュカペトルーシュカ大好き!
Stravinsky: Petrouchka / Le Sacre Du Printemps

Stravinsky: Petrouchka / Le Sacre Du Printemps

あんまり爽快な演奏なので若い指揮者かと思っていたら、もう亡くなっていた(1918-1992)。■シュトックハウゼンの「コントラプンクテ」で、指揮はピエール・ブーレーズ、ドメーヌ・ミュージカル管弦楽団NML)。CD だと10枚組の「現代音楽」選集。「1956-1967」とあるので、もうだいぶ昔だ。
Le Domaine Musical 1956

Le Domaine Musical 1956

このディスク・セットはここで聴き始めているのだが、途中で腰くだけになっているみたい。


図書館から借りてきた、津野海太郎『最後の読書』読了。

最後の読書

最後の読書

水島治郎『ポピュリズムとは何か』

曇。
寝た寝た、10時間くらい寝た。へんな夢もいっぱい見た。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第二番 BWV826 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLCD)。■ベートーヴェン交響曲第七番 op.92 で、指揮はルネ・レイボヴィッツ、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団NML)。1961年の録音。何というふつうのベートーヴェン。ロイヤル・フィルも特に大したことはないが、それでもわたしが求めているのはこういう演奏なのである。すばらしかった。わかっているなという感じ。

Beethoven: The Nine Symphonies, Vol. 4

Beethoven: The Nine Symphonies, Vol. 4

僕はレイボヴィッツという指揮者は初めて聴くが、もともと現代音楽の人なのだな。作曲家でもあって、ブーレーズやヘンツェなんかがその弟子であるという。十二音技法の本を書いていて、各国への影響は大きく、日本の十二音技法もここから始まったらしい。へえ。■ストラヴィンスキーバレエ音楽火の鳥」で、指揮はエサ=ペッカ・サロネン、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団NML)。

シューベルトの「春のおもい」 D686、「白鳥の歌」 D957 ~ 第十四曲「鳩の便り」、歌「シルヴィアに」 D891、「春に」 D882、「ブルックにて」 D853a で、バリトンはディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ピアノはジェラルド・ムーアNMLCD)。■シューマンの「蝶々」 op.2 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第一番 K.279 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。これは感動したとかすばらしいというよりも、現代でここまでのモーツァルトを弾くのは非常にむずかしいということである。わたしは何の楽器も弾けないが、いまのピアニストはブレンデルやピリスや内田光子のような退屈なモーツァルトを演奏するわけにはいくまい。マッコウリーはこれまでの感覚ではまあふつう程度の地味なピアニストということになろうが、わたしの感覚では現代においてやはり聴くべきであるピアニストのひとりのように思える。
Piano Sonatas

Piano Sonatas

gendai.ismedia.jpこれはおもしろい。「権利と義務は一体のものではない」というのはいい。しかし、これを読んでいると、「権利」というものの存在は無根拠のものであるようにも読める(これはわたしの妄想読みであるかも知れない)。この文章を読むとロックは『統治二論』において権利の根拠を「神」に置いているようであるが、それはつまり「無根拠である」に等しいであろう。じつはわたしはロックは読んだが読んでいないも同然の活字を追っただけ目通しなので、そのうち読み返してみたいようにも思う。まあそれはどうでもよいが、「権利は無根拠である」というのは、権利の存在意義の脆弱さを示すものではないかも知れない。逆に、権利がその存在が確たる根拠に支えておらないのに歴史的に自明視されるようになった、つまり「常識」*1みたいなものになったというのは、それこそ権利という概念の価値を高めるものであるようにも思われる。どうして必要なのか「証明」できないけれど、多くの人は「権利」というものが不可欠であると思わざるを得なくなったということだから。もしこれがそうなら、権利をむしろ「第一原理」に置くことは「正当」であるというべきかも知れない。これこそが、我々の「神」であると。

ちなみに「税金泥棒」であるが、国家による富の再分配というのは、わたしには当り前とか、常識とかのことに思える。どうして富の再分配が必要かというのも、究極的には絶対の根拠があるわけではないであろう。その「権利」というもの以外では。

珈琲工房ひぐち北一色店。ってミスドかひぐちしか行ってないじゃん、ですけれど、ミスドは気楽だしひぐちはコーヒーがうまいんですよ。
水島治郎『ポピュリズムとは何か』読了。第五章、第六章、第七章を読む。ポピュリズムは一見意外にも思われることに、まさに「リベラル」や「民主主義」を取り込んで主張をなしたりする。特にヨーロッパのポピュリズムが、「イスラーム批判」をするときなどはそうだ。さらに、無視された「サイレント・マジョリティ」の怒りを代弁したり、エスタブリッシュ政党の政策を阻止あるいは変化させたり。自分は本書を読んでいて、何だか不思議な気分になった。教条主義サヨクであるわたしが、ポピュリズムはむしろ必要ではないかとすら思えてくるのである。ただ、日本のポピュリズム政党であるとされる「日本維新の会」というやつは全然好きでないのだが。でも、もちろん自民党は支持できないが、旧民主党の残党たちもこれまた好きでない。話が逸れた。それにしても、イギリスや合衆国の「忘れられた人々」がまさにマジョリティになっているからこそそれらの国でポピュリズム的選択がなされてしまったのであるが、日本においてはどうなのであろう。どうも、日本ではいまでも「中流」が多くて、「忘れられた下流」はまだまだマイノリティなのだろうか。そして、まともな意味での(?)ポピュリズム政党が出てくるときがあるのだろうか。それが現れたとき、それをあるいは支持しそうな自分がいて我ながら驚かされるのである。そう思うと、自分は「思慮なき大衆」そのものであるのかとも思う。

*1:ここで「常識」というのは、小林秀雄的な意味においてと言ってもよいかも知れない。つまり、必ずしも論理的な根拠をもたない、「生きた知恵」のようなもの、というか。

こともなし

曇。
昨晩は柴田宵曲を読んで寝る。「子規居士の周囲」を読み終えた。続けて読む。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはシェン・ユエン(NML)。

Bach, J.S.: Complete Partitas

Bach, J.S.: Complete Partitas

ハイドンのピアノ・ソナタ第五十九番 Hob.XVI:49 で、ピアノはポール・ルイスNMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第八番 op.110 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。

雨。県営プール。

ずっとぼーっとしていた。
早寝。

鈴木大拙『一禅者の思索』

曇。
暴力とセックスと純情のハードボイルド冒険活劇を夢に見るというのは、オレの頭の中は相当にお花畑だな。どうなっておるのだ。精神分析学的「補償」かな?

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。■ジョン・ダウランドの「蛙のガイヤルド」、「ファンタジー」、「サー・ジョン・スミスのアルマンド」、「彼女は私の過ちを許すだろうか」、「はかない望み」、「クリフトン夫人の風情」、「ホワイト夫人に事あり」、「ホワイト夫人に事なし」で、ギターはマイケル・バトン(NMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第七番 op.108 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。


このところブログにクソマジメすぎることばかり書いているが、実生活ではできるだけ、あれこれ取り留めもなくぼーっと想念を浮かべながら、ベッドに転がってごろごろするようにしている。そのまま寝てしまえればいちばんよいのだが、なかなかそうもいかない。非生産的でだらしのない下らない人間が、まあ目標というほどではないが望ましい。いまや世の中かしこくて有用勤勉な立派な市民に満ち溢れているので、わたしごときがぼーっとしていても社会は発展また発展、万万問題ないことは確信されている。そんなクズは邪魔だから死んだほうがよいというのも一理ないではないが、誰でもマウントを取れるクズが存在した方が、皆さん何かと精神の健康のためにもよろしいのではないか。いつからか世界から被差別階級がなくなったことはないのだし、将来もあり得ない。それは、不満のはけ口がないと人間は生きていけないからである。それに、クズがいなくなったら、もしかしたら自分がクズになっちゃうかもしれないではないか。それは、コワい。

というわけでということもないが、寝てました(笑)。言い訳がましくてはあんまり不まじめになっていないかな。


たまたま鈴木大拙の「大地と宗教」という小文を読んでいて、そこでは大拙は「人間は大地を離れてはいけない」といっている。そんなことを言ったっていまや高層マンションの上の方の階で育つ子供もいるくらいだから、大拙みたいなことを言ってももうどうしようもないのである。そもそも、いまでは大拙の言っている言葉の意味がわからない人が少なくあるまい。「大地を離れる? ハァ?」てなものである。なんでそれがいけないというのか? ということだ。まあそれは措いて、この文章は1942年の講演を活字にしたものである。まだ戦前で、高層マンションどころではないのに、大拙はそんなことをいっているのだ。さらに大拙は、近代化の不可避もわかっていて、自分にはどうしてよいかわからないとも述べている。大拙はわからないそうであるが、自分もどうしてよいか全然わからない。わたしの住んでいる田舎でも我々はどんどん大地から遠ざかっており、わたしがしょっちゅう訪れているイオンモールなどは大地からの離脱の極致である。そして、いまやその完全人工物の世界に郷愁を覚える世代が大人になっている。まあ、楽観的に見れば、そんなことは大した問題ではなく、それはそれで新しい世代はうまくやっていくのかも知れない。

世界を完全にコントロールできるという思想は、まさに大地からの離脱から生まれたそれだろうな。そのうちかかる思想は極ふつうのものになっていくだろうし、いやすでに高度にそうなっている。東日本大震災のあと、日本は東北の海岸線を「万里の長城」で覆うことにした。この傾向が当り前のものになるという意味である、わたしの言いたいのは。

既に我々の少なからずは、人生すらも完全にコントロールできると思うようになっている。特に若い世代ほどそうだ。そこからは往々にして、我々は必ず死ぬ、そしていつ死ぬかわからないということを忘れがちになっている。

強い雨
鈴木大拙『一禅者の思索』読了。再読である。非常に勉強になった。またそのうち読み返したい。

一禅者の思索 (講談社学術文庫)

一禅者の思索 (講談社学術文庫)

エッセイ集のようなある連作短編集を読み始めるも、あまりおもしろくないので 30分くらい拾い読みする。でおしまい。

図書館から借りてきた、高橋源一郎さんの長篇『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』を十五分くらいで読み終えた。というのはもちろんきちんと読んでいない。僕は源一郎さんの忠実なファンであり読者であったが、このところ精神が硬直化してきて、時代的に進んだ源一郎さんが読めなくなってしまったようである。そりゃわたしは、いまさらコバヤシヒデオとかいっているクソだからね。マジメに読もうとするとネムい。p.132~p.134 あたりは爆笑した。さすが源一郎さん。でおしまい。

 
20190627214644
けものフレンズ」第11話を見る。