淡路島・徳島家族旅行(第二日)


好天。朝、海沿いのホテルのビーチ(?)を歩く(上の写真)。青い瀬戸内海が、海なし県に住む我々にはまぶしい。

高速に入って大鳴門橋を渡り、四国・徳島県へ。さて、今日は大鳴門橋近くの「大塚国際美術館」で半日過ごすつもり。で、その大塚国際美術館であるけれども、ご存知の人も多かろうが、じつに変った美術館である。「大塚」というのは大塚製薬のそれで、まずはとにかくむちゃくちゃにデカい。日本では国立新美術館に次ぐ大きさで、民間のものとしては最大。そして、展示しているものがこれまた変っている。西洋美術の名画などを陶板に焼き付けて、まるで本物そっくりな原寸大のものが系統的に大量に(1000点以上!)展示してあるのだ。まあ複製なのだが、まずは複製だとは思えないレヴェルである。古代ギリシアから現代美術まで、特別に有名作品がセレクトされていて、何というか啞然としました。僕は思ったが、これは特に高校生あたりが見るとよいし、実際に高校生は多かったです。しかし二時間半ほどかけて一応全部観たが、マジ疲れます。肉体的にも精神的にも、我々にはちょっと限界ですね。最近鍛えている老母がいちばん元気で、おっさんは疲れました。正直言って、もうキリスト教美術は当分勘弁してくれという感じでした。しかし、わたくしは西洋の勉強のしすぎということを痛感しました。こんなに西洋を勉強してきて、何なんだとかね。

お昼すぎに、四国八十八箇所霊場の第一番札所である「霊山寺」へ。別にお遍路さんをするつもりではないが、行ってみました。特に何ということもなし。
 霊山寺のあたりで食事ができたらと思っていたのだが、まったくそういうところがない。徳島市内へいくつもりなのでそこで食べようと思っていたら、途中にチェーン店の「丸亀製麺」があったので、ああここがいいということでうどんを食った。

徳島市を一望できる眉山へ。ロープウェイで山頂へ登る。別に何ということはないけれど、眺望はすばらしい。上の写真みたいな感じです。大きな河は吉野川(河口付近)で、写真の中央あたりが JR徳島駅。桜もきれいに咲いていて、しばし景色を楽しんだのだった。

ホテルは JR徳島駅前のビジネスホテルである「ホテルサンルート徳島」。朝食のみプランがたいそうお値打ちということで決めました。
夕食は街へ出て、ホテル近くの居酒屋「食彩 遊真」で。狭い店ということで早い時間に訪れたのだが、全然他のお客さんがこなかったですね。けれどもなかなかよいお店で、家族で居酒屋で食べる飲むというのはじつに楽しいものです。変った料理を注文しながら、いろいろたわいもない話をしつつゆっくりと飲みました。満足。

淡路島・徳島家族旅行(第一日)

老母もだいぶ元気になり、いつまで家族で遊べるかわからないしということで、いつもながら小旅行してきました。今回もわたくしの運転で、岐阜から淡路島・徳島まで行こうというものであります。車ではこれまでいちばんの遠出になります。

少し寒くはあるがまずはすばらしい天気。朝八時頃に自宅を出発。いつものごとく東海北陸自動車道の岐阜・各務原IC から名神高速道路を西へひた走る。一時間に一度くらいの休憩ということで、多賀SA(滋賀県)、吹田SA(大阪府)に寄りつつ、名神終点の西宮IC(兵庫県)まで。そこから阪神高速3号神戸線は多少渋滞していた。第二神明道路を経由して神戸淡路鳴門自動車道の「明石海峡大橋」を渡る。片側三車線もあるすばらしい橋で、運転する自分はさすがにチラリとしか見えなかったが、天気もよくて渡っている明石海峡のブルーの景色がすばらしかった。これはバス等でもよいけれど、是非自家用車で渡ってみて下さい。

淡路島へ渡って最初の SA である淡路SA に、ほぼ十二時ちょうどに着く。240km を四時間というところ。ここで昼食を食べたのだが、ちょうどお昼どきだったので大変な混雑だった。まあテキトーに、玉ねぎのたくさん入ったラーメンを食べたりした。玉ねぎは淡路島の特産品なのである。展望台からは海峡や対岸がよく見えてよい眺望だった。上の写真はそこで撮ったもの。

 のんびりしていたら結構時間をとって、途中伊弉諾神宮なども予定していたのだが、結局一気に淡路島のもう一方の端まで高速でいってしまうことにする。淡路島はやはり大きな島で、高速を使っても端から端までは一時間近くかかるのだ。淡路島南IC で下りて、いろいろ道がわかりにくかったのだが、なんとか福良の「淡路人形座」へ。建物は上の写真である。これは何かというと、人形浄瑠璃のさわりを見せてくれる常設の「小屋」なのである。我々は生の人形浄瑠璃は初めてだったのだが、高々 45分くらいのものだったのだけれど、わたしにはとてもすばらしかった(語彙が貧困ですね)。そもそも、生の三味線を聴くの自体初めてで、じつに生々しいものでした。人形もそのままだと何でもないのに、黒子の人たちが操るとほとんど生きている以上で、これも感銘が大きかった。演目は「戎舞(えびすまい)」と「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」で、前者はえびす様がお酒を召して酔っぱらいながら願いを叶えて下さるというシンプルでめでたいもの、後者は有名ないわゆる「八百屋お七」のバリエーションのひとつで、そのクライマックスの部分のみを上演するというもの。まあ、これ以上は書きませんが、私達に大阪かどこかで人形浄瑠璃を通して見てみたいものだと思わせるに充分でした。たぶん、今回の旅行の白眉だったと思います。

まだ時間があったので、多少道に迷いながら「南あわじ市滝川記念美術館 玉青館」へ。ここは現代の南画家の直原玉青の個人美術館で、玉青の作品の他、今回は「松帆銅鐸」の本物がたまたま展示してあって、老父母は関連番組をテレビで観ていたらしく、感激していました。青玉の一種の十牛図である「禅の牧牛 うしかひ草」もまた、わたしがテキトーな解説をするととてもおもしろがっていたので、よかったですね。どこで何に出くわすかわからぬものである。

宿はいろいろの理由で、その青玉館にわりと近い「サンセットビューホテル けひの海」。食事もサービスも我々には充分で、なかなかよろしかったです。一日目の走行距離は 315.2km でした。

こともなし

晴。

あんまり脳みその調子がよくないのでうとうとしていたら、夢で会いたい人と会えたのでとってもよかった。ああ、こんな顔をしてるんだと思った。ってもちろん(夢でしか)会ったことないのだけれど(笑)。

昼過ぎ、ガソリンスタンド。
高田橋あたりの桜を見に行ってみたが、まだ半分も開花していなかった。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・シュガーボール+オールドファッションボール+ブレンドコーヒー344円。岩波文庫の『20世紀ラテンアメリカ短篇選』を読む。

明日から二泊の予定で小旅行にいってきます。

小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』 / ヴィッキー・ニール『素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない。』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「イエス、わが喜び」 BWV227 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はカザルス四重奏団(NML)。これがよい演奏なのかよくわからないが、多少テンポの速めのそれではあろう。余計なこねくり回しの感じられないもので、この団体によるベートーヴェンは NML で他にも聴けるようであるから、聴くのが楽しみである。さて、どうでもいいことを少し書こう。また篠田一士さんで申し訳ないが、篠田さんは「ベートーヴェン・アレルギー症」なる現象について書いておられた。ベートーヴェンと名の付くものは一切聴きたくなくなる「病」のことで、まあよくあるものであるし、自分も覚えがある。ベートーヴェンのウンザリさせられる一面をあらわしたものでもあろう。なのであるが、わたしはいまや、ベートーヴェンの音楽にいちばん謎めいたものを感じるのである。感情というものがコスミックなものと深い繋がりがあるとでもいうのか、ベートーヴェンを聴いているとそうとでもいいたくなる「謎」を感じるのだ。まあわたしの音楽の聴き方の浅さと見做してもらってもかまわない。わたしのその感覚は、ベートーヴェンが田舎者であったことと関係があるのではないかとわたしは疑っている。武満徹は東京に住んでいながら深く自然を愛したが、ベートーヴェンもまたこよなく自然を愛する人であったことはよく知られている。たぶんベートーヴェンの心の中には、故郷の田舎町ボンを流れていたライン河が、一生住み着いていたのではないかとわたしは勝手に思っている。それはともかく、わたしはバッハ、モーツァルトベートーヴェンあたりの限界点までいければ、それ以上音楽に望むことはない気がする。まあ、その程度の人間だ、わたしは。

Beethoven Revelations

Beethoven Revelations

 
ショスタコーヴィチピアノ五重奏曲 op.57 で、ピアノはエリザベート・レオンスカヤ、アルテミス四重奏団(NMLCD)。あらためてこの曲の終楽章は不思議な音楽だと思う。第一楽章から第四楽章はまあふつうにショスタコーヴィチらしい、シリアスな音楽だといってよいが、終楽章は単純な音楽ではない。わたしは「コノ曲はナニヲイミシテイルノカ」的な聴き方はあまりしないのだが、さすがにショスタコーヴィチだからね。■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「カリヨン、レチタティーフ、マスク」、「三つのテントス」で、ギターはマルコ・カペッリ(NMLCD)。ヘンツェはこんなにシンプルなギター曲も書いているのか。魅力的な小品たち。■ヤナーチェクの「草陰の小径にて」第二集で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NMLCD)。ヤナーチェクがきらいな人っているのかな。どうしたって好きになりそうな気がするのだが。この人も遠くまで続いている人だ。


珈琲工房ひぐち北一色店。歩こうかと思ったのだが、空が暗くなってきたので車で。そうして正解で、明るいながら強い雨になった。武満徹の評伝の続き。まるで我がことのように共感できる。武満は、七十年代の終わりくらいから世界の感受性の画一化に危機感を抱くようになるみたいだ。また、西洋で成功した武満に対する、一方での武満に対する偏見。現代音楽に対する偏見でもあり、人種的な偏見もないとはいえない。それにしても、西洋の前衛があれほどまでに東洋(あるいは日本)を強く意識せざるを得なかった時代があったのだ。そして、こと現代音楽に限れば、その時代の日本はとてもレヴェルが高かったのだと思う。自分は多少の疑問も感じるが、吉田秀和さんのような非常に優れた批評家も存在した。現代音楽に対する非専門家の意識も、かなり高かったように思う。日本の戦後のどこかに、たくさんの可能性を孕んだ、そして高い成果も出した、文化の一種の黄金時代があったようだ。無知な自分はよく知らないが、そんな風に思われ出したところである。

帰りに危うく車を傷つけるところだった。あぶないあぶない。若い女性の運転には気をつけないと。


図書館から借りてきた、小野光子武満徹 ある作曲家の肖像』読了。とうとう読み終えた。何とか読み終えたといってもよい。ついに武満が65歳で死んでしまって、呆然としている。これはよい本だった。晩年の武満の、世界に対する危惧を書いてもよいが、というか書きたくなるが、ここは武満らしく希望を尊重しよう。武満は九十年代の初めに人類は(悪い意味で)その最終段階にきていると語ったが、そして哲学は終ったと書いたが(死後発見)、最後まで希望を捨てることはなかった。我々はそれよりさらに希望の失われた世界に住んでいるが、それでも希望は失ってはならないものなのだろう。たとえそれがむなしくとも。

武満徹 ある作曲家の肖像

武満徹 ある作曲家の肖像

僕は筆者の年齢を知らないが、ポジティブなパワーがある。よくもここまで書き上げられたものだ。充実した読書体験だった。あとは、もう少し武満の音楽を、さらに他の現代音楽も、ぼちぼち聴いていきたい。わたしは武満の CD は多少はもっているし、多少は聴いてきたが、まったく不充分な聴き方であったと思う。わたしごときに何がわかるという気持ちも強いが、いまならもう少しマシに聴ける気がするので。

何か絶望的すぎて自分で辟易するな。あんまりクラいのはあかん。とりあえず同時代のことは括弧に入れておこう。

図書館から借りてきた、ヴィッキー・ニール『素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない。』読了。じつにひさしぶりに読んだ一般向け数学本。もう最近は自分が理系だということを忘れていたくらいだが、自分であんまりクラいことを書いているのがイヤになって読んでみた。いわゆる「双子素数予想」の証明についての一般書で、これはいまだに証明されていない数論の難問なのであるが、これがもうすぐ証明されるかも知れないというドキュメンタリーみたいな話になっている。おもしろいのは、「双子素数予想」の研究は近年急速に進んだのだが、それが数学ではじつにめずらしいことに、「共同研究」でなされたというのである。しかも、インターネットのウェブサイト上で! これは「Polymath」というプロジェクトで、数学研究の仕方に新しい方法をもたらした、画期的なものなのだ。もちろん数学研究は個人性が強いもので、「Polymath」のような手法が数学のすべてに適しているわけではない、というか適している問題は極く限られているのだが、多くの数学者たちがこれに参加して、とっても愉快だったというのだ。なにせ、そこで発表されたものがアイデアだけとか、時にはそれが誤りであったりしても、それは進歩に役立つことであり、歓迎されたということで、いや、興味深い話である。本書を読む過程で、英語圏には優秀な数学者の数学ブログが少なくないなど、興味深い事実も知った。日本語では素人の数学・物理学サイト、ブログ等は結構あるが、優秀な数学者が日本語で数学のいまを語ってくれるようなものは、わたしは知らない。また、英語圏には本書のような一般向けの理系本がたくさんあるが、日本語では優秀なサイエンス・ライターというとかつて竹内薫さんが頑張っていたくらいで、あとは翻訳本ということになる。なかなかむずかしいのですな、この問題は。まあそれはいい、本書は大学で理系の学問を学んだ方なら、ふつうに読めると思います。結構楽しみました。

素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない.

素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない.

篠田一士『音楽に誘われて』

昧爽起床。

図書館から借りてきた、篠田一士『音楽に誘われて』読了。いつも愛読しているブログのコメント欄で教えて頂いた本である。篠田一士はブログ検索してみると 2010年に『三田の詩人たち』という文庫本が引っかかるだけで、たぶんその一冊しか読んだことはあるまい。篠田さんはわたしと同郷の方で、どうやら旧制中学という形ではあるが高校の先輩のようである。本書にも「長良川」「岐阜公園」「丸物」というような固有名詞が出てきて、わたしがそれに感慨を覚えるほど同郷の文学者は少ない(東濃や西濃の出身者はわりとおられるが、先に挙げた固有名詞はわたしに親しいもので、かかる人は他に知らない)。そして、いまではほぼ忘れられた批評家といってもよいのかも知れない。いずれにせよ、一読していろいろなことを考えざるを得なかった。教えて頂いたのは本書所収の「批評のスティルを求めて」で、吉田秀和論としてはもっとも早いものに属する文章とのことである。本書全体を読んでみて、これはできれば十代か二十代のときに読みたかったなという気がしきりとした。いまでは読むに堪えないというのではまったくない、何というか、いまやわたしは、自分が古典的な世界からしたらいかに壊れてしまっているか、ということを痛感したのである。よかれ悪しかれ、わたしは既に認識論的切断の向こう側にいる。もちろんわたしは、著者の該博な西洋文化に関する知識・教養をもたないので、「認識論的切断」というのはレヴェルの高下をいうものではない。わたしが到底著者に及ばないのは明白なことであるが、それ以上に、わたしには何が欠けているのだろうと、いろいろと思いめぐらしたことである。たぶん、「人間味」のようなものが欠けているのだろうかと、まあそんなことを思ったりした。いずれにせよ、この博学な同郷の先輩の文章をもう少し読んでみるつもりである。さすがに県の図書館にはさらにあることがわかっているからね。

音楽に誘われて (1978年)

音楽に誘われて (1978年)

 
曇。
NML で音楽を聴く。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第五番 op.92 で、演奏はアルテミス四重奏団(NML)。篠田一士さんを読んだのは貴重な体験だったかも知れないな。例えばこのアルテミスQ によるショスタコーヴィチでも、現代では特に驚くべき演奏などではないが、先ほど読み終えた篠田一士的西洋観ではもはや何とも理解すらできないものであろう。そう、先ほどの書物に引いてあった吉田秀和さんの批評に、ウェーベルン的な演奏体験をベートーヴェンモーツァルトに適用していくジュリアードQ の演奏法について書かれてあったが、この(いまなら極ふつうの)アルテミスQ などは、ジュリアードQ の鋼のような音にまだ濃厚に残っている「人間味」のようなものが、もはやきれいさっぱり抜け落ちている。ただそこに何の「人間味」もないかというと、そうでもない気もするが、とにかくまあ西洋も遠くまで来てしまっていることである。そう思うと、現代日本の幼稚な「文化」がまだ稚拙な「人間味」のパロディのようなものを残しているだけ、まだ暖かい感じがしないでもないほどだ。ただ、わたしにはそれらはいささか馬鹿らしいが。さてもさて、厄介なことになっているのかも知れないな、いまという時代は。
String Quartets 5 & 7

String Quartets 5 & 7

 

妹一家来訪。
「ひぐち」で皆んなで食事。
帰りに白山神社でちょっと桜を見る。五分咲きくらいかな。新境川堤はかなり咲いているように聞いたが、今日などはたぶん近寄れまい。

わたくしにおける精神の硬直化について。


上を書いてから篠田一士さんをあちらこちらひっくり返していて、もう少し思うところがあった。まず、この読書は自分の思っていた以上にわたしの心の深層を動かしたなということ。これはことの性質上、ゆっくりとわかってきたことである。それは、自分の中の久しく眠っていた部分であるのかも知れないし、そうでないのかも知れない。これはなかなかないことであるが、自分でもあまりよくわからないことでこれ以上ははっきりとは書けない。
 もう少し「浅い」レヴェルの話。この人は、文章にウソのない人ですね。それはあまりよい言い方ではないので、むしろ心にもないことを書かないくらいの表現の方がよいかも知れない。まあ「気持ちを書く」というのはそんなに簡単なことでないので、「気持ち」っていうのが、そもそもそんなものがあるのかというくらい、うつろうものであり、はっきりとしないものである。「楽しかった」と言うから、あるいは書くから実際に楽しかったのだなあと思うくらいで、でもそれは決してそんなにおかしなことではない。ただ、それに気づいているかどうかなので、篠田さんはそれがよくわかっている人だと思った。例えば本書の少年時代の音楽体験の話はおもしろかったが、ここでもできるだけ正確にという態度がはっきりと見えている。それだからこそさらに興味深いのですね。
 それから、これはどうでもいいことと思われる人もたくさんいようが、篠田さんは小林秀雄への傾倒を隠されませんね。音楽評論家・吉田秀和の誕生には小林秀雄の「モオツアルト」の出現が意義あることだったという主張すら本書にある。(ちなみに、わたしもそれはある程度そのとおりだと思っている。)また、小林秀雄流の、我々は西洋の文学を翻訳で読み、絵画は複製で見、音楽はレコードで聴くというどうしようもない「貧しさ」を引き受ける態度、それを篠田さんも堂々と(?)引き受けておられる。もちろん小林秀雄篠田一士よりもさらに貧しいという見方もあるだろうし(篠田さんはアウエルバッハの翻訳者である)、浅田さんの「小林秀雄の貧しさは日本の貧しさ」という断言もあって、わたしはそれらについて何もいうことはない。しかし篠田一士さんは小林秀雄の仕事が好きだった筈で、わたしのその読みはそんなにまちがってはいないと思う。それで思い出されるのが先日読んだ『小林秀雄の恵み』で、あの天才が(確か)34歳で『本居宣長』に感動し、「学問」というものを自分もしてみようと思ったという話である。そこであの天才は失われたと考える人も多かろう。わたしはこれについても何もいうことはありません。
 僕は今日つらつらといろいろ考えていて、いまや小林秀雄は読む価値がない、吉本隆明は読む価値がない、中沢新一は読む価値がないという現在の定評は、わたしの中でつながっているなと思ったことだった。あるいはその定評が正しくて、わたしがまちがっているということもあるかも知れないが、どうせムダになるのはたかがわたしの人生なのだから、まあ放っておいてくれと思いますね。ちなみに、わたしはその三者とも、まだまだ現在に活かして読んでいる人はほとんどいないとも思っています。妄想かもしらんけれどね(笑)。

ついでだから書くけれど、吉本さんって人はほんとに孤独な人だった。柄谷行人はわたしはいまではそんなに好きでもないが、そのことははっきりとわかっていてさすがだなと思う。吉本さんはふつう思われているよりはるかに自己評価の低い人で、さらに全集とか読んでいるとたまに弱音もちょっと吐いている(笑)。どういう弱音かっていうと、誰も自分に触ってくれないっていう、これはもちろん比喩ですね。かつてあれだけ読まれた人だけれども、政治的文脈で吉本さんを熱烈に読んできた人たち、また「三大理論書」中心に読んできた人たちは、わたしはまったく信用していません。まあ全集を買ってくれるならありがたいけれど(僕は図書館なので)、吉本さんの孤独の原因はああいう人たちだったと思っている。だから、晩年に中沢さんのようなよき理解者を得て、少しは救われたのではないかと想像している。わたしも、あちらこちらに点在する中沢さんの言葉が、吉本さんを読むヒントになりました。ま、そんなこんな、つまらぬことを書いた。

こともなし

曇。
昨晩は武満徹の評伝を読んで寝た。

NML で音楽を聴く。■バッハの「栄光とともにほめたたえよ」 BWV231、「正しき者は滅びしも」 BWV deest、「恐れることなかれ、われ汝とともにあり」BWV228 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ブラームス交響曲第三番 op.90 で、指揮はハンス・ロスバウト、バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団NMLCD)。■シューマンの「クライスレリアーナ」 op.16 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。よい演奏なのだが、第七曲が軽めなだけ残念だった。ファンタジックにぎりぎりまで攻めて欲しい曲である。あれで自分は曲の外へ出てしまって、二度と戻らなかった。まあ、好みにすぎないかも知れないけれども。


肉屋。スーパー。

散歩。つばめを見る。五羽くらいが目の前でつぎつぎに水を切って水浴びをして驚いた。たぶん五分間くらいだったのだろうが、すごく長い時間に感じるくらいのもので、満足。つばめが水浴びをするのかどうも確信がもてなかったのだが、検索してみたら動画もあってまさにそれだった。やはり水浴びだったのだ。
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つくしはもう少し早かったら食べられたのに、残念。田んぼひとつすべて大量のつくしというところも見つけて、いまは誰も採らないのだなと思った。田んぼも、こうだということは長いこと放りっぱなしなのであろう。

早寝。

山尾悠子『歪み真珠』 / 渡辺靖『リバタリアニズム』

深夜起床。

山尾悠子『歪み真珠』読了。

歪み真珠 (ちくま文庫)

歪み真珠 (ちくま文庫)

 
曇。
NML で音楽を聴く。■シューマンの「森の情景」 op.82 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。なかなかのもの。

シューマンの「幻想小曲集」 op.12 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。うん、これもなかなか。■ドビュッシーの「十二の練習曲」で、ピアノはジュリアン・リーム(NML)。これはすごいものを聴いてしまった。これまでこの曲集には、自分には決め手となる録音がなかった。ポリーニは技術的にはともかく、既に壊れ始めていて演奏にうるおいがない。内田光子は音楽的にはともかく、技術的な爽快さがまったくなく、スケールが小さい。と(自分には)そんな感じだったのだが、このリームという知らないピアニストの演奏には感じ入った。まずは演奏のスケールが大きく、これがこの曲には不可欠である。(たぶん)ものすごくむずかしい曲集だが、余裕をもって弾かれている感じで、パワーも充分。それに、この曲はドビュッシー最晩年のもので、かなり音楽が抽象的になっているのだが、そういうところも、また後半の曲の繊細なところもうまく表現していて、とてもおもしろかった。ドビュッシーの中でも画期的な曲集という知識はあったのだが、初めて実体験が追いついたというところである。まあこの曲集がすばらしかったといって他のものがどうかはわからないのだが、とにかくこれはよかった。自惚れているわけではないが、あなたにこれがわかるかと、ちょっと挑発してみたいような稚気に駆られるくらいである。
Debussy / Szymanowski

Debussy / Szymanowski

 
何かこのブログにはあんまりマジメでむずかしいみたいなことを書いているようだが、じつはかわいい女の子のハダカとかよろこんでしまうただのキモいおやじなので、おまちがえのないように(ってまちがわんか)。Tumblr からエロは追放されてしまいましたが。つまらんことをするなあ。


ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ガナッシュチョコホイップ+ブレンドコーヒー388円。武満徹の評伝の続き。これは元気の出るすばらしい本だ。我々の時代がかなしく思われてしまうのは余計だが。浅香さん(武満の奥さん)によれば、武満は「今日よりも明日のほうがいい日になると信じてた」そうであるが(p.157)、これには感動させられた。まさにこれであり、これはわたしとは正反対であろう。わたしだって別に、今日より明日の方が、明日よりも明後日の方が状況は悪くなると信じたいわけではない。自然とそう思うようになっただけであり、たぶん子供がいる人ならそんなことは思わないかも知れない。また、若い人なら、どれだけ絶望しているように見えても若さそのものは確実に肯定的なものだ。わたしもまた、武満のように信じられる日が来ることをほんとに祈っているのである。

渡辺靖リバタリアニズム』読了。非常におもしろい本だった。著者はあとがきで、「私がリバタリアンかといえば、おそらく違う」(p.201)と言っているが、本書はリバタリアニズムの「欠点」にも踏み込むけれど、基本的にリバタリアニズムを肯定しているといっていい。著者はリバタリアニズムを簡単に、自由市場・最小国家・社会的寛容の価値観で説明していて、確かに論理的に考えると、リバタリアニズムの価値観はなかなか反駁がむずかしいものであるとわたしにも思われる。もちろんリバタリアニズムへの反論として福祉や治安の問題を挙げることは簡単であるが、またリバタリアニズムによるそれらへの反論もまた簡単におこなえる。またリバタリアンというと裕福な(傲慢な)白人層という印象があるが、著者はそれは必ずしも当たらないことを「実例」と「実感」を挙げて否定してみせる。少なくとも自分には、リバタリアニズムは「理性」にかなり合致したイデオロギーであると思われた。
 本書で印象的だったのは、「高潔さ(character)を失った人間は自らの自由も失うのです」(p.80)というあるリバタリアンの発言である。また著者はいわゆる「トランプ旋風」は「大衆迎合主義」の意味でのポピュリズムであるということも言っていて、これらから考えるとリバタリアニズムは「高貴な人間」の思想であるといってよいように思われた。さて、ほとんどの人間は「高貴な人間」なのかも知れないが、人間の中には「人間のクズ」もいるし、わたしなどはどちらかというと後者に近いのが気になる。これは格好つけのレトリックなどではない、わたしは誰かが金をくれて、あるいは何らかの条件で働かなくてよいなら、働きたくないという人間であり、これはふつうに「人間のクズ」とされる考え方であろう。困った困った、まあ「クズは死ね」というのも一理あるし、実際に頻繁にネットでも拝見する考え方であって、あーあという感じだ。まあ、あなたは人格高潔なお人なのでしょうし、それを疑うわけではないのですがね。とにかく困るわ。

しかし、理性っていうのは厄介だな。理性ってのは一種の暴力でもあり、理性に従わないということは許されない。そして、すべての人間が理性に従って生きられるわけでもない。あーあ、ヤンナッチャウナ、てなもんだ。

それにしても、どうしてこう立派な人間ばかりいるかな。ネットを見ていると、立派な人間ばかりであり、誰もがクズを罵っている。自分もそうかも知れない。いやはや、とんでもない時代だ。