こともなし

雨。のち曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンの七つのバガテル op.33 で、ピアノはアリシア・デ・ラローチャNMLCD)。バガテルというのは「つまらないもの」というような意味だったと思う。先日ベートーヴェンの音楽を評して「ダサい」とあるのを見たが、この曲集などさぞかしそう言われるかも知れない。自分は時々聴きたくなるので、これもより内容が深いといわれる op.126 よりも、こちらのつまらない(筈の)op.33 の方が聴きたくなる。ベートーヴェンのバガテルのおもしろさはグールドに教えられた。ラローチャの録音はこの曲の自分のイメージにぴったり。この「つまらなさ」がいい。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番 op.47 で、ヴァイオリンは庄司紗矢香、ピアノはジャンルカ・カシオーリ(NMLCD)。いわゆる「クロイツェル・ソナタ」。すばらしい。この曲はカシオーリのピアノにはちょっと荷が重いけれども。


Tumblr から成人向けコンテンツが追放されるらしいな。いま進んでいるインターネットのサニタイズの一環であろう。Tumblr は下らない場所で僕は好きだったのだが、まあそういう場所はこれからもどんどんなくなっていくのであろうな。インターネットがますます「現実」そのものとなっていく現在、それはそういうものであろうと思う。それに、正直言って Tumblr は野放しといえば野放しだったからね。僕はバカなので、ああいうものだと思えば、あれが悪いとは大して思えないのだけれど。問題ですかねえ。

ブラームス交響曲第三番 op.90 で、指揮はセルジュ・チェリビダッケシュトゥットガルト放送交響楽団NML)。僕は残念ながらチェリビダッケ教徒ではないのだが、これを聴いていると信徒になってもいいと思うような。チェリビダッケというのはどこを切っても金太郎飴のようにチェリビダッケが出てくるのだが、チェリビダッケチェリビダッケを忘れるときは、他には代えがたい瞬間がある。それに、やはりこのような洗練は稀だ。

ブラームス:交響曲全集

ブラームス:交響曲全集

なお、NML のそれに該当する CD がアマゾンにないので、仮にこれを貼っておきます。たぶんこの演奏だと思う。■フランクの「交響的変奏曲」で、ピアノはパスカル・ロジェ、指揮はロリン・マゼールクリーヴランド管弦楽団NMLCD)。

雨。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。クリームイン・マフィン ブルーベリーチーズ+ブレンドコーヒー485円。青柳いづみこさんが高橋悠治について書いた本を読む。ゆたさんに教えてもらったもので、図書館に入らないかなと待っていたのだが、どうも見当たらないので購入した。自分としてはかなりゆっくりと読んでいる感じで、それも中身がおもしろすぎるからだ。始めの方に様々な高橋悠治伝説があれこれ書いてあるが、世代によって高橋悠治の捉え方はかなりちがうらしい。自分などは「畏敬」世代で、浅田さんの「高橋悠治はすごいんで…」みたいな言及が気になったものである。けれども、CD はそれほどもっていないので、じつは高橋悠治はあまり知らない。もっとも、一枚でも CD を聴けば、そのすごさは歴然というものである。
 それにしても、青柳さんは文章がうまくて、しかも自身が優れた音楽家だから、日本もこういう人が出るくらい豊かになったのだなと思う。その音楽の理解のレヴェルは自分などにはまさしく驚異という他なく、わたしなどは青柳さんの一〇〇分の一も音楽が聴けていないであろう。青柳さんの本を読む人が一定数いるというのは、やはりすごい。ただ、吉田秀和さんの文章を読んでいると自分は音楽が聴きたくなる衝動を覚えたものであるが、青柳さんを読んでいるとかなり意気消沈する。自分みたいな貧しい聴き方でも別にいいではないかと、ちょっと自分を励ましてやらないといけない。何でもだけれど、上には上、はるか上という存在がいるものだ。

こともなし

雨。

昨晩はだらだらと iPad mini でネットを見ていて、明け方に至ってしまった。何ということもない、Ruby 関連のキーワードで適当に Google 検索して、読んでいたのだ。まつもとさんはわたしより少し年上で、笹田さんはだいぶ若いが、おっさんのヒーローなのである。私見によれば、Ruby は言語仕様としてはほぼ完成されていて、まつもとさんも既に基本的に満足ということである。なので、あとは後方互換性を保ちつつ、新しい時代に対応していこうということだ。OSS はサメのようなもので、泳ぎ続けていないと死んでしまうというのはまつもとさんの持論である。そのための「目標」として、Ruby 2.0 からの 3倍の高速化、マルチコアに対応した並列プログラミング、型の静的解析の三つが挙げられているけれど、自分は個人で遊んでいるだけなので、型の静的解析はあまり必要としない。むしろ型の記述をもたない Ruby が好きである。また、Ruby が速くなって文句をいう人はいないが、これも自分はさほど必要性を感じない。毎年のリリースでその都度確実に速くなっているし、既に Python よりも速いことはよく知られているだろう。もちろん JITコンパイラには期待するけれども。
 しかし、Ruby での並列プログラミングは、遊びとしてすごく楽しみだ。それを担当しているのが笹田さんであり、Guild というプロジェクトが動いていて、笹田さんは慎重にあまり語らないが、既にプロトタイプは出来ている模様である。いろいろ検索して探ってみるのが楽しくて仕方がなく、同じ記事を何度でも見たりしている。まだ今年のクリスマスのリリースには入らないようだが、いや、いつ出るのでしょうねえ。笹田さんは若いがとてつもなく優秀な方で、現在の RubyVM を実装して根本的な高速化を成し遂げたり、Ruby 独特の Enumerator の実装に使う Fiber も実装されている。すげーよね。それに、まつもとさんが不思議な方であることはよく知られているけれども、笹田さんもまた不思議なひとだ。Ruby コミッターの方々は個性的な人が多くて愉快だが、笹田さんは特に奥が深い感じ。まつもとさんも笹田さんも端的にいっていいひとだしね。

つーわけでということもないが、半日プログラミングをしておりました。何だかどハマりして半日もかかってしまったのであるが、結局最初に考えていた方法でよかったのだ。最初からじっくり考え直してみたらするするとできた。
obelisk.hatenablog.com
 

深夜まで AOL(AIZU ONLINE JUDGE)をやっていた。AOL はひさしぶり。
marginalia.hatenablog.com

こともなし

日曜日。晴。

午前中は睡眠の後始末。
昼から睡眠。ぐーぐー。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番 op.2-1 で、ピアノはゾルターン・コチシュ(NML)。ベートーヴェンで聴かせるレヴェルのピアニストはとても少ないのだけれど、さすがはコチシュ。終楽章とか超カッコいい。今朝方ピアノなど弾けないのに人前でピアノを演奏せねばならぬという悪夢を見たが、さてももしもピアノが弾けたなら、こんな風に演奏してみたいものだ。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ

検索してみたらコチシュ、既に亡くなっているのだな。享年64。若死にだった。何とも残念なことである。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第五番 op.10-1 で、ピアノはゾルターン・コチシュ(NML)。うーん、カッコいい。コチシュはもっと聴いてみたいな。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第二番 op.12-2 で、ヴァイオリンは庄司紗矢香、ピアノはジャンルカ・カシオーリ(NML)。この曲がこれほどの存在感をもって演奏されるとは。庄司の射程はいったいどこまであるのだろうね。見当もつかない広大さである。これを聴くと、若い演奏家といってユニークな人がいないわけではないとわかる。あるいは、天才といってもよいのではないか。
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第2番&第9番

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第2番&第9番

ショスタコーヴィチ交響曲第九番 op.70 で、指揮はアンドリス・ネルソンスボストン交響楽団NML)。
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番、第8番&第9番、組曲《ハムレット》~

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番、第8番&第9番、組曲《ハムレット》~

 
あんまりマジメなことばかりしているとおかしくなるので、夜はどうでもいいことをする。通販で買った本が到着したのだが、明日読むことにしよう。寝る前には何を読もうか。

千葉雅也『意味がない無意味』

曇。

何だかあまり元気がない。起きてネット巡回。「あ、yomunel さん更新だ」と思う。あいかわらず楽しそうに読書しておられるなあ。よく読んでるし。でも、yomunel さんは「卒読」じゃないんじゃないかな。
これも起きてすぐ読む、ゆたさんのブログ。いつもよい本を読んでおられる。見習わないとな。これはツイッターでだったか、猫さん(吉本さん風に)、ちょっと元気になられたようでとりあえずよかった。

NML で音楽を聴く。■ショパン即興曲第一番 op.29 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。何となく聴きたかった。中間部へどうもっていこうかなというショパンの考えが透けて見えるような曲で、おもしろい。■シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調 D956 で、チェロはリン・ハレル、ラサール四重奏団(NMLCD)。50分間くらいだらだらとシューベルトを聴いているのもよいと思ったのだが、ラサールSQ だから完璧な演奏なのだよね。もっとだらしないそれでもよかったのだが。まあしかし、もちろん悪いわけがない。へー、この曲ってこんなだったかなとか思いながら聴いていた。■フォーレのピアノ四重奏曲第一番 op.15 で、演奏はアマラ・ピアノ四重奏団(NML)。フォーレを楽しんだ。

Piano Quartet, 1, 2, : Amara Piano Quartet

Piano Quartet, 1, 2, : Amara Piano Quartet

ブラームスの八つのピアノ曲 op.76 で、ピアノはファビアン・ミュラーNMLCD)。前と同じことを書くけれども、自分はこのピアニストがよいピアニストなのかよくわからないのだが、少なくともこのブラームス・アルバムは悪くないと思っている。

昼から晴れてきた。
■フランクの交響曲ニ短調で、指揮はロリン・マゼールクリーヴランド管弦楽団NML)。

Franck: Symphony in D Minor Variations Symphonique

Franck: Symphony in D Minor Variations Symphonique

 
iPad miniiOS を 12.1 にアップデートしたら、Safari がバグり出した。これでは Safari、使えないな。
カルコス。ひさしぶりに単行本を買ったり。


千葉雅也『意味がない無意味』読了。不勉強でかつあまり頭のよろしくない自分には無意味な本だが、著者は何でもよくもののわかった人ですね。頭がよすぎて勉強しすぎるのでこんな文章を書いているのだろうが、多くの人には何のことだかさっぱりわからないだろうから、もったいないことである。しかし著者はわかる人だけに読まれればよいと思っているのだろうな。いや、いまの若い人たちはかしこいし勉強熱心だから、このような本でもよくわかるのかも知れない。まあとにかく、頭の悪い時代遅れの人間でも結構おもしろく読めました。頑張って下さいな。応援しております。

意味がない無意味

意味がない無意味

こともなし

曇。
延々とひと続きの夢を見る。変な夢を見るな、自分は。

NML で音楽を聴く。■バッハのオルガン小曲集 BWV629-634 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■ハイドン弦楽四重奏曲第四十一番 Hob.III:49 で、演奏はアマティ四重奏団(NMLCD)。■リヒャルト・シュトラウスのチェロ・ソナタ op.6 で、チェロはマーシー・ローゼン、ピアノはスーザン・ウォルターズ(NML)。リヒャルト・シュトラウス、すごいな。わたしは若きリヒャルト・シュトラウスの足元にも及ばない。

R. Strauss & Grieg: Cello Sonatas

R. Strauss & Grieg: Cello Sonatas

 
クルターグ・ジェルジュの「… Pas a pas ? Nulle part …」 op.36 で、バリトンはクルト・ヴィトマー、他(NMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十五番 op.144 で、演奏はボロディン四重奏団(NML)。これでボロディン四重奏団によるショスタコーヴィチの新全集を聴き終えた。いうもまでもなくこの十五曲は、ベートーヴェンの十六曲と共にこのジャンルを代表する曲集である。ボロディン四重奏団による旧全集は歴史的名盤の評価が定着しているもので、初めてこの曲集を聴かれる方にはまずはそちらをおすすめしたいところだが、2011年以来のメンバーによるこの全集もまた価値の高いものであるといえると思う。この曲集が好きな方には聴いて損はないといいたい。
Shostakovich: The Complete String Quartets - Piano Quintet

Shostakovich: The Complete String Quartets - Piano Quintet

アルヴォ・ペルトの「スターバト・マーテル(ソプラノ、カウンターテナーテノールと弦楽三重奏版)」(NMLCD)。■レナード・バーンスタイン(1918-1990)の「五つの記念」、「四つの記念」、「七つの記念」で、ピアノはベニャミン・ニュス(NML)。
Bernstein: Piano & Chamber Music

Bernstein: Piano & Chamber Music

  • アーティスト: Benyamin Nuss & Wayne Marshall & Maria Kliegel & Maurice Steger
  • 出版社/メーカー: CAvi-music
  • 発売日: 2018/11/16
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る
 
野呂邦暢を読む。
延々とツイッターを見る。

自分はなかなか見栄というものから脱却できないな。まだまだである。ルサンチマンからも自由でないし。

吉次公介『日米安保体制史』

晴。
よく寝た。寝ることはもちろん必須の行為だけれど、危険もあるのだよなあ。勝手に進行してくれるので、後始末が要ったり。

NML で音楽を聴く。■バッハのオルガン小曲集 BWV624-628 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■モーツァルトの弦楽五重奏曲第一番 K.174 で、ヴィオラはハラルド・シェーネヴェーク、クレンケ四重奏団(NMLCD)。■リヒャルト・シュトラウス交響詩死と変容」 op.24 で、指揮はクリストフ・フォン・ドホナーニ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。■ドビュッシー前奏曲集第一巻で、ピアノはエリザベス・シャーマ(NML)。それなりにこの曲を聴かせるだけの力量はある。ドビュッシーだからもう少し繊細でもいいけれど。おおよそ満足。

Dans le bleu

Dans le bleu

ドビュッシーの「2つのアラベスク」、「ベルガマスク組曲」から「月の光」、新発見の練習曲、「喜びの島」で、ピアノはエリザベス・シャーマ(NML)。実直な印象。「アラベスク」は二曲とももっとチャーミングな曲だと思う。「喜びの島」は技術的な難曲で、ふつうはもっとバリバリ弾くものだけれど、敢てそこまでやっていないのかそれともそこまで弾けないのかは自分にはわからない。それから新発見の練習曲というのは、練習曲とあるけれど「12の練習曲」とは明らかに関係がないと思う。もっと若い頃の作品、もしかしたらまだドビュッシーが駆け出しの頃のかなとも思うが、まあそれも自分にはよくわからない。悪くない曲だとは思う。


ショパンのバラード第一番 op.23、第二番 op.38、第三番 op.47、第四番 op.52 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。どれもすばらしいのだが、例えばバラード第四番、これはわたしにはとてつもない射程をもった演奏のように聴こえるのだが、こんな風に聴いているのは自分だけなのかと疑う。まあ、どうして園田高弘について誰も何もいわないのかはよくわかる気もするのだが、どうして自分がここまで園田のピアノに惹かれるのかは自分でもまったくわからない。それは恐らく日本人と西洋と、それらの複雑な関係が深く絡み合っていたりもするのであろうが、何ぶんわたしの深い無意識の領域のことなので、自分にはどうしようもない。とにかく、自分はこの40分近い演奏でも園田のピアノで聴いていると極短時間のことのように思える。どれだけでも聴いていられる感じだ。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー399円。新書の『日米安保体制史』を読む。学究的な書というべきであろう。詳しい感想は書かないが、オヤと思ったことだけ。自分は以前から佐藤栄作ノーベル平和賞受賞は無意味だと思っていたのだが、意外とそうでもなかったのだなと。沖縄返還は外務省ですら無理と思っていた難事であったが、これを実現させたのは佐藤の意志と政治的手腕によるものといってどうやらよいようだ。もちろんノーベル平和賞などは下らぬ賞であるが、佐藤の受賞は実質のあるもので、例えばバラク・オバマの受賞(茶番である)よりははるかにマシであったように思える。
 もうひとつ。これも以前から思っているが、昭和天皇は食えない人物であり、戦後になっても「象徴」どころか、政府から独立した政治活動をはっきりとおこなっており、これはどういうものであろうか。この本の記述でも、キューバ危機に際してのケネディ米大統領のきわめて危険な対応(かろうじて核戦争で世界が滅びなかったのは、ソ連側の現実的な判断によるものであった)を昭和天皇が評価し、それを在日米軍司令官に伝える(p.53)など、呆れたものである。また安保体制でも、アメリカ軍の駐屯を止めさせないよう外相に指示する(p.23)等、はっきりとした政治活動をおこなっている。それでなくても対アメリカの外交はデリケートなものであり、一種の「二重権力」体制を作っていた昭和天皇は、自分は危険な存在であったと思う。それからの皇室はまただいぶ変ったが、現在の天皇皇后もはっきりとした政治活動に類することをおこなっているのは確かで、いくらリベラルで立派であるといっても好ましいとはわたしは思わない。やはり、天皇制の維持は原理的に擁護できない気がする。
 それにしても、1952年の安保条約発効から2013年までに、米軍の事件・事故で1000名以上の日本人が死んでいる(p.v)というのは、驚くべき数字ではないだろうか。これでおかしいと声をあげない日本人とは、いったい何者なのか? まあ下らぬ日本人などは放っておいても、ふつうのアメリカ人に、これがはたしてフェアな態度というべきなのか、訊いてみたい気がする。

それにしても、昭和天皇の評価はいろいろあろうが、現行憲法を全面的に尊重するという意志が昭和天皇になかったことだけは確かだ。昭和天皇今上天皇も、たんなる「象徴」などではまったくない。確実に何ものかの政治的機能である。

吉次公介『日米安保体制史』読了。特に上に書いた以上の感想は書かないが、これまでの自分の考えを変えるものではなかった。ただ、日本の政治家・官僚が「自国の国益」以上に「日米関係の良好」を重視するようになった転換点はどこなのか、少し意識してみたいとは思うようにはなった。内田樹ふうにいうと、日本の姿勢が「対米従属を通じた対米自立」からたんなる「対米従属そのもの」に変ったその転換点といってもよい。ちなみに内田樹はいまや「ツイッター論壇」(笑)では徹底的にバカにされており、それはわからないでもないが、あれは正直言ってあまり気持ちのよいものではないね。そんな内田のいうことも、この点に関しては一理あると思うようになったということだ。ま、そういうわたくしも内田と同類の○○なんでしょうが、まあいいや。勝手にやってろという感じ。素人かつ能力不足ではあるが、これからも少しずつお勉強していきたい。

日米安保体制史 (岩波新書)

日米安保体制史 (岩波新書)

なお本書は新書にもかかわらず、稀なことに簡単ながら索引が付いている。著者ないし編集者の意志が窺われる。


吉本隆明全集を読む。頭にガンガンくる。あんまりいまの時代、人物がいないので、それに慣れちゃったらダメだとつくづく思う。しかし、こんな状況は一時的なものなのだろうか。たぶん我々の世代の少し前くらいから、この不毛さは始まっているのだが、これがそのうち終わるのか、それとももっとひどいことになるのか。わたしはいまの若い人たちに何の期待もしていないが、わたしが敬意を抱いている人たちは凡そいまの若い人たちを褒めているので、たぶんわたしがまちがっているのであろう。そうであれば、どんなによいことか! しかしまあ、我々バブル世代が最悪だというところは動くまいが。ホント、どうしようもないクソ世代だ、我々は。さっさと消え去った方が世のためである。いや、お前が消え去れって? 確かに。

陶磁器をあれこれで東濃へ

晴。

甥っ子のお茶碗を買いにという名目で、家族で東濃東美濃)へ行ってきました。国道21号をずっと東へ、一時間と少しくらいで多治見です。東濃は陶磁器(美濃焼)の産地なので、岐阜県現代陶芸美術館というハコモノがあり、まずはそこを訪れました(下の写真)。いまは「フィンランド陶芸展」というのと「マリメッコ・スピリッツ展」というのをやっています。フィンランドの陶芸などというのはもちろんまったく知りませんが、なるほどやはりヨーロッパだなとは思いますね。洗練度は日本の陶芸の方がはるかに上で、そういうのよりは、むしろ一種の素朴さと最近流行りの「北欧的」デザインの感覚というか。土俗的なよさを感じました。ただ、明らかに日本料理とか和室には合わないかな。むしろ今風のオサレなカフェとかに似合いそうでした。
 マリメッコというのも自分はまったく知りませんが、フィンランドのアパレル企業にしてブランドであり、日本でも特に女性にはよく知られているそうです。なるほど、自分にはとても似合いそうにないですが、これも若い女性などに親和性がありそうですね。実際、若い母親らが小さい子供を連れて見に来たりしていました。



お昼は多治見中心部のそば処井ざわへ。最近よくある古民家をリフォームした如き店で、わかりにくいところにあるのですがどんどんお客さんが来ます。辛味大根おろしそば大盛を頂きましたが、文句なくおいしゅうございました。まことにいまやありがちなのですが、ネット情報様様ですね。
 ふたたびセラミックパークMINO 内の美濃焼ミュージアムへ。先ほどの現代陶芸美術館ではそれこそ美濃焼がまったく見られなかったのでここを訪れてみたのですが、入館料はたいそうお値打ちだったのに結構見ごたえがありました。若い作家の作品もなかなかでしたし、歴史的な美濃焼の実物が概観できてよかったです。僕は不遜にもそれほどとは思わないのですが、人間国宝荒川豊蔵も展示室をひとつ与えられていて、さすがに郷土の偉人という扱いでした。なお、ここのミュージアムは10年くらい前か、家族でかつて来ていて、自分ははっきりと覚えていました。また来るとは思わなかったけれど、ホントなかなかよかった。
 そうそう、東濃の山々は雑木がまだまだきれいに紅葉したのが見られました。これも楽しんだ。
 そして、今日の目的(?)である、道の駅 志野・織部へ。何で道の駅なんだと思われるかも知れませんが、ここの陶磁器ショップが結構すごいのです。さすがに陶磁器の里というところで、よいものがお値打ちに、そして量もかなりあって、陶磁器を冷やかすにはとてもよいのですね。もちろん甥っ子の茶碗をまずは選びましたし、僕は自分用にどうでもよい安い皿を買ったり。あとは家族分の丸い平皿とか、あとは「おかず味噌」等地元の産物など。ついでにイートインで珈琲+シュークリームの類を食ったりして、楽しゅうございました。
 高速を使わないと赤信号で休めるので楽は楽ですね。往復 100km ちょっとくらいだったかな。遊んできました。

魚雷さんのブログを読んでいて、大岡昇平小林秀雄』が中公文庫で出たことを知る。小林秀雄か。魚雷さんは小林秀雄、どうなのだろうな。わたしがたぶんいちばん繰り返し読んだ本は、小林秀雄全集だと思う。いまや小林秀雄がクソのような扱いをされているのは仕方がないことと思っているが、わたしにはさみしいことである。まあしかし、そういうものなのだ。開高健も若い頃よく読んだが、開高はいまでも読まれているのではないかと思う。あとは中沢さんだが、現在進行中の中沢さんの画期的な連載について誰も何もいわない。それも、そういうものだ。

野呂邦暢を読む。結局純文学でもエンタメでも、マンガでもアニメでも映画でもゲームでも何でもいいが、こういうものがあるかどうかなのだ。しかしその「こういうもの」を説明することができない。少なくともここには、わたしの欲しいものがあり、そしてこれが現代にはほとんどない。野呂邦暢のエッセイを読んでいると、彼は意外と楽観的であるように見える。その点では彼はどうしようもなくまちがっていた気がするが、まあしかしそんなことはどうでもよい。現代では野呂邦暢はまったくの贅沢品であり、これで現代に対することはできない。いや、それでも野呂を読む若い人は出てくるだろうが。趣味というものである。

ポストモダンをたわむれにすぎないと思っている人は別にまちがってはいないが、いまやとてもそれどころではないことを認識しておいた方がよい。どれだけ真剣にやってもネタほど注目されないのが現代である。真剣にやる人はいまでもたくさんいる。問題はそこからなのだ。幼稚さはすべてを駆逐する。

さても、幼稚なことを書いたわたしは寝よう。おやすみなさい。