こともなし

晴。
起きてぼーっとして昼寝してまたぼーっとしているけれど、なかなかつらい。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第五番 K.283 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。理想的な演奏に近い。

部屋掃除。一時間くらいかけてやったのだが、だいたいきれいにしたつもりだったのに、姑的な目で見ると「まだ甘い!」とか思ったり。まーえーわ(岐阜弁)。

夕食を食ったら眠くてしようがない。

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』 / 『原民喜 戦後全小説』

晴。
何かギリギリの夢を見て気持ちが悪い。後始末もし切れない。

NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、チェンバログスタフ・レオンハルトNMLCD)。■パーセルの四声のソナタ第五番、第六番、第七番で、演奏はパーセル・クァルテット(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.153, K.154, K.155, K.156, K.157, K.158, K.159, K.160, K.161, K.162 で、ピアノはカルロ・グランテ(NMLCD)。聴き出すとやめられないスカルラッティ


昼から、ミスタードーナツ イオンモール各務原店。ホット・スイーツパイ りんごとカスタード+ブレンドコーヒー。フードコートの隣にある本屋で買った、岩波新書『ライシテから読む現代フランス』を読む。半分ほど読んだのだが、錯綜し過ぎていてわけがわからなくなってしまった。まず、「ライシテ」というのが一筋縄ではいかない。その多義性が本書では繰り返し指摘されているが、仮に「政治(あるいは公共の場)においては、宗教色というものを脱色すべきである」という考え方とでもいうべきかと、本書から自分は思った。「ライシテ」という言葉は日本ではほとんど流通していないと思われるが、そういう言い方をすれば、まあ当り前のような気が一応すると思う。宗教は私的なもの、別に問題ないじゃないといわれるかも知れない。しかし、そんなに簡単なことでもないのだ。例えば日本でもイスラム教徒に対する「ハラール」の尊重(イスラム教で食べてはいけないものは提供しない)は少しづつ浸透してきたが、ある種のライシテの立場だとそれは特定宗教に関係するから、学校給食などでそれに対応するのは間違った考え方になりかねない。それどころか、フランスではイスラム教徒の女性のブルカ(顔の前のヴェール)は、公共の場では排除されるべきだという考え方はむしろふつうなのである。また、イスラム教徒の女性は肌を露出させない特殊な水着を着てはいけないとか。さても、こんな感じだ。
 上の例でわかるように、「ライシテ」とは一般的な概念のように見えるが、現在問題になっているのは特にイスラム教徒をどうするかという、特定宗教の問題が大きい。それに、さらにユダヤ教も関係してくる。(以下、わたくしの考えである。)この問題が厄介なのは、原理的な解決がほぼ不可能だからである。宗教的な多様性およびそのアイデンティティを受け入れるべきであるという命題と、ネイションは単色に統一されるべきであるという命題の、どちらが原理的により正しいともいえないからだ*1。そして、そもそも「ライシテ」というのは、その性質からして宗教に対する否定をどうしても含んでしまうが、人間というものはなかなか宗教から脱却できないものであるし、そもそも宗教から脱却した方がよいのかも、原理的に決定できるものではない。さらに、多様な宗教を認めるにしても、人間において完全な「寛容」はまた不可能に近い。というあたりのことがぐちゃぐちゃに絡まっていて、わたしの理解を超えている。まあ、さらに読んでみる。

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』読了。上にいろいろ書いたけれど、本書の議論はもっと精緻である。結局能力不足と知識不足とで、本書をしっかり理解していないということになった。本書が最終的に何を主張したいのか、よくわからなかったのである。まあ、著者のような優秀な知識人が、よしなにやってくれるのであろう。自分ごときに何もいうことはないという感じがする。なげやりですかね?

しかしまあ、政治と宗教を分離するのが正しいというのは、そんなに反対されない立場ではあるのでしょうね。実際に自分もそれしかないと思うし。だから、やはり天皇制は解体されねばならないというのは、ちょっと飛躍ですか? 僕は天皇制がどのような形態になろうが、その存在ゆえにどうしても権力の二重性が生じることは不可避だと思う。いまの天皇は「リベラルで立派だ」とは自分もそう思うが、確実に政治的にふるまってもいると思う。それだから、政府はそれを明らかにあまり喜ばない。ちなみに、昭和天皇はきわめて政治的に強くふるまった天皇だったと思うし、敢えていえば「戦争責任」は確実にあると思う(昭和天皇自身は戦争責任というような「文系的な考え方」はよくわからないと述べているが、もちろんとぼけているに決まっている)。このことはそのうちブログでも語れない時代がくる可能性があるので、いまつぶやいておくことにする。これから、昭和天皇は確実に「神格化」されていくと思うし、それは既に現在進行形である。そして、神格化された皇室が同時に何らかの政治力をもつという流れが強まるだろう。そこで、やはり政治と宗教は分離されるべきであると。

単純に言って、選挙権の存在しない日本人がいていいのかという話もあるしな。まあ、いまの天皇が「いい人」「立派な人」「思慮深い人」っていうのはそうだとは思うのだけれど。


原民喜 戦後全小説』読了。

原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

*1:ふつうは「多様性擁護」が正しいとされると思うが、それは歴史的・経験的に得られた解であって、ア・プリオリに証明できるようなものではない。いや、「ライシテ」というのは「多様性擁護」と「ネイションの単色性」を共に得ようとする発想といえなくもないのかも。

こともなし

晴。
寝坊して起こされる。

つけ麺「丸和」にて昼食。丸和つけ麺830円。大盛り 450 g 食ってやった。さすがにお腹いっぱい。
待ち時間に開高さんと weekly PB 編集長とのジョーク合戦みたいな対談本を読む。開高さん最晩年のもので、はなはだ元気がない。そういえば、作家がカンヅメになるどこやらの出版社御用達の旅館には、開高さんの幽霊が出ると何かで読んだことがある。開高さん、迷っておられるのだな。さもありなん、繊細な人だったから。

開高さんはいまでもよく読まれているように見える。ネットで検索してみても、たくさんのサイトがヒットする。当り前であると思う。

昼から病院で母の検査。病院は一月ぶりくらいか。検査はすぐに終了。結果は来週の診察でわかる。よい結果だといいな。
支払い待ちの間にネットで高校野球を見ていたら、地元の大垣日大が満塁ホームランで逆転。あらあらという感じ。僕はどちらかというとこんなに暑いのに野球などやらなくてもいいだろうというひねくれ派なのだが、こうなってうれしくないわけではないので矛盾している。

母の食事もあって珈琲工房ひぐち北一色店へ。僕はコーヒーゼリーブレンドコーヒー。ここ、250円でコーヒーのおかわりができるのか。ちょっと高いけれど、そのうち利用してみようか知らん。
医療器具販売店へ。

暑い。車の外は41℃とかわけのわからない数字が出ている。

マキャヴェッリを読む。

沖縄県の翁長知事が亡くなった。いろいろな思いがあるが、聞いた風なことを書く気がまったく起きない。ツイッターでは何が書かれているか予想がつくので、ツイッターを見る気も起こらない。このことと直接は関係ないが、いまの日本がアメリカに対して事実上主権をもっていないこと、また日本の政治家、官僚、財界人、知識人がなべてアメリカの提灯持ちになっているという現状は、自分にはよいことだとは到底思えない。そうであるがために、本土の人間は沖縄に対して矛盾を押し付ける(とでもいうしかない)ことになっている。ひどい話である。しかし自分もまた何もできていないのだ。

しかし自国に主権がないことを日本の右翼はどう思っているのだろうな。それでよく「愛国」とか言うわ。「非国民」たるパヨクの自分の方がどれだけ「愛国者」か知れない。どうでもいいが。


原民喜を読んでいるが、捗らない。特に彼が妻について書いている小説は、痛々しすぎて直視できない。だから、あまり言葉を意味作用させないよう、斜めから読んでいる。これが正しい読み方だとは思わないが、そうでもしないと読めない。
 「世界はこんなに美しいのに、どうして人生は暗いのか」という一文がたまたまあった。先日読んだ梯久美子さんは、たぶんここを読んでフランクル(だったっけ)を想起していたのだと思う。僕もフランクル(だとして)のそこは読んでいた。アウシュヴィッツで絶望的な強制労働に従事しつつ、赫い夕日の沈んでいく様があまりも荘厳であるのに対し、誰かが「なんて世界は美しいんだ…」とつぶやくというような場面だったと思う。たしか梯さんは、そこに救いを、人間性の発露を見ていたと覚えているが、じつは自分はまったく反対の受け止め方をしていた。自分がフランクルのそこを読んだとき、人間はあまりに荘厳で美しいものを見つつ、そしてそれを限りなく美しいと思いつつ、心が死に切っているということがあり得るのだと読んでいたのである。心が死に切っていても世界は美しいのだ。こんな「絶望」があるかと思ったのだ。さて、自分は自分が正しいのか知らない。おそらくは勝手な読みなのかも知れない。原民喜はどうだったのかと思う。

こともなし

曇。
わりと早く起きた。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第三番 K.281 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。こんなにすばらしいモーツァルトは滅多にないですよ。これぞモーツァルトという。野平さんのピアノでピアノ協奏曲もないかなあと思うが、少なくとも NML にはないみたい。■ブラームス交響曲第一番 op.68 で、指揮はベルナルト・ハイティンクロンドン交響楽団NML)。がっちりした演奏。隙がまるでない。

Symphony 1/Tragic Overture

Symphony 1/Tragic Overture

■バッハの半音階的幻想曲とフーガ BWV903、トッカータ ハ短調 BWV911 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。マジメな演奏なのだが、自分が日本人だからこんなにおもしろく聴けるのかなあ。そのあたりがよくわからない。

図書館とスーパー。
32℃くらいで昨日より7℃低いと随分涼しく感じる。

昼寝し過ぎ。
夕方、県図書館。


このところ、日本の様々な古いシステムが制度疲労を起こしているらしき兆候が頻繁に見られるようになってきた。企業、大学、官公庁、政治。若い人たちの「老害」呼ばわりも、ツイッターなどを見ていると常態化している。わたしもまたその「老害」を引き起こしているクラスターに入るのかも知れない。まあ誰であっても他人に何の迷惑をかけずに生きていくことなどできず、わたしも生きていかねばならないので「老害」たるは残念であるが、ある程度はやむを得まい。果たして若い人たちがそんなに立派なのかは知らないが、こちらとしても最小限度の迷惑で済むようにしたいものだ。それにしてもお互いがお互いを罵り合う、愉快な国になったものだと思わされる。たぶん、いちばんダメになったのは、わたしも含めたふつうの日本人なのだと思っている。皆が思うような、政治家だけが悪いとかはまったくピント外れだとも思っている。


RubyScheme を実装するというお勉強をしていました。ムズカシー。
obelisk.hatenablog.com

大栗博司『素粒子論のランドスケープ』

晴。
イヤな夢を見た。ネットを見てばかりだからなのだろうね。精神の貧困。

暑すぎて何もできない。夏バテにならない方がおかしいくらい。昼から寝ていたらもう夕方です。

NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第二番 BWV807 で、チェンバログスタフ・レオンハルトNMLCD)。■バッハの幻想曲とフーガ BWV904、幻想曲ハ短調 BWV919、幻想曲イ短調 BWV922、ロンドによる幻想曲 BWV918、幻想曲とフーガBWV906 で、ピアノはアンドレア・パドーヴァ(NMLCD)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第六番 op.30-1 で、ヴァイオリンはヨゼフ・スーク、ピアノはヤン・パネンカ(NMLCD)。好演。スークのヴァイオリンはもちろんなのだけれど、パネンカがまたよいのだよなあ。名手どうしのデュオで、じつに気持ちがよい。■オネゲル交響曲第五番「3つのレ」で、指揮はシャルル・デュトワNMLCD)。


図書館から借りてきた、大栗博司『素粒子論のランドスケープ』にざっと目を通す。大栗先生は僕の高校・大学学部の先輩に当たり、世界的に著名な物理学者である。本書のむずかしい部分は自分はもちろん理解していないが、一般向けの文章も少なからず収録されていておもしろかった。いま、日本の若い人たちは物理学についてどう思っているのだろうか。自分が教えていた中では、物理をやろうという生徒はひとりもいなかったが。「実学」志向の子が多かったな。

素粒子論のランドスケープ

素粒子論のランドスケープ

もっと理系本ナナメ読みがしたいのであるが、このところなかなかできていないなあ。これからの自分にまず役に立たないので、そこがよいと思うのだが、思うに任せず。


吉本隆明全集第13巻の『書物の解体学』の部分を読み切る。前にも書いたとおり以前文庫本で読んでいるのだが、覚えているところの方が少なかったし、それに前はまるで読めていなかったことが明らかだった。そう思うと、何十年かで多少進歩したのかも知れない。それにしても、あとがきや文庫版あとがきに当たる文章を読むと、吉本さんの自己評価の低さに驚いてしまう。語学が苦手だという吉本さん(自分などはそのレヴェルですらないけれど)が、翻訳で、それもたぶん大したものでもない(かも知れない)翻訳で、バタイユやミラーやユングを読まねばならないというやり切れなさを、吉本さんは隠そうとしない。そういう大物たちに全力でぶつかっていって、それで粉砕されたのか粉砕したのかは知らないが、その「格闘」がわたしの心を打つとポエムみたいなことを言って、しかし自分はバカにしているのでも何でもない。たぶん、外国語のよくできるいまの秀才たちからしたら、何の価値もない吉本さんの文章なのであろう。さみしいものである。しかし、よくもここまで粘り強くやったものだ。本書を書かせた編集者である故・安原顕は、「吉本さんは勘がいいんですね」と励まして(?)くれたそうである。そして思うが、吉本隆明は外国語にならない。たぶん永遠に日本でだけ(読まれるとすれば)読まれるのであろうし、自分はそのことをほとんど誇りにすら思う。愚かであると嗤われよ。

特に、ヘンリー・ミラーについて書かれたものには、返す刀でこちらがバッサリ切られた感じのするところがいくつかあった。剣豪・吉本にやられたな、と思う。

Ubuntu 16.04 LTS を 18.04.1 にアップグレードしてみたり

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第二番 K.280 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。野平さんのモーツァルトは最近聴いたモーツァルトの中でもっとも気に入っている。■バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、チェンバログスタフ・レオンハルトNMLCD)。

ドラッグストアとスーパー。何日ぶんも買ったので(貧乏人的には)すごい金額になった。
しかしいまの大金持ちの贅沢って、自分には全然イメージできないな。家に金をかけるとか美術品を買うとかいっても、審美眼がないからどうしようもない。精々一等地にコンクリート製のバカでかい建物を造って、値段のバカ高いアニメ絵の「美術品」でも部屋に置いているくらいじゃない? ってこちらの想像力が貧困かな(笑)。

NML で音楽を聴く。■オネゲル交響曲第四番「バーゼルの喜び」で、指揮はシャルル・デュトワNMLCD)。■マーラー交響曲第五番で、指揮は小澤征爾ボストン交響楽団NML)。これ、ライブ録音なのか。終ったら聴衆のワッという声が爆発したので驚いた。完璧なので、スタジオ録音だとばかり思って聴いていました。

小澤征爾: マーラー交響曲全集 14枚組

小澤征爾: マーラー交響曲全集 14枚組

ベートーヴェンのトリオ変ロ長調 op.11 で、クラリネットはポール・メイエ、チェロはクラウディオ・ボホルケス、ピアノはエリック・ル・サージュ(NML)。いわゆる「街の歌」で、オリジナルのクラリネット、チェロ、ピアノの編成で演奏されている。どうせなら、カップリングはブラームスクラリネット・トリオにしてくれるとよかったのに。
Beethoven: Trios for Clarinet, Cello & Piano

Beethoven: Trios for Clarinet, Cello & Piano

 

Ubuntu 16.04 LTS を 18.04.1 にアップグレードする。その前の 16.04 のアップデートで Wi-Fi が使えなくなるなどいくつか不具合があったので、有線接続でディストリビューションのアップグレードをやった。うまくアップグレード成功。不具合も直っているようである。けれども原因不明の不具合なので、既に Linux Mint に入れている Timeshift を導入する。これは Windows の「復元ポイント」みたいなもので、システム更新時の不具合(これは Linux の宿命で、結構よくある)が出たときに簡単に元に戻せるというものだ。Ubuntu 系のディストリビューションをメインで使っているひとにはお勧めである。にっちもさっちもいかない場合は頼りになります。
 それから気づいたのだが、Ubuntu 18.04 から Ruby2.5 がデフォルトで入っているみたいですね。$ ruby2.5 -v で確認しました。Perl はずっと前から入っていたし、Python はシステムでもガンガン使われているが、ついに Ruby もデフォルトで入るようになったか。ちなみに Mac でも最初から Ruby が入っているみたいですね。Linux Mint には結構前から入っていた。ちなみに調べてみたら、Perl は 5.26.1、Python3 は 3.6.5 が入っていました。
 ついでといっては何だが、Linux MintRuby のバージョンを 2.5.1 にしました。rbenv で簡単にできる。

Xubuntu 16.04 LTS も 18.04.1 にアップグレードしました。こんな感じ。
20180806024401
Conky を設定しなおしたりスワップ領域を有効にしたりとかで、ぐぐりながらやったので結構時間を喰った。

町田康『スピンク合財帖』

晴。
起きたら老母から連絡(?)があって、庭にカブトムシがいると。え、と見にいったらメスのカブトムシだった。何か食べているところのようだ。野生のを見るなんて子供のとき以来か。そのうち母が写真をブログにアップすることでしょう。

昨日から何にもしたくない。なので昨日は Ruby で遊んでいた。プログラミングは罪のない遊びなのだけれど、最近ではお仕事に使う人たちが喧しすぎて楽しい記事があまり見られない。幼稚で役に立たなくてもいいので(自分には)楽しいプログラミングをしていきたい。
 でも、Qiita とか見ていると、お仕事の人たちが必ずしもレヴェルが高いわけではない。自分の知らない言語のこととか、あまり使ったことがないのが丸見えなのに断定的なことを書いている記事が少なくない。というか、最近(自分には)Qiita つまらなくなった。まあ、IT 職の人たちがやたらと増えたせいもあるだろうな。流行的な話題ばかりが目に留まるようになっている。

NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、チェンバログスタフ・レオンハルトNML)。CD が安いな。

Bach English Suites-Partitas

Bach English Suites-Partitas

メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソ ホ長調 Op. 14 (フルートとピアノ編)、ジョルジュ・ユーの「幻想曲」、セシル・シャミナードのフルート・コンチェルティーノ Op. 107 (フルートとピアノ編)で、フルートは浮ヶ谷順子 、ピアノは元井美幸(NMLCD)。

夕方、珈琲工房ひぐち北一色店へ。ここ、コーヒーに付いてくるクッキーだけダメだな。甘ったるくて、せっかくおいしいコーヒーの味を消しちゃう。って喫茶店評論家じゃないですけれど。
町田康を読む。スピンクものはいまひとつよくわからないのだなあ。町田さん本人が犬から戯画化されているのだけれど、ちょっとイヤな感じかも。気にし過ぎかな。

図書館から借りてきた、町田康『スピンク合財帖』読了。途中で止めようかなとも思ったのだけれども、何とか最後まで読めました。

スピンク合財帖

スピンク合財帖

 
原民喜を読む。

NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、チェンバログスタフ・レオンハルトNML)。■ブラームスのチェロ・ソナタ第一番 op.38 で、チェロはオフェリー・ガイヤール、ピアノはルイ・シュヴィッツゲーベル=ワン(NMLCD)。■シューマンのピアノ協奏曲イ短調 op.54 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウス、指揮はカール・ベームウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。1963年のライブ録音。はっきり言って音が悪いです。デジタル的なノイズ・リダクションのせいでノイズはあまり感じられないけれど、それで音がよくなるわけではない。特にオケの音が貧弱で、とてもウィーン・フィルだとは聴いただけではわからないと思います。けれどもピアノの音はまずまずで、バックハウスらしい、(吉田秀和さんの言うところの)すっぱいような音の美しさはちゃんとわかります。で、あいかわらずゴツゴツした無骨なピアニズムだが、それでも終楽章などには思わず感動させられたのは秘密です。とても CD で買う気にはなれないが、ここいらがストリーミング配信サービスのうれしいところかも知れないな。

Concertos: Bohm / Bpo Vpo Askenase Elly Ney Backhaus Schneiderhan

Concertos: Bohm / Bpo Vpo Askenase Elly Ney Backhaus Schneiderhan

モーツァルトのピアノ・ソナタ第一番 K.279 で、ピアノは野平一郎(NML)。いや、これ、すばらしいでしょう。僕はモーツァルトのピアノ・ソナタの中では(第八番は別格として)この第一番がいちばん好きなのだが、まさにこれといいたい仕上がり。よく知らないのだけれど、野平さんってもっと聴かれていいんじゃない? まあ、NML でかなりの数のアルバムが聴けるので、ぼちぼち聴いていきたい。
野平一郎モーツアルト ピアノソナタ全集1

野平一郎モーツアルト ピアノソナタ全集1

■バッハのイタリア協奏曲 BWV971 で、ピアノは園田高弘NML)。これもよいな。日本人ピアニスト、っていうのはよくない括りかも知れないが、野平さんといい園田さんといい、紛れもない日本人ピアニストという気がする。どことなくアノニマスというか、無意識に自分というものを消していこうという志向。それはいまでは肯定的な価値をもたないかも知れないが、ここで「日本人ピアニスト」を聴いて感動する自分がいる。もっともそれは、最近の若い日本人の音楽家には既に当て嵌まらない呼称であるかも知れないのだが。(AM02:26)
バッハ:バッハ名曲アルバム

バッハ:バッハ名曲アルバム