小川剛生『兼好法師』

曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十番 op.14-2 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第六番 op.18-6 で、演奏は東京Q(NMLCD)。

NML で音楽を聴く。■シューマンの「森の情景」op.82 で、ピアノは内田光子NML)。異様に趣味的な演奏。シューマンをまるでシューベルトのように弾いている。内田光子らしい。深い? 確かに。

シューマン:ピアノ・ソナタ第2番、森の情景、暁の歌

シューマン:ピアノ・ソナタ第2番、森の情景、暁の歌

ハイドンのピアノ・ソナタ ホ短調 Hob.XVI:34 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NML)。カッコいい曲だな。大好きである。シュ・シャオメイは楽譜を素直に音にしてみましたという感じがよい。
Sonates Hayden

Sonates Hayden

シューマン交響曲第三番 op.97 で、指揮はジュゼッペ・シノーポリ、シュターツカペレ・ドレスデンNML)。すばらしい演奏だった。シノーポリ最高。
Symphonie

Symphonie

 
夕食後寝てしまう。深夜起床。


図書館から借りてきた、小川剛生『兼好法師』読了。すごくおもしろかった! 兼好法師はもちろん『徒然草』の作者であるが、著者は兼好法師に関する旧説を完膚なきまでに批判してみせる。これは誇張ではない。本書に拠れば、在来の兼好法師像を一変させざるを得ないのである。在来の兼好像はすぐれた国文学者として名高い風巻景次郎の打ち立てたものであり、これまでそれが基本的に踏襲されてきたが、それがほぼ誤りであることがわかったのだ。兼好法師は公家でもなければ、神道の吉田家とも何の関係もない。もともと無冠位の「侍」であったのである。それが、鎌倉時代末期から南北朝期の激動の時代を生き抜き、二条派の「和歌四天王」のひとりにまでなったのだ。『徒然草』は、その途中のエピソードなのである。
 もちろん本書の考証を詳しくここに書くことはできない。その過程は非常におもしろいので、是非本書に就かれたいと思う。著者は自分より多少若い学者であるが、明らかに実力者で、また筆の力もあり、本書は堅い本ではあるが読み始めたらなかなかやめられないほどである(自分は一気に読了させられました)。考証過程で、その時代の有り様が彷彿されるところがしばしばあって、そういうのもまことにおもしろかった。例えば、天皇の住むはずの「大内裏」というのはいかにも壮麗なイメージがあるが、じつは当時の朝廷にはいわば「オーバースペック」で、つまりは大きすぎて維持できず、荒れ果てるに任せられていたのである。実際に天皇の住んでいたのは、臣下と同様の屋敷である「里内裏」といわれるもので、なかなかにショボいものであった。また、そこでの「儀式」なども、一般人が覗き込むようなものであり、実際にそれ(見られること)を前提として行われていたらしい。このような記述を読んでいると、日本における「天皇家」の存在というのは、じつにチープでへんてこりんなものであったと気付かされる。ヨーロッパの絶対王政の壮麗さなどとは、到底比較することなぞできないのだ。(ただし、ヨーロッパの王政も当然「見られるもの」ではあった。)
 本書の最後はなにゆえに兼好が吉田家に関係するとされてきたかの解明であるが、これも呆れた話であった。神道における吉田家というのは、そもそもさほど重要な存在であったわけではなく、本書に拠れば室町時代吉田兼倶が、文書類を多数偽造して成り上がったものである。その際、各時代の著名人たち(藤原定家を始めとする新古今歌人たち、僧日蓮など)が吉田家に不当に関係づけられていったのであるが、死後『徒然草』の作者として有名になりつつあった兼好も、それに組み込まれたわけであった。おそらく兼倶も予想しなかったほどそれはうまくいき、兼好に関しては500年以上もそれが信じられてきたというのである! 考証過程は(もちろん素人目にではあるが)じつに綿密で、おそらく基本的にこれが覆されることはあるまい。これだけでなく、本書の考証は総じて見事なもので、大変な実力が感じられる。例えば『太平記』の取り扱いとして現代の「学習歴史マンガ」に喩えてあるなど、これは簡単に言えることではない。和歌の流れとしては現代では評価の高くない二条派(兼好法師はこれに属する)の評価も、自分には勉強になるものであった。
 なお、『徒然草』本文に関しては著者が注釈したものが最近角川ソフィア文庫に入っているそうであり、これも是非見てみたくなった。日本の古典をこのところ読んでいないしな。ひさしぶりに『徒然草』を読んでみたい。(AM03:22)

ボリス・ヴィアン『お前らの墓につばを吐いてやる』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第四番 op.7 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプNML)。モノラル録音のベートーヴェン全集(1951-1956)のようで、ケンプは60年代にも全集を録音しているとのこと。

Beethoven: DIE KLAVIERSONATEN-THE PIANO SONATAS

Beethoven: DIE KLAVIERSONATEN-THE PIANO SONATAS

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第九番 op.14-1 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■シューベルトのピアノ・ソナタ第九番 D575 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.27, K.466, K.1, K.141, K.32、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第二番 op.14、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第二番 op.102 他で、ピアノはドミートリー・マスレーエフ(あるいはドミトリー・マスレエフ、NML)。これはおもしろいピアニストだ。抒情的表現に独特なものがあって聴かせる。プロコフィエフショスタコーヴィチもマイナーな曲を演奏しているが、これほどおもしろく聴けたのは両者とも初めて。多少軽量級のピアニストという感じも受けるが、パワフルな場面でも充分足りているし、つくづく感心した。また、スカルラッティはとてもよいもので、オール・スカルラッティのアルバムを聴いてみたい気がする。これだけではドイツものとかはわからないが、もっと聴いてみたいピアニストだ。

Various: Dmitry Masleev

Various: Dmitry Masleev

 
父が畑から採ってきて「これわかるか」とのことだが、何かわかりますか? トマトのようにも見えますよね…。

じつはこれ、ジャガイモの実なのである。ジャガイモの我々がふつう食べるところは、あれは一種の「茎」なのであって、これが実なのだ。トマトに似ているのは偶然ではなく、ジャガイモもトマトも同じナス科の植物で、うまく接ぎ木すると上はトマト、下はジャガイモというのを作ることもできる。これは子供の頃得た知識なのであるが、この齢にして初めて実見したな。

ボリス・ヴィアン『お前らの墓につばを吐いてやる』読了。鈴木創士訳。いやあ、ノワールだか何だか知らないが、すばらしくおもしろカッコいい小説だな。わたくしのようにマジメ一本な(笑)人生を歩んできた奴が推奨するとか、お笑い草だが。ただ、ゴロツキが上流階級の淑女姉妹をコマして、姉をセックスでメロメロにしてしまうその過程のスピーディさ、スリルはすばらしいけれども、最後がいかにも陳腐ではないかね? いや、それは日本人だからそう思われるのかも知れないが、こんな活きのいいヤツに人種差別に対する復讐をさせるとか、まったく人種問題とは面倒な話である。それだからこそ本書はスキャンダルになったわけであるが、そのあたりは人種差別が隠蔽され存在しないように見せかけられている日本とは、だいぶ事情がちがうわけだ。我々には、主人公の切実さがわからない。例えば、在日文学(よく知らないのがいけないが)のあり方とはだいぶちがう気がする。在日文学は本書よりもっと内向的で、腹の底に押し込められた暗さがあるように思われる。よくも悪くも本書の(おそらく装われた)チープさは、エンタメっぽい。ま、しかし、『うたかたの日々』も読んでみたいですね。

お前らの墓につばを吐いてやる (河出文庫)

お前らの墓につばを吐いてやる (河出文庫)

太田博樹『遺伝人類学入門』 / 青山透子『日航123便 墜落の新事実』

晴。
よく寝た。ちょっと脳が疲れているな。おもしろい夢は見たのだが。

NML で音楽を聴く。昨日ほどではないけれど、まだサイトに繋がりにくい。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十五番 op.79 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。

太田博樹『遺伝人類学入門』読了。副題「チンギス・ハンのDNAは何を語るか」。とてもおもしろい本だった。キャッチーな副題はほぼ釣りであって、本書は遺伝人類学に関する優れた啓蒙書であるといえよう。技術的なこともかなり書いてあってうれしいが、まあなかなかむずかしいので自分もテキトーな理解である(笑)。本書の解説過程でいわゆる「進化の中立理論」について一章を割かれてあって、木村資生氏の理論がついに科学の中で常識化したことを知った。僕が学生だった頃はまだ「進化の中立説」という呼び方で、その真偽がホットに議論されていたが、いまや分子遺伝学レヴェルでは、自然選択よりも進化の中立理論の方が当り前であるらしい(さもあろう)。木村氏は早世されたのでノーベル賞は貰っていないが、長生きされれば間違いなく受賞されていた筈である。科学に日本人も何もないのであるが、正直言ってうれしい気がする。ちなみにこれは数学を駆使した理論で、完全に理解するのはかなりむずかしいです(僕も勉強したのだが、細かいことはもう忘れてしまった)。著名な物理学者であるフリーマン・ダイソンが「中立説」を解説した小冊子があって、分子生物学をやっていた僕の友人がそれを読んでいたのをなつかしく思い出す。四半世紀前の話だ。
 って進化の中立理論に言及したのはペダンティズムではなくて、遺伝人類学にはこの理論が重要だからである。まあ自分にはここでそれを説明する力はないので、本書をお読み頂きたい。いまよく刑事事件の捜査などでDNA鑑定が行われたり、日本人のルーツをDNAで探るというような話がよくあるけれども、それら(特に後者)は本書の解説する領域である。この分野をきちんと理解するのは分子生物学に加えて数学の知識が必須であるのだが、本書は概説ではあるがなるたけわかりやすく説明してくれる(それでもたぶん一般人にはむずかしいだろう)。なんとか頑張って、最後の方の縄文人弥生人とか、チンギス・ハンの遺伝子とかいうあたりまで読んで下さい。おもしろいですよ。
 しかし、いまの学問はむずかしいですな。統計学は知らないといけないし、コンピュータで解析できないといけないし。僕の学生の頃と比べると、必要な知識が圧倒的に多くなった。いまの学者は優秀でないとつとまらないですな。

遺伝人類学入門 (ちくま新書)

遺伝人類学入門 (ちくま新書)

図書館から借りてきた、青山透子『日航123便 墜落の新事実』読了。副題「目撃証言から真相に迫る」。母から廻してもらった本。母から事前に聞いていたのだが、まことに驚くべき内容だった。というか、正直言ってあまりにもひどい話で泣けてきた。この日航機の墜落事故のことは自分も鮮明に覚えている。あれは1985年8月のことであったのか。著者の記録だと夜七時のNHKのニュース中に緊急報道で日航機行方不明のニュースが入ったとのことだが、自分もまさにそれを見ていたにちがいない。高校生のときだった。番組は特番に切り替わり、夜遅くまで特番を見続けていたが、結局飛行機はどこへ行ったかわからず、そのまま寝たのであった。翌朝のニュースで御巣鷹山(いまでも覚えているのである)への墜落を知った、そんな次第であった。しかし本書を読むと、早い段階でNHKも墜落地点を知っていたにちがいないことがわかる。まさしく、ここでもウソが流されていたのであった。
 詳しい話は本書にあたって頂きたい。本書はかなり控えめに書いてあって、できるだけ憶測を交えない形で書かれている(ちなみに、著者は日航の客室乗務員であった方だ)。まず、事故の原因は何らかの対空ミサイルであったらしいこと。これはかなり確実であると思う。ただしそれが自衛隊のものなのか、米軍のものであったのかはわからない。ただし、これは自分の憶測だが、ミサイルには爆発物質は搭載されていなかったようで、訓練用のものであったかも知れないと思う。「実弾」であったら、日航機はおそらく空中爆発していたように思われるから。
 そして自衛隊は事態をきわめて早い段階から把握していて、二機のファントム戦闘機がずっと日航機に並んで飛んでいた。これには多くの目撃証言があって、疑いはないにも関わらず、一切公式の形で発表されたことはない。また、墜落地点も墜落直後に(自衛隊と米軍にとって)判明しているにもかかわらず、そして地元からの再三の要請があったにもかかわらず、翌日まで救助がおこなわれていない。現場に行った専門家の判断だと、墜落直後に救助されていれば*1、100名近い人命が助かった可能性もある(実際には4名)。
 しかし、以上のことが事実であるにせよ、その政治的背景がほとんどわかっていない。なんらかの政治判断、それもアメリカに対する政治判断がなされたことは明白であるが、それ以上のことはまったく闇に包まれている。じつは、当時の運輸大臣であった山下徳夫氏が後年(驚くべきことに)みずからコンタクトをとって著者と会っているが、そこでも事件の真相に関することは一切述べられておらない。ただ、「日本はアメリカのいいなりである」ということのみ仰られたそうだ。ここでもまたそれか。

日航123便墜落の新事実  目撃証言から真相に迫る

日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る

なお、自分は過去の報道から日航機は事態の発生後に機体のコントロールをほとんど失ったかのように思い込んでいたのだが、亡くなられた乗客の手記や生存者の証言から、そのようなことはなかったらしい。実際、伊豆半島付近で異常事態が発生したあとの目撃証言からも、それが推定されるし、どうも機長は最初横田基地への不時着を考えていたかのようなふしがある。しかし、どうも途中からそれは「許されなかった」かのようで、最終的に機体は進路を変え、群馬県に墜落した。そのあたりも腑に落ちないものがある*2

よろしければ母の感想も見られたい。また、このエントリでリンクされている森永卓郎氏の論説も是非お読み頂きたい。
http://octpus11.hatenablog.com/entry/2018/06/07/151307
 
しかし自分は、アメリカ人がフェアであるという俗説を信じなくなってきている。いや、多くのことにおいてアメリカ人はフェアであるかも知れないが、政治的軍事的には日本に対してまったくフェアでない。そのように思わされることが多すぎた。一方で、日本人の卑屈さも情けないのだが。もはやこの卑屈さは、永遠に抜きがたいものなのかと思う。少なくとも自分はそのように卑屈でありたくないとは思っているが、どうなのだろうか。

追記。Wikipedia に該当する項目*3があったため見てみたが、異様なまでに詳細を極めているにもかかわらず、政府などの公式見解を疑うような内容は少ない(それでも一部矛盾の指摘はある)。これを見ると、公式見解の内容がわかるといえよう。また、本書にもあるが、この事故に関する陰謀論は多数あるようで、著者がそのような陰謀論と同一視されることを望まない姿勢が、本書にははっきりと出ている。本書の議論は科学的な態度といってよい。

再追記。もう一度本書の一部を繰り返し読んでみたが、よく読めていなかったところがあったので少し書いておく。やはり機長は最初横田基地への不時着を考えていた可能性がある。しかし、大月上空で何度も旋回したあと、進路を明らかに変えている。それは、ちょうど自衛隊のファントム二機が日航機に追いついた頃である。なので、自衛隊機との「交信」後、進路を変えたとも考えられる。自衛隊機の存在は確実なので、「交信」がなかった筈がない。すなわち、公開されたボイスレコーダーから「交信記録」が取り除かれているのである。公開されたボイスレコーダーの音声が編集されていることは既にわかっていて秘密でも何でもないが、もちろんそれは証拠隠滅のためとはなされていない。
 また、日航機に命中した対空ミサイルは、一発ではなかった可能性が高い。自分が上で書いたとおり、最初に命中したもの*4日航機のコントロールをさほど奪わなかったようである。亡くなった乗客のメモ(遺書でもある)から、「ドカン」というのは二回あったように読めるし、どうやら旋回後の二度目の「ドカン」から急速に高度が下がったらしい。いろいろ読むと、二発目の対空ミサイルは熱線追尾型で(地上から多数目撃された「赤い光」は、ミサイルの推進炎か?)、日航機はそれを振り切ろうとしていた可能性がある。大月上空の旋回はそれで*5、機長はそれを自衛隊機との交信で知ったのかも知れない。そして、進路を変えた。それが自分にはいちばん納得できる憶測である。

書こうか迷ったのだが、簡潔に書いておこう。炭化した遺体の状況から、墜落後に自衛隊が現場に入り、証拠隠滅のため火炎放射器で機体の該当箇所を焼き払った可能性が高い。その際、まだ生きている人が救われなかったどころか、火炎放射器によって殺害された可能性がある。まだ、かなりの人が生きていたことがわかっているので。これがどの時点で、どの部隊によってなされたかはわからないが、たんなる憶測ではないことを申し添えておく(部隊も推測し得る)。事実であれば、これが人間のすることであろうか。

*1:生存者の証言によれば、墜落直後にヘリコプターが近づいて着陸態勢にまで入ったのであるが、それはそのまま再上昇して飛び去ってしまったという。これは米軍座間基地の救難ヘリであったらしい。何らかの命令変更があったものと思われる。(後記:ヘリのパイロットの証言があるようだ。You Tube で見られるらしい。)

*2:しかしこれは完全な憶測である。公表されたボイスレコーダーにはそのような記録はないのだし。横田 RAPCON は冷静な対応で、羽田と横田へ再優先で着陸できる旨交信している。むしろ自分こそ陰謀論に陥っているか。なお、「横田 RAPCON」について御存知ない方は、調べてみるとよいと思う。いろいろとわかることがある筈。

*3:日本航空123便墜落事故 - Wikipedia。これだけでもわかることがだいぶあるのは確か。

*4:ネット上で、これは無人標的機であろうとの推測を読んだ。そのあたりは自分にはわからない。

*5:ミサイルは機体の左側から追尾していたのだろう。目撃証言や乗客の遺した写真(があるのだ!)とも一致する。途中まで日航機がすべて右旋回している理由はそれではないか? なお、公式発表の時系列は乗客の遺書(多数に時刻が書いてある)と辻褄があわない感じがする。

こともなし

曇。
起きて一時間くらいぼーっとしていた。

NML のサイトが 500エラーでつながらない。DDoS 攻撃でも喰らっているのかな。NML を DDoS して何のメリットがあるか知らないが。
というわけでとりあえず You Tube で音楽を聴くことにする。


ミヨーの弦楽四重奏曲第五番 op.64 で、演奏はパリジイQ。


モーツァルト弦楽四重奏曲第十四番 K.387 で、演奏はクリーブランドQ。

昼から米屋。肉屋。スーパー。
雨になる。


マイクロソフトGitHub を買収の衝撃ニュースもようやく落ち着いた感じだが、皆さん意外に好意的ですね。しかし素人目にはマイクロソフトGitHub とは水と油という感じもするのだが。植山類さんなどは WindowsOSS化するのではないかと興奮しておられたが、マジですか? それは Windows の死ではと素人は思ってしまうのだけれど。いずれにせよいまや OSS の hub となっている GitHub だから、何か大きな動きになりそう。僕程度でも GitHub を使っているくらいだからなあ。

今日は何もしたくなかったのだが NML は一日中使えないし、延々とツイッターを見ていてバカになった。このところよく見ている。脳みそが腐る。いや、既に腐り切っている。
しようがないな、You Tube に頼るか。


メシアンの「主題と変奏」(1932)で、ヴァイオリンはクリストフ・ポッペン、ピアノはイヴォンヌ・ロリオ=メシアン


ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)」。


シュトックハウゼンの「グルッペン」で、演奏はアンサンブル・アンテルコンタンポラン。シュトックハウゼンはどうもまだよくわからないのだよな。「ブラボー」とか言っているのを聴くと、へーと思わざるを得ない。(AM01:05)

『J・G・バラード短編全集1 時の声』 / 井田喜明『人類の未来と地球科学』

晴。
寝坊。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ ヘ長調 K.547a で、ピアノは園田高弘NMLCD)。編曲不詳とあるけれど、何でこんな変なエディションで弾いているの? ■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第一番 op.18-1 で、演奏は東京Q(NMLCD)。■ジュール・ムーケのフルート・ソナタ「パンの笛」op.15 で、フルートはゲルゲイ・イッツェーシュ、ピアノはアレックス・シラシ(NMLCD)。
 
ms-dos5.tumblr.comレトロだ…。
 

図書館から借りてきた、『J・G・バラード短編全集1 時の声』読了。SFは幼稚だ。バラードもまた例外ではない。けれどもその幼稚さを差し引いても、バラードには読むべきところがある。彼独特の感覚がある。まだうまく言語化できないが、このシリーズを読んでいったら多少はわかるだろうか。

しかし、いわゆる「SF好き」の幼稚さはどうにかならないものか…。ていって、そりゃ無理な相談だね。そもそも、いまはそれが当り前なのだし。こちらがおかしいのである。それにまあ、こちらも幼稚だしな。


図書館から借りてきた、井田喜明『人類の未来と地球科学』読了。おじいさんのお勉強ノート。自分には無意味だった。

人類の未来と地球科学 (岩波現代全書)

人類の未来と地球科学 (岩波現代全書)

山本義隆『近代日本一五〇年』

雨。
寝坊。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十六番 K.545 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 、ピアノ・ソナタ第三十二番 op.111 で、ピアノは内田光子NML)。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番-第32番

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番-第32番

 
二時間半くらい昼寝。寝てばかりいる。理由はわかっているのだが。

雨のなか図書館。あんまり借りたい気が起こらず、新刊コーナーから適当に二冊見つくろう。田村隆一の詩が読みたいのだが、田村に限らず現代詩はあまりない。島崎藤村とか室生犀星とかはいくらでもあるのだけれど。

あっという間に夕方。

ブルックナーの第八番を聴こうとしたのだが、アホらしすぎて挫折。ブルックナーとかドヴォルザークとかチャイコフスキーとかはよくわからない。ここいらが自分の限界だろう。


NML で音楽を聴く。■フィリップ・ゴーベールのフルート・ソナタ第一番で、フルートはゲルゲイ・イッツェーシュ、ピアノはアレックス・シラシ(NMLCD)。■ブラームス弦楽四重奏曲第二番 op.51-2 で、演奏はエルサレムQ(NMLCD)。■バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」で、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラNML)。終楽章はこんな音楽だったのか! まさに小澤征爾のみが到達できる領域かも知れない。これまで何を聴いてきたのかという感じ。

バルトーク:管弦楽のための協奏曲/弦、打、チェレスタのための音楽

バルトーク:管弦楽のための協奏曲/弦、打、チェレスタのための音楽

 

図書館から借りてきた、山本義隆『近代日本一五〇年』読了。副題「科学技術総力戦体制の破綻」。正直言ってがっかりさせられる本だった。山本義隆ほど優秀な人でもこうなのか。確かに自分は教条主義的パヨクであり、自分のドグマを補強してくれる鋭い思考も少なからず見られたが、本書の肝心の土台が従来の硬直した左翼と変わらないのだ。これでは、自分が以前に記した自分の矛盾は、到底解消されなかった。例えば著者は第二次世界大戦時に軍に協力した日本人科学者たちを糾弾するが、まあそれはわかるけれども、では科学者が充分に協力できずに戦争に負けたとして、それでよいのか。実際アメリカとのあの無謀な戦争は、「科学的に」すなわち理性的に考えれば、到底勝ち目がないと誰でもわかるようなものであったし、戦争以前にそのことに気づいていた人間などいくらでもいた。つまり、参戦は科学的思考の欠如によってなされたともいえるかも知れない。またまったくちがう観点から見て、優秀な科学者たちの献身的協力によって、仮にあの戦争に勝っていたらどうだったのか。実際、戦争に勝った方のアメリカは、いまでも科学者による軍事研究は当然のことになっている。こんなことを言って、自分は「科学者は軍事研究をすべきだ」と言いたいのではない。以前のエントリに書いたとおり、科学者は軍事研究をすべきでないとすれば、どうしても矛盾を抱えることになるといいたいだけである。まあしかし、そのように考えるのは自分だけなのかもしれない。とにかく本書には失望せざるを得なかった。
 本書への失望はもうひとつある。著者は現代における文系の学問の有効性をまったく理解していない。自分も理系なのでわからないではないが、しかし現代における経済学の複雑な思考を、著者がまったく知らないのは明らかだ。そうでなければ、たとえば経済的成長を否定する日本の左翼の典型的な思考が底の浅いものであることがわかる筈である。まあ、何もかも知ることは無理なのだが、それでもあの優秀な山本義隆ですらと思うと、残念である。しかし、自分はまたいまのリフレ派たちの「正しい」意見だけで、すべてやっていけるともまったく思わない。だってパヨクだからね。自分は国家の必要性を知りつつ、究極的に国家を信用していないからである。まあ、決定的に能力不足ではあるが、ぼちぼちやっていくしかない。

 
自分は、いまパヨクであるということは、どうしても矛盾の中で生きるしかないということを引き受けざるを得ないと思っている。右翼の方がずっとラクだ。まあ、その矛盾に自覚的でいられる限り、却って柔軟でいられるのかも知れないが。しかしこれはむずかしいし、結局は敗北する予感がする。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第五番 K.283 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。西洋的な観点からしたら、これほどつまらない演奏はないかも知れない。ここには個人的なものがまるでない。モーツァルトしかない。これこそ日本人ピアニストの真骨頂だと思う。■モーツァルト交響曲第四十一番 K.551 で、指揮はクラウディオ・アバドNMLCD)。アバドは終楽章、すべての繰り返しを演奏しているな。これは意外とめずらしい気がする。

丸亀製麺イオンタウン各務原にて昼食。牛とろ玉うどん大+イカ天+エビ天。


Ruby は死んだ」って昔から言われ続けていて、最近ではそういわないと「わかってない」と見做されるほどだが、皆んな言いたいのだよねえ。以前から日本人がいちばん「Ruby はダメ」って言っていると思う。で、最近では Rubyist は「Ruby is dead every year」って自嘲するのだけれど、このユーモア感覚が笑える。素人初心者の自分には Ruby はもう充分すばらしい言語で、いまでも Ruby で書くのがいちばん自己満足(!)できるのだが、さらに Ruby がよくなるとか、びっくりしてしまうしうれしい。まつもとさんは流行に一喜一憂しないでさらにいい言語にしていくって言っておられて、それが頼もしく思える。仕事で使うのには静的型付けの言語がよいのだろうけれど、徹底して動的な Ruby のよさもまたあるのだ。それに、言語のよさは型記述だけにあるのでもないし。オブジェクト指向言語として Ruby はいまでももっともよい仕様をもっているように思われるし、いまだに輝かしい「ブロック」の概念、クロージャをサポートした Proc など、これらのどこが魅力的でないというのか。そして、コードの「見た目」への細かい配慮も、自分は Ruby 以上のものを知らない。ふふふ、いまさら褒めすぎですかね。素人初心者ゆえに、恥ずかしげもなくお前らわかってんのといいたいね。以上、バカでした。

でもね、僕は最近は Go も結構好きなのだ。これは設計が古くさい言語、意欲的な仕様のない言語といわれるが、そうかね? とてもバランスのよい言語だと思うのだが。Ruby と Go とか、わかってない奴の典型ですかね(笑)。じつをいうと、Go もコードの「見た目」が好きなのだ。C をすっきりさせた感じがよい。

しかし、何といっても Ruby は極東の言語オタクがひとりで作り上げた、もともとプライベートな言語ですよ。それが世界的な人気言語になるとか、もうこれからはあり得ないのではないか。実際、日本人がプログラミングの世界に他に何を付け加えたというのか。別に自分は国粋主義者ではないけれど、とにかく日本人が「やらかした」のは Ruby しかない。そしてそれが Ruby だということに、何か深いものを感じないではいられない。Ruby を作り上げたのが日本人だというのは、あまり強調すると「日本スゴイ」になるだけだけれど、やはり不思議な感じがする。たぶんそれは、非日本人の方がはっきりと感知できることのような気がする。

許容できる Lisp としての Ruby…。Lisp はストレスなく書くことのできる唯一の言語と言ったひとがいるが、Ruby もそれに加えてよいのかも知れない…。いや、そんな世界は自分にはわかりませんけれどね。

NML で音楽を聴く。■リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」で、指揮はジュゼッペ・シノーポリNML)。

ブルックナー:交響曲第8番

ブルックナー:交響曲第8番

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十一番 op.110 で、ピアノは内田光子NML)。(AM01:27)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番-第32番

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番-第32番