『世界イディッシュ短篇選』

日曜日。晴。

起きてずっとぼーっとしている。心が汚い。


モーツァルトのフルート四重奏曲第三番 K.285b で、フルートはオーレル・ニコレ、ヴァイオリンはジャン=ジャック・カントロフヴィオラはウラディーミル・メンデルスゾーン、チェロは藤原真理。名手たちの演奏。もちろん好演で、もっと聴いていたかったくらい。それにしてもいい曲だな。フルートのための室内楽って、意外と少ないのだよね。


米屋。肉屋。JR岐阜駅からちょっと西あたり、完全にシャッター商店街になっている。

ツイッターをだらだらと見ていて心が死んでいく。いまの人たちは本当にすごいな。僕には真似ができない。

『世界イディッシュ短篇選』読了。西成彦編訳。これは興味深いアンソロジーだ。自分はイディッシュ語の由来そのものをよく知らなかったし、編訳者の解説は非常にためになった。イディッシュ語は意外に長い歴史をもっているが、既にこれを「母語」とする人々は少なく(ユダヤ人は現代ヘブライ語か、英語などを使うのがふつうになったようだ)、もはや言語としての発展は乏しいようではある。しかしイディッシュ文学が決して忘れられてよいものではないことは、本書そのものが示しているとおりである。本書に収められた短篇は概して救いのないものが多いが、それにもかかわらず文学的価値は高いように思われる。なかなか一筋縄でいかないものが多くて、漫然と読んでいると話の展開に付いていけなくなるくらいで、侮れない。読んでおもしろかったというのは多少穏当でない気もするが、確かにおもしろかった。文学の原点のようなものがあるとすれば、それに触れているような感じを覚えるものが少なくない。仕事はさすがに岩波文庫というべきで、続編が出たらきっと読むと思う。楽しみに待ちたい。

僕はマイノリティの文学というものは殆ど知らないのだが、日本には例えば「在日」の文学という大きなジャンルがある。少し読んだ限りでは豊かな鉱脈という印象で、無知ゆえに将来の楽しみが残っているという感じだ。せいぜい精進したい。

ルキアノス『偽預言者アレクサンドロス』

晴。
起きて精神の貧しさにゾッとする。まああんまり深刻になっても仕方がないので、ブログを巡ったり。皆んなそうだと思うけれど、yomunel さんの日記にほっとしたりする。なんだか俺、ブログばっかり見ているな。
 

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第三十五番 K.379 で、ヴァイオリンはヴィクトリア・ムローヴァ、ピアノはチャールズ・アブラムービック。曲が短すぎて残念なくらい。この倍は音楽に浸っていたかった。ムローヴァはもう 60 近いのか。若手のイメージだったのに、年月の経つのは速いな。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十七番 op.31-2 で、ピアノはフォルデシュ・アンドール。アンドル・フォルデスとも表記されるらしい。まるで知らないピアニストであるが、これに関していえばすばらしいベートーヴェンである。別に歴史に残る名演かどうかは知らないが、いわゆる「テンペスト」ってこんな曲ですよといいたい。いまでは old-fashioned なピアニズムであるが、自分としてはそれが好ましい感じである。それにしても知らないものだな。さて、ベートーヴェンは同時代的には難解な現代音楽であり、必ずしも人気がなかったとはよくいわれることであるし、いまでも一般的にはそうであろうが、当時でもベートーヴェンの音楽がたまらないカッコよく思われた聴衆はきっといたと思う。実際、ロマン派の音楽家たちはベートーヴェンがカッコよく思われすぎたくらいの人たちだった。自分はロックスターは知らないが、ベートーヴェンは自分にはいつまでもカッコいい。バカですね。

図書館から借りてきた、ルキアノス『偽預言者アレクサンドロス』読了。

ルキアノス全集〈4〉偽預言者アレクサンドロス (西洋古典叢書)

ルキアノス全集〈4〉偽預言者アレクサンドロス (西洋古典叢書)

 

昼から県図書館。帰りにミスタードーナツ バロー市橋ショップに寄る。ホット・スイーツパイ りんごとチーズ+ブレンドコーヒー486円。外は雪がちらついていて、すきま風が冷たい。借りてきた『フィボナッチのうさぎ』を読む。一般向けの数学本で、高校生くらいでも読めそう。ちらりと中身を見て楽しそうだと思ったのだが、いい勘してた。どうやらプログラミングの題材にも使えそうで、あとを読むのが楽しみ。

こともなし

晴。


メンデルスゾーンのヴァイオリン・ソナタ ヘ短調 op.4 で、ヴァイオリンはシュロモ・ミンツ、ピアノはポール・オストロフスキー。


ヘンデルのテ・デウム HWV278 で、指揮はヨス・ファン・フェルトホーフェン、オランダ・バッハ協会。


モーツァルトのロンド イ短調 K.511 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ

昼から図書館。日差しがあったので市民公園を散歩してきた。

公園では女子高生がふたり、アイドルの真似なのか制服姿で踊っていた。田舎でも今どきだな。

基本が大事。凡夫一生修行。

ルキアノスを読む。

フィッツジェラルド『夜はやさし』

曇。
よく寝た。というか11時間くらい寝た。すごくおもしろい夢を延々と見ていた。若い女の子と大阪を歩く夢。何でも熊の肉を食いに行くらしい。冗談みたいな夢だったのだが、何だったのだろう。

調子はよくない。サイテーという感じ。

もう精神が貧しくてブログも書きづらいのであるが、現代の貧しさはこんなものではない。まだまだ貧しさが足りないのかも知れない。いつも巡回しているブログに「生きるのもイヤだが死ぬのもイヤだ」とあったが、自分もまさにそのようなカスだと思う。しかし、僕の廻っているブログたちは豊かで救われてしまうのだが…。
 

モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330 で、ピアノはエリック・ル。若いけれどなかなかいいモーツァルトを弾くな。まだ20歳か。


ブラームスクラリネット・トリオ op.114 で、クラリネットアンドレアス・オッテンザマー、チェロはソル・ガベッタ、ピアノはデヤン・ラツィック。なかなかよい演奏。

スーパー。モスバーガーのドライブスルー。ガソリンスタンド。今日は日差しがあって暖かい。

昼から県営プール。意外と混んでいた。陽が陰っちゃったな。

明日図書館に返さないといけないので、『夜はやさし』を読み継いでいる。「第二巻」まで読み終えた。確かに魅力ある小説だが、ちょっと話が痛ましすぎる。それに、詳細で正確な心理描写が疲れる。自分はいわゆる心理小説は苦手だ。それに、西洋の上流階級(正確にいうとちがうかも知れないが)の話…。自分にはほとんど関係のない世界だ。文章は翻訳(見事!)で読んでもすばらしいものだが。(PM10:16)


図書館から借りてきた、フィッツジェラルド夜はやさし』読了。森慎一郎訳。うーん、何というべきか。上にも書いたけれど、本書の世界はあまりにも自分とかけ離れている。極東の田舎に住んでいる中年のさえない独身男性と、本書のようなきらびやかな世界に何の共通性があるのか。また、自分には小説というものがわからない。本書には村上春樹が文章を寄せていて最後に収録されているが、たいへんな絶賛ぶりである。村上は本書を最初は評価しなかったヘミングウェイをさりげなく貶めつつ、そのヘミングウェイも晩年には本作を認めないわけにはいかなかったと、凱歌を挙げるのだ。本書は村上にいわせれば、脇は甘いが懐の深い小説、ということになる。何度読み返してみても傑作であると。正直に言うが、自分は本書の陰惨さがつらかった。若くてハンサムで能力のある男性を、このように破滅させる物語を読んで皆さんは楽しいのだろうか? 感動? まったく、じつに幼稚な小説の読み方であると我ながらお話にならないことはわかっているが、とにかく、人生人生、人生などどうでもいいのである。人生、崩壊、悲劇、まったくそんなものは世の中にあふれているので、いやまあしかし、そんなことを言っては小説など読めないな。そもそも、何で自分は小説を読むのか。破滅していく男の心理解剖。どうも自分のような幼稚な人間には、本書は高級すぎたようだ。
 しかし、本書の翻訳はみごとだった。最近の翻訳の文章の質はおしなべて高い。日本人は翻訳にこれほどの能力とエネルギーを使っていいのかとすら思う。いやまあしかし何だかな。どうも釈然としないものが残るな。(AM00:09)

夜はやさし

夜はやさし

なお、原著には構成の大きくちがう、オリジナル版と改訂版の二種類の版があるが、本書はオリジナル版の方の翻訳である。古い角川文庫に収められた翻訳は改訂版に基づく。フィッツジェラルドは本書の出来栄えに自信をもっていたが、あまり評判がよくないのにショックを受け、指摘を受けた構成を変えたのが改訂版というわけである。


いつも読んでいるブログに『ブッデンブローク家の人びと』の話題があって懐かしかった。だいぶ前に読んでもう中身はあまり覚えていないが、ちょっとモノトーンの(暗いドイツの冬のイメージがなぜかある)重厚な大河小説だったという印象が残っている。マンはこの小説を非常に若いときに書いた筈で、確か(うろ覚えだが)それは10代だったのではないか。いや、10代で書き始めたのだったか、それともまったくの記憶ちがいか、とにかく凡庸な作家なら一生かかっても書けない小説なので驚いた覚えがある。去年『ファウスト博士』を読んで、岩波文庫のマンはほとんど読んだのではないかと思う。いまやドイツの重厚な小説を読むひとがどれくらいいるのか、自分はブロッホの『ウェルギリウスの死』などは未読であるが、どうやらこれが文庫化される日はこないかも知れない。川村二郎先生の翻訳なのだが、集英社は眠らせておくつもりなのだろうか。いまや結構な古書価がついておりますが。

津村記久子『浮遊霊ブラジル』

曇。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第九番 K.311 で、ピアノはイラクリー・アヴァリアーニ。


ヒンデミットの「チェロとピアノのための三曲」op.8。


ラヴェルの「ソナチネ」「高雅で感傷的なワルツ」で、ピアノはヴラド・ペルルミュテール。すばらしいラヴェル

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夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・黒糖+ブレンドコーヒー。イオンの中はカフェでもいろいろたくさんあるのだが、古くさいおじさんはついミスドを使ってしまう。何でも今日は auスマホをもっている人はクーポンが使えるらしく、めずらしく長蛇の列だった。スマホなどもっていないのでおじさんはどうせならドトールやスタバにすればいいだろうに。まあいい、津村記久子を読む。川端賞受賞作他、つまらんなと思いながら読んでいたら、著者らしいイヤな感じの短篇があって楽しんだ。しかしイオンはどこもピカピカでおしゃれで、夢のようなひとつの街なんだなと思う。田舎者の夢の世界。

カルコスに寄る。Go 言語の本を買おうと思っていたが、見当を付けておいた本がなかった。仕方がない、アマゾンで買うか。それから、ちくま学芸文庫新刊の数学本がなかった。ここは(僕が80%くらいの確率で買うせいでしょう)ちくま学芸文庫の新刊は一冊ずつは必ず入るのだが、数学本だから入れなかったのか、それとも誰かが既に買ったのか。雑誌コーナーで「群像」の中沢さんの連載を読む。こういうのが書けるのはいま世界で中沢さんしかいないのではないか。単行本に纏まるのが楽しみ。十年に一冊しか出ないというくらいの本になると思う。

雪がちらつき出した。

図書館から借りてきた、津村記久子『浮遊霊ブラジル』読了。短篇集。あはは、なかなかおもしろかったぞ。地獄に落ちたり浮遊霊になったりする話を、淡々と日常的リアリズムで描いているミスマッチがいい。で、ネジが一本抜けているというか。だから、ユーモアみたいなものがかもしだされたりしてくるのだよね。単純な日常の話はつまらないが、ヘンな短篇はかなり独自的。それに、この人の文章にはどこかイヤなところがあって、そのそこはかとないイヤさがいい。ホント、おもしろいね。

浮遊霊ブラジル

浮遊霊ブラジル

豊川斎赫『丹下健三』

休日(建国記念の日)。晴。
寝ている間に雪が降ったようだ。


武満徹の「My Way Of Life」で、バリトンはドウェイン・クロフト、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラ


ハイドンのピアノ・ソナタ第三十七番 Hob.XVI-22 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル

教え子一家が来訪。(ちなみに昨日の子とはちがう。)上の子は昔見ていて、ついに結婚するとか。長いことおしゃべりしてしまった。

聴いているときはさほどにも思わなかったのだが、朝聴いたリヒテルハイドンは結構ためになった。だいぶ得るところがあったように思う。

このところつまらないブログになっていると思う。やっていることがしようもないからな。その領域をできるだけこれまでに接続して、自分の幅が広げられたらなと思うのだが、うまくいくとは限らない。こんなことでも、人生(って主語が大きすぎるか)のむずかしさだな。


豊川斎赫『丹下健三』読了。副題「戦後日本の構想者」。中身については書かない。どうでもいいことだけ書く。本書ばかりではないが、近年の日本語の文章の多くが、西洋語にそのまま移せそうな「機能的散文」で書かれるようになった。というか、「文章」という語に纏わる伝統的なニュアンスが、既に理解されなくなってきている。単純化して言えば、このままだと日本語は「英語」に変っていくだろう。別にそれが悪いわけではないというか、最近の優秀な若い学者たちからいえばそれこそ日本語のあるべき姿ということになろう。そしてわたくしは滅ぶべき古くさい人間に過ぎない。どうでもよい。

丹下健三――戦後日本の構想者 (岩波新書)

丹下健三――戦後日本の構想者 (岩波新書)

 
本日の PC 遊び。