こともなし

雨。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第九番 K.311 で、ピアノはイリーナ・ザッハレンコヴァ。この人は手癖が多い。僕がピアノの先生だったら、小手先だけで表情をつけてはいけませんというだろう。ってエラそうでごめんなさい。


モーツァルト弦楽四重奏曲第二十三番 K.590 で、演奏はオライオンSQ。これはなかなかおもしろかった。モーツァルトは晩年に六曲のやさしい弦楽四重奏曲の注文を受けるが、結局三曲書いてやめてしまった、これはその最後の曲である。手加減して書くのに明らかに乗り気でなかったのである。この曲でも、書いているうちに興が乗ってくるのだが、それとやさしく書かないといけないというののジレンマが感じられるような気がする。終楽章など自分にはかなりユニークでおもしろいと感じられるが、それが注文主に伝わるかどうか。モーツァルトとしては、本格的な弦楽四重奏曲ではなく、どうもディヴェルティメントでも書くつもりで書こうとした感じだが、あまりうまくいっていない。実際、この三曲の弦楽四重奏曲はそれほど演奏されないようでもある。


伊福部昭の「ピアノ組曲」(1937)で、ピアノは萱原祐子。

何かだらだらしていた。

出村和彦『アウグスティヌス』

晴。


ハイドンのピアノ協奏曲ニ長調 Hob.XVIII-11 で、ピアノはエミール・ギレリス、指揮はルドルフ・バルシャイ。ギレリスがいま聴かれているのかよく知らないが、自分には決して無視できないピアニストである。ただ、ギレリスがどういうピアニストであるが、まだはっきりと述べることができない。音はどちらかというと冷たく、技巧は完璧。しかしそれだけではどうも尽くせていない感じがする。

昼から県営プール。

だらだらと二時間くらいツイッターのタイムラインを見ていた。ひまつぶしに TL 見て、時々リツートする。やっぱりいまはコレですね。それはそうと、昨日テレビで「シン・ゴジラ」放送されたの? 何だかそんな TL になっているのだが。
なお、僕は読んでいてムカツク奴(特に知識人)も結構フォローしています。

このところ車内ではピリスの弾くモーツァルトのピアノ・ソナタ(DG盤)を聴いている。ピリスはそれほど深い人ではないが(K.310 とかを聴いているとよくわかる)、BGM として聴くにはちょうどいい。音楽に没頭してはあぶないからね。清潔なところも悪くない。


 

わははは、トランプ大統領、正直すぎるだろう。って、ネタだろ? おれフランス語は読めないけれど、マジで安倍首相の名前が出なかったの? この記事に書いていないだけじゃなくて…? しかし、少なくともこのフランス語記事を書いた記者が、安倍首相のことを忘れていたのは確かだが。


出村和彦『アウグスティヌス』読了。副題「『心』の哲学者」。副題に「哲学者」とあるが、どうしてなのだろうね。本書はなかなかおもしろかった。『神の国』は随分昔に読んだが、いまでは何も覚えていない。『告白』はこれは絶対におもしろいよ。『三位一体』は読んでみたい。本書を読むと、小著もおもしろそうだ。岩波文庫あたりが適当なアンソロジーを出せばいいのに。
 本書にはそういう記述はまったくないが、かつて読んだところではアウグスティヌスはおそらく黒人だったろうという。カルタゴ近辺の北アフリカの出だから、たぶんそうであろう。本書を読むと、ローマ世界がいかに広大であり、それが当時の「世界」のすべてだったかということがわかる。コンビニやスマホがないだけで、いまの世界とさほどかわらない人々の一生がそこにあったように思える。世界に新しいことはないのだ。そして、いま我々が生きている世界も将来は消滅し、すべては無に帰することは疑いない。不思議なものであるな。
 アウグスティヌスは、現代にあったら優秀な企業人になっていたかも知れないとふと思う。それくらい、有能なひとであった。そして最晩年は、自分の著作がすべて後世に伝わるよう、周到に準備していた。実際、アウグスティヌスの著作はほぼ完全な形で現代まで伝わっている。これもまた運命であろう。

アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)

アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)

アウグスティヌスが死の床に就いていたとき、彼がいたヒッポの町はヴァンダル族に包囲されていた。彼が死んだあとヒッポは陥落し、それから数十年で北アフリカカトリック教会は完全に消滅する。西ローマ帝国が滅びるまで、あとはそれほどの期間はない。その後、いわゆる「古典的古代世界」はおわり、暗黒時代とされてきた中世が始まる。現在は中世はかならずしも暗黒時代ではなかったという考え方が主流になったが、ローマ世界をよく知っている人からすれば、やはり五世紀あたりは混乱の時代であったことはまちがいないだろう。アウグスティヌスはよい時代を生きたことになると思う。しかし、その暗黒の五世紀頃でも、シドニウス・アポリナリスのような人がいたりしたのだから、人間のやることというのはいつになっても変わらないというべきだ。澁澤龍彦は繊細な詩人としてのシドニウス・アポリナリスを愛し、晩年の著作で何度か言及していた筈である。

そうそう、プロティノスの『エネアデス』を読まないといけない。手元には抄訳版しかないけれど。全部訳されているのですかね。
検索してみたらプロティノス全集が刊行されていて、県図書館に入っているのはいいのだが、第二巻だけないという謎…。

田中明彦『新しい中世』

日曜日。晴。
早寝遅起きというか、十一時間くらい布団の中にいたのではないか。まあ布団に入ってたぶん二時間くらいは寝付けなかったし、起きる前も二時間くらい半覚醒状態でうつらうつらしていた。まったく白痴化するのもそれはそれで容易とはいえない。
起きても三十分はぼーっとしていた。


モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はエベーヌQ。僕はこの曲は特に好きでもないのだが、エベーヌQの解釈はおもしろかった。軽めの、どちらかといえば斜に構えた演奏で、特に第一ヴァイオリンにその傾向が甚だしい。いうまでもなくモーツァルトの「ハイドン・セット」はモーツァルトが自分の殻を破ろうとした、彼が作曲に非常に苦労した曲集で、実際我々の知っているモーツァルトはここから始まると言っていい。ベートーヴェンに直結していくのもここからであろう。エベーヌQの演奏はそのことをリアルに感じさせる、ユニークなものである。意外とこういう演奏はこれまでなかった気がする。こう弾かれると、この曲もつまらないとはまったく言えないなと思った。


貴志康一のヴァイオリン協奏曲(1935)で、ヴァイオリンは数住岸子、指揮は小松一彦、東京都交響楽団。やー、かないませんな。貴志康一は初めて聴くが、やー、日本ですなー。以前ならダサくてはずかしくて聴けなかったであろうが、いまは自分も面の皮が厚くなった、特にどうということもない。しかし、自分はこれが日本の最良の可能性であるとはまったく思わない。確かにこれは消化しておくべきレヴェルであるが、さらに突き抜けていくべきレヴェルでもあろう。というか、これが日本なら、武満徹が出た意味はないし、またまったくちがう方向で細野晴臣のような人が出た意味もないであろう。で、貴志康一とは何なのかね。もう少し聴いてみなくてはなるまいが。

(田舎に人がいなくなろうが)地方の人間を「地方都市」に集中すべきというような意見を飯田泰之先生のような優れた経済学者も主張されるので、田舎に住んでいる人間としては複雑な思いである。確かに経済学的にはそれが「正しい」のであろうが、もはや「故郷」とか「ふるさと」というような思いというのは死んだとされるのであろうか。田舎に住むのはクソ? あーあという感じ。まーいーけどな。好きにしてくれというか。勝手に田舎とともに滅びさせてもらいますわ。

まあしかし、自分の住んでいるところは「自然にあふれたよき田舎」でも何でもないですけれどね。国道のロードサイドまで車で10分だし、すばらしい(奇跡的な)中型書店だってあるし。でも、いずれにせよ「地方都市」ではない。このあたりだと、つまりは名古屋に人口を集中させよってことでしょ? ちがいますかね。山奥に住むとかありえないって発想でしょ? 勝手なものである。山奥に住むとか、何の罰ゲーム?とかあったな。繰り返すけれど、僕は山奥に住んではいませんが。

それから、「地方の人間は日本の多様性の源」つーのも、まあ考え方はわかるけれど、これも何だかなである。我々は別に日本の多様性のために地方に住んでいるわけではないのですけれど。どうしてそういう発想しかできないのかな。我々はただ田舎に住んでいるだけである。

もしかしたらと思うが、東京の人って自分たちと日本をあまりにも同一視しすぎているんじゃないの? 日本は東京の人間だけで構成されているわけではないのですけれど。まあ「東京こそ日本」というのは、ある意味認めないでもないですが。その意味で、自分はあまり「日本人」であるとは強く思わない。

まあ東京人でも小林信彦さんみたいな人もおられるから、まあ十把一絡げにはできないのだけれど。しかし東京の人がみな小林さんみたいなら、またちがっていたのでしょうけれどね。これぞ都会人という感じがする。

昼から肉屋。カルコス。

双極性障害II型のひとのブログを読んで泣きそうになる。病に同情したからというわけではない(もちろんいつも同情はしているけれど)。生きていることそのことすらつらいのに、低賃金で毎日働かねばならない。そうしなければ生きてはいけないのだ。そのひとの貯金はあと二箇月で底をつく。死は身近だけれど、生きていても楽しいことはあまりないけれど、やはり死ぬのはこわい。
 そう、生きるというのは基本的につらい。自分はどう考えても恵まれているが。知らぬうちに、心を病んでいたり社会からドロップアウトしたりした人たちのブログを読むことが多くなっている。で、どうもこういうひとたちの感性こそ、現代においてまともだと思えることの方が多い。僕がつらつら思うに、現代において心を病んでないひとというのは、単に感性が鈍いからだとすら思えてくる。極論であろう。それはわかってはいるけれど。

僕は、どんなカスでも生きていていいと思う。それが許されるのが唯一の文明の進歩だと思う。

傲慢な同情だったらお許し下さい。

田中明彦『新しい中世』読了。副題「相互依存の世界システム」。

こともなし

曇。


ルトスワフスキのピアノ・ソナタ(1934)で、ピアノはグローリア・チェン。これには驚いた。まるでもしドビュッシーのピアノ・ソナタがあったら、このようなものではないかというべき作品である。これは意図的なのではないかと思うのだが。それがまたじつによくできている。少なくとも自分は、ここからすごく得るものがあった。一度は聴くべき作品なのではないか。ルトスワフスキは作曲当時二一歳ほどか。こうしたいわばパクリ(?)から始めるとはおもしろいが、こんなにうまくできていれば許されるだろう。ちなみに、もちろんまだ調性はある。


シマノフスキの「九つの前奏曲」op.1 で、ピアノはマーティン・ロスコー。シマノフスキ一〇代の作曲に係るが、伝統的な後期ロマン派の書法で書かれているけれども、現代のレパートリーに加えてもおかしくないほど充実している。もしかしたらスクリャービンに影響を受けているかも知れない。はっきりと東欧的な土くささも感じられる。確かに、作曲者が作品一としておかしくない、なかなかの曲というべきだ。

昼から仕事。

早寝。

小林信彦『女優で観るか、監督を追うか』 / 高橋康也『サミュエル・ベケット』

曇。
何だか端まで来た感じで早起きする。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第十六番 K.545 で、ピアノはダニエル・バレンボイム


モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 +アンコールで、演奏はエマーソンSQ。すばらしいモーツァルトで、いうことなし。で、アンコールがハイドンベートーヴェンなのだが、よほど興が乗って弾きたかったのであろう、ベートーヴェン(ラズモフスキー第三番のフィナーレ)がすごい演奏。こんな演奏は滅多にあるものではなくて、集中力と迫力が圧倒的である。聴いていてどこまでいくのだろうと思った。たぶんエマーソンSQといえどももこれほど高揚することはあまりないのではないか。もちろん演奏終了後は破れんばかりの拍手だった。ちなみにこれは日本での演奏会ですね。


ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はシネ・ノミネQ。エマーソンQのベートーヴェンを聴いて高揚させられたので、ベートーヴェン弦楽四重奏曲の中でいちばん好きなこの曲を聴いた。シネ・ノミネQはよく知らないけれど、これ名演といっていいのではないか。見事な演奏だったですよ。


シューベルトの「華麗なるロンド」D895 で、ヴァイオリンはアドルフ・ブッシュ、ピアノはルドルフ・ゼルキン


フランクのピアノ五重奏曲で、ピアノはクラウディオ・アラウ、ジュリアードSQ。

昼過ぎ、ミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー。小林信彦のエッセイ集を読む。これを読むのは本当にいい気持ちだ。自分が映画もテレビドラマも見ないのが残念なくらい。映画が好きという人に、頭でっかちの人は少ないように感じる(蓮實重彦氏はどうなのか知らないが)。しかしこれを読んでいて、大瀧詠一さんが亡くなったあとの話はさみしい。僕は大瀧さんのそれほどコアなファンではないけれど、山下達郎とか細野晴臣とかいう人たちの音楽にずっとつきあってきた人間として、小林さんの気持ちは推測できるところもあると思っている。それにしても、自分にどうして小林さんが好ましいのか、よくわからないところもある。僕は川本三郎さんなどは苦手なのだが。不思議だ。まあ、本物だからとかいってしまえば身も蓋もないのですけれど。

図書館から借りてきた、小林信彦『女優で観るか、監督を追うか』読了。まったくどうして自分にこの本が読めるのかわからない。知っている話はまるでないし、本書を読んでも映画を見ようとも思わないのだが。しかし、自分のまったく知らない人名ばかりが鏤めてある文章を楽しく読んでしまう。

 

高橋康也『サミュエル・ベケット』読了。以前から高橋康也氏は読みたかったのだが、まとまったものを読んだのはこれが初めてのような気もする。うわさどおり、知的とはかかるものをいうと申すべき、ハイレヴェルな文学評論である。というか、わかった風なことを言ったが、はっきり言って自分に本書を充分に読み解く力はない。文学を読み解く最高の能力と、最高の教養を必要とする難物であり、現在本書を読み解ける人間が日本に何人いるか、心もとない気がする。こう言ってはまことに失礼であるが、いまの若い人にはまず無理とすら思われる(そうでなければ最高だ!)。というか、ちんぷんかんぷんでおもしろくも何ともないか、何か小むずかしいことをごちゃごちゃ言っている、面倒くさい文章だと思われるのではないかと、またしても失礼ながらわたくしには思われてしまう。ちなみに、本書の宇野邦一氏による解説すら、内容の乏しいうわごとであるくらいであるるるるる。もちろん自分など、それよりも遥かに比較にもならず劣ることであろう。
 という具合に無意味なことを書いたが、本書が華麗にも知的な果実であることは完全に認めるものの、正直いうと文章があまりにも大袈裟すぎるとも、自分にような人間には思われる。何というか、著者に教養がありすぎて、おそるべくもペダンティックなのだ。わたくしの乏しい知識では、いかんともし難い。それでも、ベケットがほとんど無の材料から、苦労してほとんど「中身のない」文学を構築していったその歩みは、本書によりじつによくわかる。自分は、例えばジョン・ケージの「音楽」を思い出したりする。「中身のない」という、そのことを「表現」することにより、その「中身」の本質をありありと炙りだす手法というか。それにより、「文学」は根本から問い直される。むしろそれにより、「文学」は延命すらされてしまったのだ。しかし高橋康也氏は(当然にも)指摘していないが、例えば現代日本にあってきわめて幼稚な洪水的量のなにものかが「文学」を乗っ取ることにより、ベケットその他が何とか延命させてみせた「文学」が、ついにその役割を終えたという事実がある。これは、もしかしたらベケットも、そして高橋氏も予想しなかった展開だったかもしれない。いっておくが、自分はいまさらそのようなことを嘆いたりはしない。ポストモダンには、ポストモダンの戦略がある。ちなみに、誰が何といおうとも、現代が相変わらずポストモダン的状況のままなのは紛れもない、と蛇足ながら注意しておこう。それからさらに蛇足しておくと、本エディションの出版は一種の奇跡である。ちくま学芸文庫あたりが追従して欲しいものだ。

伯母の顔を見て、それから「長沢芦雪展」

晴。
用事があるので早起き。攻殻機動隊のように、脳をコピーする夢を見る。それをインスタンスと呼んでいたのがプログラマたるわたくし(笑)。


バッハのブランデンブルク協奏曲第五番 BWV1050 で、ピアノはマレイ・ペライア

母を乗せて名古屋まで伯母の顔を見に行く。伯母はもう90歳近くで認知症を患っており、名古屋市内の老人ホームで暮らしているのだ。カーナビ頼りで名古屋市内はなかなか面倒、渋滞で連絡した時間より多少遅れてしまう。しかし、伯母は思っていたより元気だった。母(伯母からしたら齢の離れた妹である)のこともすぐわかったし、甥(わたくし)も最初はちょっとわからなかったようであるが、それはこちらも齢をとったせいで、あとではしっかり認識してくれた。近くの喫茶店でコーヒーを飲みながらしゃべったが、「もう生きていてもしょうがない」とかは言うものの、まあそんなのは決まり文句なので、体はよろよろながら目も耳も達者、僕ははやく嫁をつれてこいとか言われた(笑)。「おじいちゃん(伯母の父、つまり僕の祖父)死んじゃったの、私お葬式行った?」とかは言っていたけれど、これなんかちょっと愛嬌があって可笑しい。まあ充分ですよ。あちらの家族の複雑な事情もあるが、それはあまりかかわりたくないし、我々としてはホッとしました。しかし、齢をとるというのはむずかしいな。自分なども考えてしまう。
 伯母と別れ、そこから歩いていけるコメダコーヒーで昼食。街の中の小さな古いコメダコーヒーで、おそらく夫婦で長いことやっているのであろう。僕はカツサンドを食ったが、他のコメダと同じでうまかった。
 街路樹が色づいてきれいである。
 そこから愛知芸術文化センターへ。愛知県美術館の「長沢芦雪展」を見る。僕は長沢芦雪はよく知らなかったのだが、正直言ってそれほどの画家とは思えない。師匠の応挙の作品も多少展示してあったが、明らかに応挙の方が比較にならず上だ。特に僕は芦雪は技術、西洋絵画でいうデッサン力*1がないと思う。細かい筆の技術にも乏しい。だから大雑把な(いわゆる「豪快な」)画風になる。そもそも鳥は足をみればわかるが、はっきりいってダメだ。「応挙よりうまく、若冲よりすごい」なんてのはお話にならないので、そういうのは若冲の鶏を見たことがあるのだろうか。って若冲の鶏と言ったのは母だが、まったくの同感である。
 って思いっきり貶したけれど、これも正直言って絵を見るのは楽しい。母は「ユーモラスなのはいい」と言っていたが、確かにそういうところはある。技術のなさをごまかしているようなのはダメだが、あ、これは悪くないなというのも結構あった。しかし、僕にはどうして重文になっているかわからないのもいくらかあったけれど。何でも評価すればいいってものでもないと思う。
 人は結構きていた。これなら盛況といえるくらい。高校生の団体も見かけたが、若いうちに本物を見ておくのは非常に重要で、どうせわかんないにきまっているがそれでいいのである。これは自分も痛感していることで、高校生くらいの頃のは確実に記憶に残るのだ。
 帰りの国道22号は混雑していたわりにスムーズだった。

*1:あるいは「形態把握能力」といってもいいだろう。日本画はキャンバスにデッサンしない分だけ、この能力が却って強く効いてくるくらいである。それゆえ、芦雪の個物は応挙に比べどこかゆがんだように見える。特に気になるのは、人の顔の醜さである。僕はこれは、敢て醜く描いたのではないと思う。

サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

雨。

午前中、散髪。

曇。昼から図書館。市民公園の樹々がいい感じに色づいてきた。公園のまわりを走っている人たちがいる。
pha さんの本があったので借りてきた。

サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら』読了。安堂信也・高橋康也訳。高橋康也氏のベケット本の手軽なエディションが出るという奇跡が起きたので、たまたま本屋にあった(このことも奇跡に近い)本書を読んでみた。この現代演劇の傑作を今ごろ読むとは、かなり恥ずかしいことであるにはちがいない。この白水uブックス版は、どうやら既に四年前に出ていたのだな。まったく知らなかった。もうね、本屋の海外文学のコーナーを見ていないのですよ。いかんなあ。しかし、いまでもいい本は出ているのだが、これはという海外文学本は高価すぎやせんかね。困るなあ。なお、その高橋康也氏のベケット本は残念ながら本屋にありませんでした。

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 
夜、仕事。いまあんまり調子がよくないので、こういうときに仕事は気が紛れる。やはりいまの仕事をやめても、何かしないといけないだろうな。

あと、なんと『百年の孤独』を読んでいない。ごめんなさいごめんなさい、積読です。なんて例は無限に(?)ある。まあ読んでもすぐ忘れるのだが。碩学・河野與一大先生も、どうも読んだ端からすぐ忘れたというウワサだ。しかし、その河野先生の著書を読むと、なんつーかレヴェルがちがうので。コンスタンチノープルの書庫の文書に目を通しているとか(ちがったっけ?)、どうしたらそういうことができるものだろうか。河野先生は谷沢永一氏が繰り返し罵倒していたのが印象的である。谷沢永一氏はまちがったことを決していわないという、つまらない正義派だった。この人もえらいひとだが、いまではもう読もうとは思わない。まあ、他のひとが読みますよ。僕は開高健はいまだにリスペクトしているし、若い頃かなり影響を受けた。氏こそハードボイルドだったと思います。

あー思い出した。『アンナ・カレーニナ』も読まないといけないわ。厄介そうで先延ばしにしていたという。そうそう、ラブレーも読んでいない。エリアーデ幻想小説全集とか、どれだけ積読にしておくのだ。あーもうやめておこう。

お、県図書館にエリアーデ著作集が揃っているな。これは…。学生のとき買いたくてもとても買えなかったっけ。