許光俊『クラシックの秘宝』 / 中森明夫『アイドルになりたい!』 / 関川夏央『昭和時代回想』

日曜日。曇。
早起き。


武満徹の「From me flows what you call Time」で、指揮はスティーブン・シック。すばらしい曲だ。武満徹は朝一番に聴ける曲を書いたな。これは大変に稀なことである。この曲は確かに西洋人が好きそうなところも多い。この演奏はすべて西洋人によるものだと思うが、当り前かも知れないけれど、違和感はない。ただ、日本人ならもっと自然のノイズに近いように演奏するかも知れないなとは思うが。題もシュルレアリスム絵画の題名みたいで、おもしろいよね。「あなたが時間と呼ぶものが私から流れ出る」というような意味だと思うが、いろいろ連想を誘うそれである。いや、Time は「時代」かな?


ヤナーチェクの「草かげの小径にて」で、ピアノは Hélène Couvert。いやあ、シンプルなピアノ曲集だが、しんどかった。この動画は「草かげの小径にて」を二人のピアニストそれぞれの全曲演奏で収録しているので、Couvert による前半のみ聴いた。そのうち後半も聴きたい。僕はヤナーチェクは日本人必聴だと思うのだけれどね。別に日本人に限ることはないのだけれど。

ヤナーチェクが大変すぎてちょっと寝る。少し寝ただけなのに、印象的な夢を見た。
結局後始末に午前中いっぱいかかる。

何年ぶりかにツイッターの自分のタイムラインを見ていたらツイッターは自分には非常にむかつくことが判明。フォローを一気に半分くらいに減らす。それでもあまり見る気が起こらない。
お前らって何でも知っているし何でも何が正しいか判断できるのだな。ホント俺と正反対だ。

ミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。エンゼルフレンチ+ブレンドコーヒー410円。図書館から借りてきた、許光俊『クラシックの秘宝』を読む。体育会系感動主義。一箇所も共感するところがなかった。これだけ音楽の聴き方が自分とちがうと、却っておもしろい。恥ずかしくなるような大げさな表現で感動が口をきわめて描写されるので、ちょっと引いてしまうわけだ。僕も音楽に感動することがあるのはもちろんだが、特に感動を求めて音楽を聴いているわけではない。音楽が聴きたいから音楽を聴くのである。だから、最近は以前ほど演奏家にこだわらない。例えばいまたまたま車の中で愛聴しているのはバッハのトッカータ集であるが、弾いているピアニストは Alexandra Gorlin-Crenshaw という人である。たぶんほとんどの人は知るまい、というか、日本でこれを聴いているのが自分だけであっても驚かない。CD もたぶん出ていない。自分はたまたま You Tube から勝手に mp3 に落として車の中で聴いているだけなのである。このピアニストはすごいから、是非 CD 化すべきとも言わない。たぶん、許光俊氏なら鼻も引っ掛けないであろう。でも、自分にはこれで充分なのだ。大演奏家の名演ばかり聴くというのは、自分の聴き方ではないのである。というか、むしろ意図的に「有名大人気演奏家」は第二の選択にしておく。それに特に意味はないのだが。まあたぶん許光俊氏の方が正しいのだとは思っているが、自分は好きに聴かせてもらうのである。

クラシックの秘宝

クラシックの秘宝

と書いてブログの過去記事を見ていたら、結構人気演奏家ばかり聴いていますね。こりゃ矛盾だ。

台風が来てほしいわけではまったくないが、ちっとも台風が来ない。のろのろ運転。

図書館から借りてきた、中森明夫『アイドルになりたい!』読了。僕はアイドルにあまり興味はないけれど、これはなかなかいい本。現代の女の子で真剣にアイドルになりたかったら、本書を読むのはたぶんためになると思う。しかし、本書のアイドルってみんな女性なんだよね。男性アイドルっていないの? どうでもいいの?

しかし、中森氏は「アイドルとは『好き』になってもらう仕事」(p.18)だと言っているが、つまりは欲望(特に「性的」な)の対象になり、それでお金を稼ぐ仕事だとはっきり言った方がいいと思う。それだからいけないというわけではないので、そういうものだと知ってやるなら別に好きにしたらよい。ただ、アイドルになって水着にはなりたくないというのに対し、それだと「事務所としてもちょっと困っちゃうよね」(p.94)なんていうのは、説明不足だからではないのか。AKB48 なんかでも、生き残るためには下着姿にでも何にでもなっている(気になる人は検索してみて下さい)。そういうものなんですよということ。
 それから、中森氏は橋本環奈ちゃんが地方アイドルから大ブレークしたのを絶賛していて、「イベントで踊っている彼女の写真がインターネットにアップされると大評判になってね」(p.104)っていうやつ、あれ、かわいい環奈ちゃんが股を大きく開いてアンダースコート(?)がばっちり写っているのが混じっていたことは書いていないよね。こういうことを書くと「クソエロオヤジ!」って怒られそうだけれど、やっぱりちゃんと書いた方がいいんじゃないの? 別にその写真が決定的だったとはいわないけれど。それとも、そんなのを気にするのはクソエロオヤジの自分だけ?
 でもまあ、自分にはいまのところあまり関係のない世界なので、強くは主張しません。どうぞお好きなように。
 
ツイッターは修行になることがわかったので、しばらくタイムラインを見続けたい。

風が強くなってさすがにビビっている。(PM10:08)

図書館から借りてきた、関川夏央『昭和時代回想』読了。著者はしばしば自虐的であるが、本書の最初はそれがはなはだしい。さすがにちょっとなあと思ったが、あとがきを読んだら意図的なものだとわかった。一度は思春期のことを書いておきたかったということらしい。しかし、一冊読み終えて、著者に対する自分の敬意はまったく変わらなかった。著者が文学者であるとして、どういう文学者なのか自分は知らないが、自分の著者像ははっきりしている。この人は実力者であり、またこういうふるまいこそが知的であるということだ。そして、この人は人を、時代を切っても、その刃を自分に向けることを忘れない。これは多くの人を著者から遠ざけるものであるかも知れないが、清潔な人というのはかかる人のことをいうのであると自分は思っている。一国の文化の土台を築くのは、こういう目立たない実力者なのだ。

昭和時代回想

昭和時代回想

マキャヴェッリ『君主論』

曇。
早起き。


モーツァルトクラリネット五重奏曲 K.581 で、演奏は Wiener Oktett。まずは申し分のない演奏だ。おすすめ。


シューベルトの八重奏曲ヘ長調 D803 で、演奏はWiener Oktett。もしかしたらこの曲、初めて聴いたのではないか。実質的にディヴェルティメントあるいはセレナーデという感じだな。悪くないし、演奏がいい。

カルピスソーダ 1.5L×8本

カルピスソーダ 1.5L×8本

このところ好きで飲んでいる。「濃いめ」の方もおいしい。

昼前から雨。小寒いくらい。
昼から仕事。

マキャヴェッリ君主論』読了。森川辰文訳。かつて読んだのは中公文庫版だったろうか。新訳は読みやすい。以前読んだときは通念に引きずられていわゆる「マキャヴェリズム」を中に読み込んでいたという気がするが、今回読んでみて「マキャヴェリズム」などは大したことではなかったし、そうおもしろいものでもなかった。マキャヴェッリは人間は邪悪である(p.152)という正しい認識をもっていただけで、あとは正確に同時代のイタリアの政治状況を把握し分析しただけのことである。むしろおもしろいのは現実の把握であり、以前は気づかなかったが、同時代の覇者たちの行動が活写されている。特にチェーザレ・ボルジア(本訳書では「ボルジャ」と表記)、マキャヴェッリは「ヴァレンティーノ公」とも書いているが、彼のエピソードはきわめておもしろい。ボルジアは織田信長みたいなやつで、後世の文学作品などに無数に取り上げられている傑物である。なんとなく、昔好きだったブルクハルト(林達夫の影響である)が読み直したくなってきた。古典新訳文庫とかに『イタリアにおけるルネサンスの文化』を入れてもらえないかと思うくらいである。ちなみにこいつはドイツ語原典ももっていて*1、おぼつかないドイツ語で冒頭部分に目を通したりしたのがなつかしい(もちろん通読は挫折した)。しかしマキャヴェッリだが、

しかしながら、次のように判断する。すなわち、慎重であるよりは勢いにまかせたほうがよい、と。なぜなら、運命の神は女なので、運命を支配しようと思えば、たたいたり突き飛ばしたりして服従させる必要があるからである。…それゆえ、女と同じように、運命は若者の友なのである。なぜなら、若者というのはあまり慎重ではなく、より荒々しく、より大胆に女を支配するものだからである。(p.214)

はよかったね。訳者によればフェミニズムがこれを問題視することがあるそうであるが、アホである。バカにつける薬はないのかも知れない。とにかく、マキャヴェッリはこれを見ても、なかなか愉快なやつだったようだ。サマセット・モーム歴史小説ではマキャヴェッリが大活躍するが、人生を楽しむことを知っている精力的な人間として活写されていたのを思い出す。

君主論 (古典新訳文庫)

君主論 (古典新訳文庫)

そういやマキャヴェッリの書いた戯曲である『マンドラゴラ』を読みたいのだが、どこかに訳されていませんかね。それから『ディスコルシ(ローマ史論)』は難物で、複数の翻訳で目を通したが、なかなか手ごわかったのを覚えている。なので、中身はうろ覚えですな。

ちょっと調べてみたら、「マンドラゴラ」は筑摩書房の『マキァヴェッリ全集 4』に収録されていることがわかった。これ、県図書館にあるんですね。さすがだ。今度借りてこよう。

マキァヴェッリ全集〈4〉マンドラーゴラほか

マキァヴェッリ全集〈4〉マンドラーゴラほか

サマセット・モーム歴史小説モームはいまでは大学入試に出なくなり、そのせいかもはやあまり読まれないが、僕はきらいでない。確かエドマンド・ウィルソンが「通俗」だと酷評していたモームであるけれど、僕はまあ俗な人間ですから。エッセイなんかもおもしろいですよ。俗な人生を味わい尽くしたイヤミなジジイが皮肉なことを言っていて、自分にはいまだに忘れられない洞察に満ちている。不幸なことに長生きしすぎたのもモームらしい。
昔も今も (ちくま文庫)

昔も今も (ちくま文庫)

*1:それだけでない、なんと『チェチェローネ』までドイツ語版をもっているのだぜ。どうだ。ってこれなんか、僕がもっていても宝の持ち腐れ(?)なのだけれどね。

ソポクレス『オイディプス王』

曇。


バッハのピアノ協奏曲第四番 BWV1055 で、ピアノはティムール・セルゲーニア。もう少し余裕が欲しい感じ。


リゲティの「木管五重奏のための十曲」(1968)で、演奏は The Vienna Wind Soloists。


ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」で、演奏はアナトリー・ヴェデルニコフ。僕はこの曲が好きで、20代後半のまだ若きドビュッシーの抒情性がよく出ていると思うのだが、ヴェデルニコフは堂々たる音楽にしている。こんな部分があるのだなと聴いていて何度も思わされた。ヴェデルニコフはこういう(ちょっぴり感傷的な)曲も弾けるのだな。さすがだ。


ウェーベルンの「弦楽四重奏のための五楽章」op.5 で、演奏はアルバン・ベルクQ。何ともカッコいい曲だ。カッコよすぎて死亡。アルバン・ベルクQ はさすがに鋭角的で、アグレッシブである。ウェーベルンがきらいな人って想像できないが、僕はどちらかといえば十二音技法以前の曲が好きだ。定期的に聴きたくなる。吉田秀和さんもウェーベルンが好きだった。小林秀雄から何かおもしろい音楽はないかと聞かれて、ウェーベルンのレコードを進呈したというエピソードがある。まあ、二十世紀音楽の古典中の古典ですね。


 



蝶もトンボも飛び回っているし、年寄りが百姓をして、肥(こえ)のにおいがまだする。なつかしい世界はいまだ滅びていない。いつまでこうなのだろうか。

昼から県図書館。車中ではずっとバッハのトッカータ集を聴いていた。
ひさしぶりにカルコス。何冊か探していた本があったのだが、どれもカルコスには置いてなかった。図書館へ行ったあとなので、あまり購買意欲を唆られずよかった(?)。図書館で借りて読めば充分な本が多い。県図書館は閉架まで含めればやはりかなりいい本がある。コンピュータによる検索も充実していることがわかった。プログラミング本などでも、よく調べるとわざわざ買った本がかなりある。もっとも、ある程度は買わないと身につかないのだが、本の世界を広げるのに図書館は有用だ。

このところ
碧南市藤井達吉現代美術館の「リアル(写実)のゆくえ」展 - オベリスク備忘録
篠田英朗『ほんとうの憲法』 - オベリスク備忘録
の二つのエントリがわりとアクセスされていますな。

ソポクレス『オイディプス王』読了。河合祥一郎訳。英語からの重訳であるが、原文を参照してのことであるという。既に既訳を読んでいるが、誰の訳であったか忘れた。この戯曲からフロイトは「エディプス・コンプレックス」の名前をつけたわけだが、確かにオイディプスは自分の父を殺し、母と交わるのではあるけれど、それはまったく知らずにしたことである。もちろんそうでなければ、悲劇にならないし。この戯曲はこれまで人類が書いた悲劇のなかでももっとも有名なもののひとつであるが(シェイクスピアの「ハムレット」と双璧であろう)、自分はそれほどおもしろいとは思わない。現代におけるエンタメなどのせいで、完全に感覚が麻痺してしまっている。何というか、現代の作品と比べると、あまりに単純なお話ではあるまいか。ただ、それゆえに凝縮度が高いといえばそうかも知れない。まあ、偉大な傑作のわからない男であります。しかし、もう既にどれくらい多くの人間がこの戯曲のあらゆる部分をつついて論文等にしてきたものか。そういうのにはあまり興味がわかないけれどね。とにかく、素人ならばアカデミックなことは忘れて虚心に読んでみるべきではないでしょうか。

オイディプス王 (古典新訳文庫)

オイディプス王 (古典新訳文庫)

しかし、ホント古典新訳文庫は頑張っているよなあ。文学に関しては最近の岩波文庫をあるいは超えているかも知れない。

レヴィ=ストロース『今日のトーテミズム』

晴。

朝起きて
同一ファイル名を上書きせず、(1)などをファイル名に付加する(Ruby) - Camera Obscura
をたまたま見てしまったら自分の昔のコードがあまりにもひどいので、気になって新しく書きなおす。

昼から県営プール。結構混んでいた。

Ruby は型を明示的に書かない言語だが、型がはっきりわかった方がいい場合はコメントで注記することにする。で、いろいろ実践、最終的に
Ruby の型注釈のオレオレ記法 - Camera Obscura
とまとめる。これで一日おしまい。

夕方、図書館。

図書館から借りてきた、レヴィ=ストロース『今日のトーテミズム』読了。ルソーの『言語起源論』を読み返さないといけないな。レヴィ=ストロースの中に目の覚めるような引用があった。

人をして話さしめた最初の動機は情念であったため、人間の最初の表現は比喩であった。比喩的言語がまず誕生し、本義は最後に見つけられた。事物をその真の姿で見たときに、はじめて、人はこれをその真の名で呼んだのだ。初めは、人は詩でのみ語った。推論することを思いついたのはずっとあとのことだ。

レヴィ=ストロースはもっと読むつもり。

今日のトーテミスム (みすずライブリー) (みすずライブラリー)

今日のトーテミスム (みすずライブリー) (みすずライブラリー)

今村仁司編訳『現代語訳 清沢満之語録』

晴。


バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ


シューベルト即興曲集 op.90 で、ピアノはマレイ・ペライア


リストのピアノ協奏曲第二番で、ピアノはカティア・ブニアティシヴィリ、指揮はアンドレイ・ボレイコ。この曲は下らない部分とおもしろい部分が綯い交ぜになった不思議な曲で、なかなかに複雑である。曲構造もよくわからない。全体が単一楽章なのだろうか。記憶に残りにくい曲なのだが、ホント結構おもしろいよね。


ショスタコーヴィチヴィオラソナタ op.147 で、ヴィオラ今井信子、ピアノはエマニュエル・アックス。これはすばらしい曲であり、すばらしい演奏だ。この動画はもとはテレビで放送されたものをビデオテープに録画したものらしく、音の状態がかなり悪いが、それをあまり気にさせない見事さである。シリアス極まりない、ショスタコーヴィチの到達点。名演というべきであろう。

今村仁司編訳『現代語訳 清沢満之語録』読了。先日書いたことに多少付け加えておこう。自分は(自己卑下ではなく)本当に下らない人間であるが、清澤満之の凛冽の気には打たれる。これほど高貴で優秀な人間が、特に知られることもなく三河の田舎でひっそりと39歳の生涯を閉じざるを得なかったとは。満之は地元の人たちには好かれなかったと、先日清澤満之記念館にて知った。俗人とはおそるべきである。自分も俗人だからよく知っているが、俗人は立派な人間などいる筈がないと思っているし、いたらいたでむしろ憎みすらするものだ。もちろん満之はそのようなことは気にしなかったであろうけれど。と満之の求道者的な面を強調してしまったが、編者の仰るとおり、満之の宗教哲学者としての一面を閑却してはならないでもあろう。従来、満之は宗教哲学者としてはそれほど知られていなかったと言っていいだろうから。それに関しては、編者の本書解説などが参考になる。しかし、先日も書いたが、満之はやはり立派な人であった。やりようによってはきらびやかな世界が待っていたろうけれど、不遇に甘んじ、それをみずからの修養の糧として、不満を漏らすこともなく早死していった。よく生きたといいたいものがある。

現代語訳 清沢満之語録 (岩波現代文庫)

現代語訳 清沢満之語録 (岩波現代文庫)

しかし、満之の生前は満之を冷遇し、死後は宗門の偉人としてアイドル視してきた真宗の当局には、同じ門徒として好感を抱くことができない。まあ、制度としての宗教など、そんなものであろうが。ウチのお寺の坊主もどうしようもない俗物である。自分の言葉で法話ひとつできない。地元の人間はそういうことを皆よく知っているものだ。

いま検索していて知ったのだが、忘れられていた満之を忘却の淵から救い出したのは、まずは司馬遼太郎であったらしい。清澤満之記念館でも司馬遼太郎のことは聞いた。司馬遼太郎は最近では日本の「知的世界」において軽侮ないし忘却されている傾向にあるが、そんなにバカにしてもいいのだろうかという気がする。デリダとかドゥルーズだとか口走っている輩のみがエラいのだろうか(言っておくが、デリダドゥルーズもエラい人たちである)。また社会学がすべてを切れるのだろうか。自分にはあまり関係のないことだが、何だかなという時代になっている。それが我々の時代だ。


ウチのニラの花。

中沢さんの訳した「鳥の仏教」を読んで寝る。

こともなし

晴。

寝転がって iPad mini でプログラミング関係のウェブ記事を読んでいると止めどがない。どれだけでも時間が経つが、まあ楽しいことばかりしていてもダメだよね。それに、永遠に初心者プログラマから脱却できないのでもあるし。というわけで(?)、このところ RubyGem にハマっております。いろいろ Gem の仕方を勉強している。
 

シューマンの「森の情景」op.82 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス。いい演奏だな。(PM11:17)

こともなし

晴。
早起き。


バッハのピアノ協奏曲第一番 BWV1052 で、ピアノはポーリナ・オセチンスカヤ、指揮は Anton Gakkel。終楽章が特にカッコいい演奏。ブログで絶賛している人もいる。


シューマンの「子供の情景」 op.15 で、ピアノはコチシュ・ゾルターン。ちょっと変っているけれど、いい演奏だな。


ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はダニエル・バレンボイムCSO。シカゴ響という超高性能スポーツカーを存分に操った演奏。バレンボイムはこの曲を愛しているというより、どうだ見たかといわんばかりの演奏である。完璧に音楽的であり、見事なもので、この演奏に感動する人は多いだろう。でも、自分には正直違和感が大きかった。僕は、この曲はもっとストイックな曲だと思っているので。別に自分が絶対に正しいと思っているわけではないが、聴いていてどうもイヤな感じが拭えなかった。バレンボイム好きの人には謝っておきます、ごめんなさい。

雨が降ったり止んだり。

PC 遊び。
Ruby で循環小数を扱う - Camera Obscura