W・G・ゼーバルト『移民たち』

日曜日。雨。
吹っ切れた感じ。土台から作り直していこう。


バッハのハープシコード協奏曲第一番 BWV1052 で、ハープシコードはラルフ・カークパトリック。


ショパンの二十四の前奏曲 op.28 で、ピアノはユリアンナ・アヴデーエワ。これはスリリングな演奏会の記録だった。ライブならではだね。アヴデーエワってピアニストは知らないけれど、ショパン・コンクールの優勝者なんだってな。

スーパーで買い物。8回くじを引いたけれど、全部ハズレでした(笑)。


ドビュッシーの「海」で、指揮はクラウディオ・アバド、オケはルツェルン祝祭管弦楽団。これはすごい。もう何度聴いたかわからない曲なのに、まったくちがう曲を聴いているかのような新鮮さがある。知的、精緻、ふくよか、そして最後の爆発。昨日聴いた「聖セバスチャンの殉教」と一緒にして、CD化したらいいと思う。

昼過ぎ、外出。だいぶ前に近所に出来た「BOOKS 想起」という新古書店に行ってみる。元コンビニの広さの中に、半分は新刊の雑誌とマンガ、半分は古本のマンガと文庫、一部単行本という店。いらっしゃいませの声もない。バイトも雇っているようで、そのうちつぶれるのは明らかである。浅田さんの『構造と力』が 200円で売っていた(笑)。文庫の『地下室の手記』を 150円で購入し、退出。

ミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。ドーナツ一個といつものごとくコーヒーをおかわりしながら、ゼーバルトを読む。退屈するとスーパーに来る家族連れたちを眺めたり。様々なノイズの中で小説の細かい筋もわからず読むのは、悪い気分でない。単語がまわりに纏っている halo のようなものだけを感じつつ読む(あるいは文章を眺める)のは、ゼーバルトにふさわしいような気すらする。細かい筋なんてどうでもよいのだ。こういう読み方は、たぶん母国語でしか可能でない。


毎年同じ場所にオミナエシが咲く。

図書館から借りてきた、W・G・ゼーバルト『移民たち』読了。鈴木仁子訳。四作の連作短篇集といえるだろうか。それぞれの短篇(中篇に近い長さのものもある)は登場人物の名が題名に選ばれ、彼らは作中ですべて死んだり、死につつあったりして短篇は終わる。クラい。とにかくクラくて、メランコリーに満ちている。いまの自分はメランコリーの重力場を破壊したので大丈夫(?)だったが、それでも二件のわびしくてしかたのない自殺には何ともいえない気分になった。これはゼーバルトの性向なのか企みなのか、登場人物たちはどんどん底なしの重力場に引き込まれて破滅していく。ところで、堀江敏幸氏は巻末の解説で「作家の極端なペシミズムが読者にかけがえのない幸福をもたらすとは、いったいどういうことなのか?」と述べておられるが、皆さんは本書を読んで幸福におなりになる人であろうか。わたくしはそういう気持ちはよくわからないのである。堀江氏はその巧みな文章で、ゼーバルトは「まるで主人公の一人であるかのように不慮の事故で命を落とした」とも書いておられる。ゼーバルトの自動車事故での死のことであろう。氏はまたその後に続けて、「その瞬間、彼が蝶男のように宙に舞ったかどうかは知らない」とも書いておられるが、自分は作家というものがこんな因業な文章を書かねばならぬ存在かと思うと、堀江氏の宿業に同情すらしたい気分におそわれる。文学者というのは罪深い人たちだ。僕は確かに、ドイツ空襲を体験せずに『空襲と文学』を書いたゼーバルトも、もしかしたらかなりの因業を背負った文学者だったのかも知れないなと思わないでもない。
 自分が本書でいちばん印象深かった死は、三作目のアンブロース・アーデルヴァルトのそれであった。彼は思い出したくもない過去を完璧な記憶力ゆえに忘れることができず、みずから精神病院に入り、他のすべての患者が必死で逃げようとする電気ショックにみずからかかって、自分の想起能力を破壊しようとする。それも、非の打ち所のない折り目正しい服装を忘れずにして。最後、彼のすべての能力が破壊されたとき、彼は涙をながして、その晩に彼は死ぬ。何というか、度を越した陰惨さではないだろうか。自分は感銘を受けつつも、何か目を背けたいような気がしてしかたがなかった。ゼーバルトは将来のノーベル文学賞候補といわれていたらしいが、さても文学とは厄介なものである。どうして我々は文学など読むのか? 本書を読んで幸福になるためか?

移民たち (ゼーバルト・コレクション)

移民たち (ゼーバルト・コレクション)

なお、このゼーバルト・コレクションはすべて鈴木仁子氏の個人訳である。見事な訳業というほかない。

どうでもよいが、本書の中でライラックの名が一箇所出てくるところがある。で、ライラックが出てくる有名な詩か何かがありましたよね。ライラックを捻るとか何か。ふと思い出したのだった。こういうとき自分の貧しい記憶力が残念になる。T・S・エリオットでしたっけ?

ピーター・L・バーガー『社会学への招待』


よく寝た。10時間くらい寝たのではないか。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第三番 K.281 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。僕はツィマーマンのモーツァルト、好きだな。これが好きっていう人、見かけたことがないのだけれど。Wikipedia を見て知ったのだが、ツィマーマンって親日家なのだね。東京に自宅ももっているらしい。


ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはユジャ・ワン、指揮はヴァレリーゲルギエフ。うーん、何といったらいいか。確かにこれはブラームスでないことはない。感動したかといえば感動した。さすがにこれほど弾けるピアニストは少なかろう。その意味で、自分はこの演奏を肯定する。しかし、いやしかしというのも何なのだが、これでいいのだろうか。確かに課題は見事にクリアされ、新鮮さにも欠けていない。でも、たぶんユジャ・ワンはこの曲をとても愛している、というわけではないような気がする。いったい何のために弾いたのだろう。いずれにせよ、人気音楽家の共演であり、10日間に 3万pv というのは、クラシックの動画ではあまりない聴かれ方である。確かに聴かざるを得ない組み合わせだからな。ちなみに、アンコールのプロコフィエフも、それからモーツァルトの「トルコ行進曲」の奇抜なアレンジも、これらはおもしろいとしか言いようがなかった。やはりユジャ・ワンは聴かないわけにはいかない、それは確かにそうである。


ハイドンのピアノ・ソナタ Hob.XVI-34 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。これぞハードエッジ、ハードボイルドではないかね? シビレルね。


ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」組曲で、指揮はクラウディオ・アバド、オケはルツェルン祝祭管弦楽団。これはすばらしい。CD化レヴェルの名演。アバドってこんなに凄い指揮者だったのか。もちろん大指揮者であることは誰でも知っているが、自分はこれほどまでとは思っていなかった。この演奏ではオケの集中力がすばらしく、すべての音が生きている。息を詰めて、一音たりとも聞き逃せない感じ。もちろんアバドらしく知的なアプローチなのだが、ふるえるようなカリスマ性すら感じる。晩年のアバドはもっと聴かないといけないなと思わされた。カッコよかったです。


「フォードの円」というのを描いてみました(参照)。

ピーター・L・バーガー『社会学への招待』読了。

社会学への招待 (ちくま学芸文庫)

社会学への招待 (ちくま学芸文庫)

朝日新聞取材班『子どもと貧困』

晴。

元気が出ない。夕方までごろごろしている。凡夫一生修行。
スイカを食った。ミニトマトはもうおしまい。


ハイドンのピアノ・ソナタ変イ長調 Hob.XVI-46 で、ピアノはイーヴォ・ポゴレリチ

図書館から借りてきた、朝日新聞取材班『子どもと貧困』読了。とりあえずファクトを知ろうと読んだが、予想どおりというか、貧困はむずかしい問題だ。いまではかなり広く知られた事実だが、現在の日本では、子供の六人に一人が貧困状態にあるという。その具体的な有り様は多様であり、簡単に対策など自分に思いつく筈もない。本書を読んで思ったのは、これは貧困だけに限らない話だが、「お金」と「他人とのふれあい」の両者が人間には必要であるということだ。自分に引きつけて考えれば、自分は生きていくために必要な「お金」はいまのところは足りているが、「他人とのふれあい」という点では貧しい。じつのところ、仕事で会う子供たちや家族以外に、自分がリアルに接する人は殆どいない。意外と、ネット上の「バーチャルな」コミュニケーションが、自分を支えるのにかなり力になっているのではないかという気がする。つってもただブログを書いて極少数の人に見てもらうだけですけれどね。そういう意味では、僕も本書の問題はまったく無関係である筈もなかった。真実をいえば人間など生まれてこない方がいいのであろうが、それでも実際に我々は生まれてくるのだから、生まれてくる以上はカスでも平穏無事に生きていっていいはずである。それが肯定されるのが人間の進歩なのであり、それ以外の進歩など取るに足りないというべきではないか。

子どもと貧困

子どもと貧困

早寝。

丸山眞男『政治の世界 他十篇』 / A・アルトー『タラウマラ』

曇。
 

モーツァルトのピアノ・ソナタ第十一番 K.331 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフYou Tube に上っているヴェデルニコフによるモーツァルトソナタの録音はこれだけのようだな。これがいいだけに残念。


モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はゲヴァントハウスQ。好演。

丸山眞男『政治の世界 他十篇』読了。僕はこれまで丸山眞男は食わず嫌いだったのだが、読んでみて予想どおりだったところも多い。僕は基本的に政治学という類の学問をさほど好まないタイプであると思う。こういうのは、アカデミズムがやったらいいのである。しかし、まったくつまらないということもなかった。政治学はよく知らないから良きにつけ悪しきにつけ新鮮であったこともある。僕は、どうでもいいおしゃべりは別に嫌いではない。それから、雑談っぽい話にはかなりおもしろいところもあった。丸山眞男のいうところの、彼の「本店」でない部分(つまり「夜店」)である。ここでは、丸山眞男に柔軟なところが見られ、ハッとする記述が結構あった。これはかなり意外なことだった。以上、明白に素人の放言にすぎない。たぶん丸山眞男はもう少し読むだろう。政治学の本も丸山以外に読むかも知れない。

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)

それにしても、日本は保守が「気に入らないから(例えば憲法を)変える」であり、リベラルが「(例えば憲法を)守る」というのは、何だか語義と逆転しているというのは、いまでもまさしくそうで、なるほどなと思った。それから、「多数決」は異論があるからするのであり、異論を許容する考え方だというのとか、政治的に「無駄な抵抗」をするのはじつは全然無駄でないとかいうのもね。当り前のことかも知れないが、自分にはおもしろかったのである。

ひさしぶりにカルコス。最近の自分にしては結構買った。ちょっと海のものとも山のものともわからない著者を読んでみようかと思った。
現代思想」誌最新号の、國分さんと千葉さんの対談を立ち読み。このところ意外な場所でもこの人たちの名前を見かけるようになった、いま注目の二人だ。僕はそれほどよく知らないのだが、確かに二人とも decent で、若い人たちにはめずらしい感じである。対談は斜め読みだったので判断はできないが、なかなかいい雰囲気だった。ただ、これは僕の無知かも知れないが、二人ともあまりにも西洋哲学の土俵のみで相撲をとっていて、もっと猥雑に色いろあったらもっとよかったのにとかも思った。これは、やはりいま風でもあると思う。あんまりドゥルーズだのガタリだのアーレントだのとばかり言っていてもなあ。でも、これは彼らの意図的な戦略なのかも知れないけれど。とにかく、こういうことをいま言うのはバカだけだが、もっと「教養」が欲しい。いや、自分だって教養はないのですが、何といっても期待の星たちですから。言い換えれば、もっと広い視野が欲しいというか。大きく開花してもらいたいですね。

何だかあまり元気が出ないので、コンビニでカルピスウォーターを買ってきた。って謎ですね。

A・アルトー『タラウマラ』読了。宇野邦一訳。

タラウマラ (河出文庫)

タラウマラ (河出文庫)

エドワード・W・サイード『サイード音楽評論 2』

久しぶりによく晴れた。
 

バッハのシンフォニア全曲 BWV787-801 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。ゴツゴツしたヴェデルニコフのバッハ。すばらしい。


ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番 op.69 で、チェロはポール・トルトゥリエ、ピアノはエリック・ハイドシェック。名手たちの共演。こんな見事な演奏はめったに聴けるものではない。名演というべきであろう。


シューマンの「森の情景」op.82 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルリヒテルはこの曲は全曲を弾いているのだな。いわゆる「性格的小品集」では、リヒテルは全曲を弾かないことが少なくないので。それにしても、この巨大なピアニストが、こういうつまらんというか(いや、自分は大好きなのですよ)、ちっぽけな曲も好んで演奏するところがおもしろい。これがまたじつにシンプルで、味わい深い演奏なのだよね。底知れぬ人であるな、リヒテルという人は。

図書館から借りてきた、エドワード・W・サイード『サイード音楽評論 2』読了。ようやく読み終えた。難渋したのは、サイードが巨人ゆえである。自分は(不遜にも)サイードの言うことをすべて受け入れるわけではないが、とにかく音楽評論で、こういう歯応えのあるものは最近ではなかなかない。サイードはもちろん第一には人文学者であり、ポストコロニアリズムはサイードが創始したといってよいが、本格的な音楽教育を受けており、ピアノの腕前もセミプロ級だったというのは有名な話だ。その本格的な知識はクラシック音楽のほぼ全領域にわたっており、驚くべき量の専門書を消化しているのは本書を読むと目が眩むほどである。さらに加えて、強靭な思索力と筆の力は、音楽はサイードのもうひとつの天職であったことを確信させずにはいない。
 本書を読んでいて、確かに自分の音楽の聴き方はサイードとはだいぶちがうなと思わされた。というか、自分は楽譜を見ても頭の中でそれが音になるわけでもない、何の楽器もできない、ただの素人である。それに、極東の田舎に住んでいて演奏会にも出かけないし、オペラも知らない。つまりはお話にならないのだが、しかし、自分をことさら卑下しようとは思わない。何の評論もできないが、それなりに音楽を楽しめているとは思うのだ。サイードは自分のような聴き手をともすれば非難しそうなところがあるが、自分はそれなりに敬虔に音楽を聴いているとも思う。このような聴き方をする者がいても、いいような気がするのだ。もちろん優れた聴き手たちは、音楽というジャンルをさらに豊かにしていってもらいたいと願う者である。
 それにしても、サイードってこのところ読まれているの? まるで管見に入ってこない。忘れ去られていい人だとも思えないが…。

サイード音楽評論 2

サイード音楽評論 2

仕事から帰ってきてテレビを見ながら遅い夕食をとっていたのだが、そのニュース番組で安倍首相が大田昌秀沖縄県知事の県民葬にのこのこ出席しているのを見た。パヨクとして言わせてもらえば、何という恥知らずだろうか、安倍首相は。非国民と思われてもまったくかまわないが、殆ど怒りすら感じた。このような場で、いつもの心にもない軽すぎる口を回すとは。僕はアベノミクスというか、リフレ政策は基本的に支持するが、安倍首相は本当にたまらない。バカとしていわせてもらおう、あの顔がきらいなのだ。みにくくたれさがったほおの肉が軽い口がまわってぶるぶるふるえるのが見ていられないのだ。まったく、売国奴は自分なのか、安倍首相なのか。沖縄をどこやらへ売りわたすのが本当に右翼なのか。沖縄はそもそも日本でないのか。僕は、沖縄を売りわたすやつらを右翼と認めたくない気持ちである。は。

夜半、雨。

津村記久子『ポトスライムの船』

曇。
なかなかおもしろい夢を見る。それでつい寝坊。

それにしても派手にぶっ壊れたな。夕方になって何とか元気が出てくる。

図書館から借りてきた、津村記久子『ポトスライムの船』読了。僕がこの人にいちばん感心するのは、その文章である。淡々としているのに、こちらの気持ちを逆なでして、イライラした気分にさせられるくらいだ。こういう凶悪な文章を書く人は、なかなかいないのであるまいか。本書では、表題作よりも、「十二月の窓辺」の方がその文章の力を発揮しているように思える。それにしても、いまの女性たちは多かれ少なかれこんな感じで仕事をしているのだろうか。パワハラの極致なのに、自虐的になって会社を辞めることもできない。僕はよんどころない事情で人生をドロップアウトしてしまったので、社会人というのがどういうものなのか実体験するところがなかったが、どうも想像を絶する世界である。こんな目にあってまで既成ルートから下りられないというのは、大変なものであるな。とまあ、人間のクズが言っても説得力がなくて、ふつうの人生を送るのは大変ですねくらいしかいえない。最後、何とか主人公が辞められて個人的にはよかった(?)が、これって彼女は負け犬ということなのだろうか。
 表題作は芥川賞受賞作である。「十二月の窓辺」の後のエピソードだと勝手に思うことも可能だろう。主人公は前の会社を大変な「モラルハラスメント」の上に辞めて、いまでは奈良でバイトの掛け持ちをして生活している、微妙な年頃の女性である。事情が事情なだけに、ちょっと気持ちの平衡を欠きがちというか、まあはっきりいうとちょっと心を病んでいる感じだ。大学時代の友達は色いろで、バカっぽいのに結婚して幸せっぽく、それなのに(それだから?)うざそうな女(ヒドいね)とか、仕事ができたっぽいのに夫に辞めさせられ、さらにはその夫が選択ミスで離婚になりそうな女性とか、とにかく平穏でない。しかし、皆んなそんなに人生に疲れているの? まだ20代の女性でしょう、40代後半の KKNO とかに比べたらそれだけでよほど勝ち組だと思うのだが。何だかどうなっているのか、すてきな男性をゲットするという希望も捨ててしまっているのか(って自分は KKNO ですけれどね)。ただ本作は「十二月の窓辺」に比べたらまだポジティブな感じもして、そこらあたりが芥川賞なのかなとも思った。まあ人生など生まれて苦しんで死ぬだけだが、何のいいこともない一生というのもまずないですよ。仕事に疲れて自殺したって、いじめた奴らはピンピンしていてつまらないですよ。はっきりいうが、ドロップアウトする方がマシなのじゃねーかと、日本の諸問題の諸悪の根源であるとされるダメなおっさんは思いますですよ。

ポトスライムの舟

ポトスライムの舟

こともなし

曇。
 

バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。見事なバッハだな。やはりヴェデルニコフ、只者でない。しかし視聴回数がわずか 300回あまりって、どうなっているのか。皆んなヴェデルニコフわかんないの?
 

ブリテンのヴァイオリン協奏曲 op.15 で、ヴァイオリンはジャニーヌ・ヤンセン、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。これは発見だった。僕はブリテンってあんまり知らないのだけれど、この演奏を聴いてびっくり。一見大したことないと思われるかも知れないが、僕にはむずかしい音楽だなあ。来歴がよくわからないのだよね。で、スケールはじつはとても大きい。聴いているとシベリウスが聴きたくなってくる感じではある。ブリテンは人気があるとはあまりいえないようだが、甘さがさほどないものなあ。でも、単純なシリアス一辺倒というわけでもない。何ともいいにくい、自分には不思議な音楽である。それから、たぶん今頃何を言っているかというところなのだろうが、ジャニーヌ・ヤンセンっていいヴァイオリニストですね。全然知らなかったのだが、これを聴いてその表現力の確かさにまいりました。相当のヴァイオリニストなのにちがいない。ヤルヴィも好サポートだよ。

PC 遊び。「最長片道切符」の算出にハマる。