井筒俊彦『意識と本質』を読み返す

晴。暑い。

午前中はごろごろしていた。

らーめん「Nageyari」にて昼食。つけ麺中盛850円。おいしゅうございました。まぜそばも食べたかったのだが、つい定番を注文してしまう。ここで iPhone で撮った写真でもアップすればブログらしいのだろうが、わたくしは iPhoneAndroid ももっておりませぬ。

井筒俊彦『意識と本質』を取り敢えず再読し終えた。いまちょっとボーっとしているのであるが、大変なインパクトがあったので読み返してみてよかったと思う。後半部分ではカバラ(カッバーラー)の「セフィーロート」についての記述が印象的であるが、このあたりはわかりやすく図示もされていて、学生のときの読み方で基本的にまちがっていなかったのではないかと思う。それよりも自分のことで気がついたのだが、自分もこれまでの風潮に流されて、いわゆる mundus imaginalis(アンリ・コルバン)について深めていなかったなと思った。ポストモダン哲学では特に日本でラカンのいわゆる「想像界」が徹底的に貶められ、僕が学生の頃は「イメージ批判」というのは当り前のことで、「表象」というのがじつにもてはやされたものである。つまりは蓮實重彦なわけだが、いまでも基本的には何も変っていないだろう。それはそれで意味のあることだったが、イメージの力はまことに強く、いまやポルノグラフィーでも日本の HENTAI が全世界(でもないか)を制覇してしまったわけで、イメージ批判は実効的ではなかった。ちょっと話が逸れたが、結局ポストモダンは mundus imaginalis の力を理解できず、本能的にその危険を恐れたため、却って幼稚なイマージュが海底からボコボコとメタンガスのように湧き上がってきて、いまや留まるところを知らない有り様である。突然であるが禅は mundus imaginalis を殆ど無視するのだよね。あたかもそんなものはないもののように扱う。mundus imaginalis はまた「性」の広大な領域を取り込んでいるが、禅は「性」というものを取り扱わない。いや、仏教そのものが密教系を除き、「性」には及び腰であるようだ。仏教がインターネットに効果を発揮しにくいのも、そういう側面のゆえではないかと思う。
 それにしても、この『意識と本質』が作り上げてみせたツールは見事なもので、読んでいてこんなことが可能なのかと心底驚嘆した。自分などは、この論考が提供してみせたマップの見方が、ようやく大雑把にわかるようになったというレヴェルにすぎない。多くの方々の参戦(?)を期待したい。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

しかし自分は思うのだが、いわゆる「萌え」というのは、ユング的元型なのではなかろうか。そういうことをいうと東浩紀さんあたりに罵倒されそうだが。HENTAI というのは、まさしくユング的くにゅくにゅに満ち溢れてはいまいか。ふにゅ?

夜、仕事。

このところ、何でこうネガティブなことばかり書いているのかね。いかんなあと思う。でも、どうもネガティブな感想が浮かんでくるのだものなあ。源一郎さんではないけれど、いまの時代まともな感覚の持ち主ならば鬱にならない方がおかしいと思う。それがどうしてかは自分の手に余る問題である。ただ、子供たちを教えていても痛感するが、いまの人は魂の濃度が薄いというか、何か空洞になっている感じがする。魂の豊かさというのはそれこそ上に書いた mundus imaginalis に関係するが、つまりは想像力が貧困なのだ。ネットを見ていると、粗雑な魂が多いなあとつくづく思う。もう「魂」という言葉が不適切なくらい。そうでないようなブログを読むと、そういう人に限って生きづらくて、希死念慮に囚われていたりする。これは経験的事実であるが、僕が愛読するブログの書き手は生きづらい、「まとも」な人生行程から外れてしまった人が多い。そういう人の方が僕にはじつは「まとも」なのだ。なお、アフィリエイト目的ではてなスターをつけて下さる方は、別にかまいませんが無駄なので、無駄な行為はされない方がよろしいかと思いますよ。そうしたブログにはあまり興味がありません。どうでもいいですけれど。そういうつもりでないのならお許し下さい。

ゲーリー・スナイダー『奥の国』

曇。
昨晩は寝る前に井筒俊彦先生の『意識と本質』を読み返していたのだが(何度目かの再読である)、前は全然読めてなかったのだなと呆れた。いや、いま読んでいるのも後から見れば不十分に感じられるのかも知れないけれど、それにしても本質を語るのに、イスラーム哲学でいう「フウィーヤ」と「マーヒーヤ」の区別すら理解できていなかったとは。これでは本書の最初の部分がまったく理解できていなかったに等しく、こんなことでは読んでいるうちに入らない。まあ自分の読書なんてこんなものなのですな。
 しかし、この観点からすると例えばリルケマラルメが正反対の詩人であることが正確に理解できるというのがすごい。またさらに井筒先生は、この二人に芭蕉を対比させて考察しておられるが、じつに驚くべきである。してみると、自分はマラルメ的マーヒーヤの世界はあまり感受しないタイプなのかなと思った。いや、まだ正確には理解し切っていないと思われるが。
 それにしても、井筒先生は文学をじつに深く理解しておられるな。哲学者として、稀な人だと思う。本書冒頭でもサルトルの『嘔吐』への言及が見られるし。干乾びた自称「哲学者」とはまったくちがう人だ。

『意識と本質』を引き続き読む。第四章から第七章は、著者が「廻り道」という、特に禅に焦点を当てた記述である。ここで井筒先生は、先生のいわゆる「分節(I)」→「無分節」→「分節(II)」の構造を繰り返しちがった仕方で記述している。これは理解するだけならさほどむずかしいことはなく、実体験がなくても優秀な人間なら苦もなくこれを弄ぶことすらできるだろう。しかしこれはまた、実体験するというのはきわめて困難で、実際にこの境地を保って現実社会(つまりは「シャバ」)で生きていくことは、まことにむずかしい。というか、ある程度の体験をもった禅者ですら、自分の足を運ぶすべての場所でかかる境地を保つため、一生修行は止まないのではないだろうか。まあ、自分のような未熟者は憶測するしかない世界である。それにしても、絶対無分節の世界がおのずから自由に(剰語?)分節するということは、そのような境地に到達してしまえば苦もなく保てるようなものなのであろうか。未熟者としては、不断の「脱構築」(と時代遅れの術語を使うが)を行っていくしかないように思われ、何だかなあという感じである。にしても

…「空」または「無」はそれ自体は絶対無分節でありながら、しかし、いずれの場合でも、存在世界全体を構成する一切の分節を、それぞれの言語のアラヤ識的意味「種字」を通じて、可能的に含んでいるのである。(岩波文庫版 p.162)

とは驚くべきではないか。つまりは、絶対無分節といえど、それぞれの言語に規定される分節世界を無視できない構造になっているということである。むずかしい。いや、これは完全な包含関係ということだろうか?

昼から米屋。「コメの日」(笑)なので駐車場がいっぱい。帰りにスーパー。トマトジュースをまとめ買いするのである。
おやつの時間(?)に老父の作ったスイカ。みずみずしくってなかなか美味いんです。

図書館から借りてきた、ゲーリー・スナイダー『奥の国』読了。原成吉訳。本書に収められた詩は、そのかなりがスナイダーの日本滞在時に書かれている。周知のとおり、スナイダーは京都で長い期間禅を学んだ。そして、それだけのことはあったのである。僕はスナイダーを読むと何故かいつも、スナイダーは現在の日本人にはもったいないと思う。それはどういうわけなのだろう。いまの日本人におけるスナイダーの理解は、せいぜいビートニク詩人、あるいはエコロジー詩人というところではないか。もしそうならば、救いがたい傲慢のようにも思える。でもまあ、そんなことはどうでもいい。スナイダーの価値には関わりのないことである。

奥の国 (ゲーリー・スナイダー・コレクション4)

奥の国 (ゲーリー・スナイダー・コレクション4)

しかし、スナイダーは確かにビートニクではある。というか、スナイダーこそ最良のビートニクであろう。これを読んだ若い人たちが、勇気をもって自己を粉砕することを祈りたい。つまりは国家や社会によって敷かれたレールの上から、決然としてドロップアウトしてみよということだ。それであなたの人生は「破滅する」かも知れないが、そんなことは僕の知ったことではない。呵呵。

計見一雄『統合失調症あるいは精神分裂病』

休日(海の日)。曇。


バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。昨日も聴いた演奏。


ベートーヴェン交響曲第三番「英雄」op.55 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。この曲は(「第九」を措いて)ベートーヴェン交響曲の最高傑作だと思うのであるが、じつはヤルヴィのやり方ではどうかなと案じていた。この曲には力不足なのではないかと、失礼ながら危惧していたのである。しかし、ヤルヴィは頑張った。ここでもじつにフレッシュな「エロイカ」を聴かせてくれていて、しかも道を外していない。終楽章以外は。終楽章は正直言って、音楽のエートスを表現しきれていないと思う。それはテンポが速すぎることにも現れているだろう。これは惜しかった。とにかく、終楽章以外は目の覚めるようなベートーヴェンである。偉大なベートーヴェンとはちがったやり方で、彼を演奏できるということを示したチャレンジングな演奏だといえるだろう。


シューベルトアルペジオーネ・ソナタ D821 で、チェロはアントニオ・メネセス、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス。チェロにもピアノにも腹が立ってしようがなかった。別にお前の思い入れが裏切られただけで、悪い演奏ではないよと言われるかも知れないが、自分は許せない。ためらいもなにもない演奏である。この曲をこんなに鈍感に弾いていいものだろうか。それに、終楽章の突然転調して出てくるピアノのきわめて美しいソロ、これもピリスの繊細さのかけらもない演奏には怒りにうち震えるとすらいいたくなる。ああ、勝手な思い入れでスミマセン。でも、これは自分の愛して已まない曲なのだ。危険すぎるので、よほどでないと聴かないくらいの。

夕方、散歩してきました。いつものごとく、平凡な写真であります。




重複するのはあまり載せていないのだけれど、写真を撮りたくなる場所はいつも同じで、実際に同じ場所の写真ばかりを撮っている。昔の人がパワースポット(?)だと感じていたのは、案外こういう感覚なのかなとも空想する。まあ進歩がないだけといえばそうなのだけれどね。

計見一雄『統合失調症あるいは精神分裂病』読了。副題「精神医学の虚実」。これはかなりおもしろかった。といって、僕は精神科医の書いたものを一般人が読むことに、最近は懐疑的になっている者である。僕は自分の問題意識で本書を読んだのであり、「哲学書」とか「評論書(?)」を読むようなつもりで、つまりは興味本位で読んだわけではないと言っておこう。たぶん、例えば中井久夫さんの本でも、本業に関しては、精神医学の同業者以外はあまり読まない方がいいのではないかと思うようになった。唯一の例外は悪名高い(?)ユング派の河合隼雄さんで、というのも、河合隼雄さんは「自分は本当のことなど口が裂けてもいわない」というような人だからである。
 しかし、本書はおもしろかった。中身もおもしろかったし(けれども中身については書くつもりはない)、この人がじつに口が悪いのも愉快だった。というのも僕は著者が何にいらついているのか、わかるような気がするからである。一般読者に受け入れられる精神科医の書くものは、まずまちがいなく軽薄なものであるからだ。本書の中身とはあまり関係ないことだけれど、ひとつ書いておく。人間というものは、条件が揃えば簡単に「狂い」ます。いや、「発病します」の方が穏当かな? 自分が狂わないとすれば、それはじつは運がいいにすぎないのだということははっきりさせておきましょう。言い換えれば、あなたは「精神病者」のことを気持ち悪く思うかも知れないが、あなたがその「気持ち悪い」人間でないのは、運がいいからにすぎないというのが真理です。で、だから何なのだといわれれば、これ以上申し上げることはございません。

まあ読みたければ読めばいいのだが…。

ヴェデルニコフ発見 / 白上謙一『ほんの話』

日曜日。曇。


バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。いま音楽がよくわからないのだけれど、これ悪くないことない?


バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。いま音楽がよくわからないのだけれど、これやっぱりすごくね?


ブラームスのいわゆる「ヘンデル変奏曲」op.24 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。うーん、こんなヘンデル・ヴァリエーションズは聴いたことがないのですけれど。ヴェデルニコフってどういうピアニスト? Wikipedia だけでは全然わからないな。


プロコフィエフのピアノ・ソナタ第七番 op.83 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。1991年のライブ録音ということであるが、音質はとても悪い。しかし、なんつーすばらしいプロコフィエフですか。70歳を超えたおじいさんの演奏とはまったく思えない。正確かつ忠実であり、迫力も満点。ああ、これがデジタル録音だったら。それにしても、ヴェデルニコフを知らなかったのは自分だけですか。You Tube に punkpoetry 氏がたくさん上げておられるので、消される前に聴こう。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番 op.2 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。やっは、これは脱帽。終楽章がカッコよすぎて死亡。しかし、おまいらヴェデルニコフわかんないだろう。ザマーミロ。ところでピアノは何ですかね。スタインウェイではないような気がする。しかしロシアってのはどうなっているのだ。何でこんなすごいピアニストばかり輩出するの? 不思議の国ってやっぱりロシアだろう。


ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」からで、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフモダニズム! ところで You Tube のコメント欄で話題にしている人が何人かいるが、これはストラヴィンスキー自身がピアノ用に編曲した、いわゆる「ペトルーシュカからの三楽章」とは最後がだいぶちがうね。管弦楽版に近い編曲(誰の手になるのかは不明)なのではないかと思う。全体としては、やはりストラヴィンスキー自身の編曲の方が出来がいいのではないか。ヴェデルニコフにはここでも脱帽ですが。


シェーンベルクの三つのピアノ曲 op.11 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフヴェデルニコフは19世紀的なピアニズムの延長線上でモダニズムに到達したという感じがする。こういう人って、いそうであまりいないのだよね。だから、後期ロマン派の到達点であると同時に現代音楽の始まりであるこの曲など、ぴったり。


リストのメフィスト・ワルツ第一番で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフヴェデルニコフの演奏でリストのピアノ・ソナタ ロ短調か「巡礼の年」を聴きたかったのだけれど、You Tube にはこれしかなかった。大変なヴィルトゥオーゾだというのは明白だが、残念ながら曲がつまらない。これではヴェデルニコフの真価がわからない。

なお、例の「Great pianists of the 20th century」の BOX にはヴェデルニコフは入っていない。自分にはギレリス、リヒテル級のピアニストに思えるのだが、一般の認知はこんなものであるらしい。まったく、punkpoetry 氏のアップロードがなかったら、自分も永遠に気づかなかったことであろう。感謝である。

Great Pianists of the 20th Century - Complete Edition Box Set

Great Pianists of the 20th Century - Complete Edition Box Set


ヘタな写真であるが、酸漿(ほおずき)である。本当はウチに生えているやつを撮りたかったのであるが、葉が茂りすぎてオレンジ色の実がよく見えないので、お隣の畑に生えているものを勝手に撮ったものです。お盆のときにお墓の花(?)として供えることもあって、何だかなつかしいようなものだ。

ミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。ドーナツ一個にコーヒーをお代わりしながら、一時間ほど読書する。ここのバローはさすがに日曜日の午後ともなると混んでいるな。ミスドにも客が入れ替り立ち替り入ってくる。もくもくと読書していたら、60歳くらいのおっさんがこっちをじっと見ているのに気づいたのだが、何だったのだろう。別に他に席も空いていたしなあ。おっさんは子供夫婦一家と来ているようだったが、居心地悪そうだった。おっさん、そう他人をジロジロ見るものじゃないですよ。

白上謙一『ほんの話』読了。副題「青春に贈る挑発的読書論」。基本的な感想は昨日書いた。まったくどういうわけだかわからないが、こういう本を読んでいるとセンチメンタルな気分になっていけない。著者の文章は相当に辛辣であり、偏屈なところをもっているが、性根の純粋さが隠し切れないところがいけないのだ。本書の解説は著者の友人であり、自分は何も知るところがないけれど、著者と同じ学に志した立派な先生であることが伺えるが、その文章を読んでもまたメソメソさせられる始末である。思えば、僕は大学で著者のような先生にひとりも出会うことがなかった。こういうのは、まずこちらがいけないので、よき師を求める心が薄かったのであろう。それでも、やはり残念である。また、あるいは著者のような友人に出会うこともなかった。これもまた自分がいけなかったにちがいない。僕は大学に呆れるようなものしか見なかったし、アカデミックな世界で生きていくこともなかった。蔵書家というような人と親しく交わったこともない。いけない、どうでもいいことばかり書いた。恐らく、本書のような本に自分がセンチメンタルな反応を示す理由は、誰にもわからないだろう。いや、自分にもわからないのかも知れない。ただ、我々は大切なものを既にたくさん失ってしまったのだなと思う。本書はほぼ 60年代を通して書き継がれたものであるが、この段階においてすら著者が同時代に向ける視線は辛辣である。いまとなっては…、これも以下略ですね。とにかく、昔はたとえ世間に知られていなくても、尊敬すべきえらい先生がいらしたものなのだなあと思う。

ほんの話―青春に贈る挑発的読書論 (1980年) (現代教養文庫)

ほんの話―青春に贈る挑発的読書論 (1980年) (現代教養文庫)

さて、真夜中を過ぎたが、雨が強くなってきた。さっさと寝ることにしよう。(AM1:43)

こともなし

晴。
昨晩は夕食後に寝たので、昧爽に起床して読書。

音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十八番 K.576(クリストフ・エッシェンバッハ参照)。■バッハ:カンタータ第10番「我が心は主をあがめ」 (カール・リヒター参照)。■モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 (ヘルベルト・フォン・カラヤン 1961)。カラヤンの「レクイエム」である。これはモーツァルトではない、レクイエムではないというのは簡単で、確かにまあそうなのだが、またカラヤンはそんなにわかりやすくないとも思う。僕の思うところでは、カラヤン自身が作り上げたカラヤン像は、カラヤンを正確に聴くのにむしろ妨げになっているのではないか。特に60年代のカラヤンはそうで、ここでも聴いていると、いわく言いがたい不透明さがあるのに気付かされる。少なくとも僕は内田光子のように、カラヤンを道化者として笑殺し去ることはできない。それは、ある程度音楽のわかる者がすべき態度ではないように思われる。■シューベルト即興曲集 op.90 D899 (アルフレッド・ブレンデル参照)。何かひっかかりがあまりにもないので、そう好きでもないブレンデルを聴いている。ブレンデル・ファンの方、ごめんなさい。

このところトランプ大統領陣営が CNN に幼稚な攻撃を仕掛けているが、あれはまったくの逆効果だろう。実態は権力迎合メディアに成り下がっていた CNN に、偉大な権力批判勢力というお墨付きを与えるに等しい。CNN としては、息を吹き返すきっかけとなるだろう。これなどを見ると、トランプ陣営というのがマスコミ対策という点でもいかに頭が悪いかを示している。ただし、この頭の悪さが大衆を喜ばせるところは、なかなか未来の予測がむずかしい。頭が悪い方がウケるというのは、確かにそういうことは強く見られるからである。というか、それでトランプは大統領になったのだから。大衆操作の手段としてこれを意図しているなら、逆に自分など見当もつかない「頭のよさ」ということになるのだろうか。

我々の生活の根本的なネット化というのは、つまりは我々が皆んなバカで安心したということであり、そのことの可視化であろう。それはどんどんスパイラル・ループとして進行していき、その底はいまだ見えない。思えば自分も本当にバカになったし(元から?)、これからもどんどんそうなっていくであろう。目が覚めるたび、ずぶずぶと底に沈み込んでいっている自分を感じる。それにしても、このことを実感している人がどれくらいいるのだろう。たぶん、50代以上の人は殆ど気づいておられないのではないか。逆に生まれてからネットがあった世代は、現状の相対化が困難だろう。現状の相対化というのはつまりは「教養」(死語)の力で、いまや全世代で殆ど死滅したものである。これからの展望は自分にはまったく見当もつかない。

いかん、暗いですね。もっとポジティブにいこう。

昼から仕事。

愛読するブログで白上謙一という人の『ほんの話』という本を知って早速注文、いま読んでいるが頗るおもしろい。いや「知って」と書いたがそれはじつは正確でなく、谷沢永一氏の『紙つぶて』か何かで書名が頭に残っていた。「ほんの」というのはもちろん「本の」であるが、「ちょっとした、取るに足りない」という意味を含んでいるという記述を記憶している。著者は生物学者のようで、研究にカエルが必要らしく、カエルの時期は忙しい旨本書にある。読み始めたら好物の類とわかったのでぐんぐん読み、このままでは一気に読了してしまう恐れがあるので半分くらいで中断しておいた。もったいないというしみったれた根性である。突然であるが僕はずっとハードボイルドだったのだけれど、ブラームスを聴きすぎたのかしょぼくれたおっさんになったせいか、このところひどくおセンチである。本書の副題は「青春に贈る挑発的読書論」というのだが、いま風の感覚で言ったらダサいとしかいいようがない。しかし自分にはどこか懐かしい世界で、何となく皮肉っぽい(つまり知的な)文章を読んでいるうちにセンチメンタルな気分になってどうしようもなかった。
 僕が読んでいるのは社会思想社の「現代教養文庫」版である。アマゾンのマーケットプレイスで廉価で購入した。「白眼亭寓目」の蔵書印がある(これは著者の蔵書印らしく、もちろん印刷であろう)。「現代教養文庫」は僕が学生の頃はまだ存在したが、いまは社会思想社自体が廃業している。僕が知っている頃はゲームブックなどが多く、買ったことはほとんどない。いま本書巻末の目録を見ても、小栗虫太郎久生十蘭くらいしか自分には唆られるものはなく、まったく視野に入っていなかった文庫レーベルだなと思う。読んだのを覚えているのは、碩学・呉茂一先生の『ギリシャ悲劇』くらいか。だから、学生時に本書を手に取らなくても無理はなかった。こんな本が入っていたというのは、ちょっと驚かされる。
 本書の批評をする気などはまったくない。というか、このブログは書評ブログなどではなく、ただの読書感想文を時々書いているにすぎないのである。だから半分読んでのただの感想であるが、まあ何というか、本書には「文体」がある。どうも文章からただよってくる「体臭」を文体と勘違いされる方がいるが、文体とはそういうものではない。「読書家」というのはどう定義すべきかむずかしい単語であるが、とにかく読書家でないと文体をもつことはまずできない。逆に、ある種の本をそれなりに多く読んでいれば、たいていは文体ができてくるようなものである。かつては、文体をもった学者は少なくなかった。いまは機能的散文の時代であり、「文体」などは通用しない。それは別に日本だけの話ではたぶんないので、これで日本オワタというわけではない。安心されたい。
 本書は著者の意図とはちがうかも知れないが、いまやどうでもいい中身で占められている。なかなか現代人が本書からポジティブなものを得ることはむずかしいだろう。本書のひとつひとつの文章のおしまいにそこで言及された書物の著者名と書名がまとめて記載されてあるが、そもそもこのリストを見て感慨にふけることのできる人間が、いまや 40代以下でどれほどいるか。いやまあ、自分はこれを見て何ともいえない気分になるのだが、それは以下略である。

坂出祥伸『道教とはなにか』

雨。
昨晩は「檜山正幸のキマイラ飼育記」という有名なブログを明け方までひっくり返していたので、朝のすごい雨に気づかなかった。このブログは(ものすごくいい意味で)特殊で、ブログ主は Ruby よりも Haskell の方がよくわかる(?)というような特異な人である。まあ自分にはむずかしくてよくわからない記事も多いが、わからなくても読んでいるだけでおもしろい。結構すごいブログってあるものだなとこのところ思う。

音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十七番 K.570(クリストフ・エッシェンバッハ参照)。■スカルラッティソナタ K.194、K.195、K.196、K.197、K.198、K.199、K.200、K.201 (スコット・ロス参照)。このところずっと empty な感じなのだが、スコット・ロススカルラッティを聴いていると少し救われるような気がする。この empty な感じは当分続くのだろうな。原因はほぼわかっているのだけれど。

テレビでニュースを見ていてこのあたりが豪雨でひどいことになっていると初めて知る。いや、確かにすごい降りだったが、まさかそんなことになっているとは。各務原市の映像とかも流れていて、たぶん犬山に近い鵜沼あたりのそれだろう。あんまり呑気にしていてはいけないと反省させられる。五条川が氾濫して水浸しになっている愛知県大口町の映像を繰り返しテレビは流していたが、大口って従兄弟の勤めている会社があるのだけれど。なお、このあたりはいまはもう雨は止んでいます。(PM0:20)

県図書館。帰りにカルコスへ寄って『新潮 8月号』を立ち読みしようと思ったのだが、あらず。売れたのか、最初から入れていないのか。

坂出祥伸『道教とはなにか』読了。近年奈良時代の木簡に「急急如律令」の文字が書かれたものが発掘されて話題になったことがあるが、これは道教の呪文である。どうやら治療行為として行ったらしい。「気功」というのも道教なんだな。鍼灸もそう。知らないことで満ち溢れている本である。

道教とはなにか (ちくま学芸文庫)

道教とはなにか (ちくま学芸文庫)

こともなし

曇。
昨晩は中沢さんが訳した『鳥の仏教』を読んで寝た。


スカルラッティソナタ K.11、K.159、K.322、K.9、K.27 で、ピアノはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。

岩盤を割るのにとても苦労した。いまとなってもこういうことがあるとは。まだ上手くいったかはわからない。生きていくというのはそれだけでしんどいことだな。いい経験になった。

夜、仕事。


ブラームスの間奏曲集で、ピアノはグレン・グールド。あるブログの自殺念慮の記事を読んで聴きたくなった。本当は自分で弾けるなら弾きたい気分だが、残念ながら僕は如何なる楽器も弾けない。かならずしもグールドの演奏がいまのベストというわけではないけれど、まあこれしかあるまい。といって僕には自殺念慮はないのだが、早死するのはあまり好ましく思えないけれど、長生きするのもどうかという感じである(そういいながら、ジジイになったらこの世に未練たらたらなのかも知れないが)。少なくとも、自殺念慮の気持ちはすっと自分の中に入ってきて、決してわからないものではない。ただ、浅田彰さんと同じく、親が生きているうちに自殺する気にはなれないが。(そういうところが、自分が浅田さんに共感できる理由のひとつでもある。あの人は偉大なる常識人でもあるのだ。)若い頃から、生きることそのものがつらいところが、自分にはあったと思う。まあどうでもいいよね。
 なおこのグールドの演奏であるが、CD そのままではなくて、何曲かカットしてある。どのみち違法行為ではあって、全部聴きたい方は CD を買うとよいだろう。おそらく録音当時グールドはまだ20代だと思うが、まさしく天才的な演奏である。不朽の録音というべきであろう。グールド自身は、「セクシーな」演奏だと言っていたな。そのとおりであろう。そういや浅田さんは、ブラームスみたいな下らない音楽は聴くに堪えなくて、この間奏曲くらいしか聴けないようなことを仰っていたな。僕はブラームス大好き人間であるが(特に室内楽が好きだ)、いかにも浅田さんらしくて、気に入っている発言である。


プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番 op.26 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はヘルベルト・アルベルト。動画の記述を信じるならば、ポリーニ 25歳の誕生日におけるライブ音源である。まだ先月おしまいにアップされたばかりの動画だ。ちょっと聴いてはというか、見てはいけないものを見てしまった気分である。この曲はこれまで錚錚たるピアニストの演奏で聴いてきたが、それらのどれも比較にならない悪魔的なそれだ。まさしく浅田さん(またですか)の言うとおり、ポリーニは最後のピアニストであろう。「完璧に弾く」という方向性で、今後これ以上のピアニストが出ることは考えられない。もちろんそれは楽譜どおりに弾いているとかそういうレヴェルのことではなく、演奏芸術の究極の地点という意味である。確かに技術はものすごい、というか、この難曲において、何の技術的な制約もない。そもそも手癖というのがまったくないのだ。あらゆる場面で、曲の要求するとおりのパフォーマンスを見せ、感情のレヴェルでも適切な感情のコントロールが完璧に行われている。そして曲構造をクリアに見せつける明晰性。曲の現前化として、完璧なのだ。この悲劇的なまでの完璧さに、感動しないではいられない。しかし、よくポリーニの演奏を評して「冷たい」だとか「機械のよう」だというそれがなされるが、それはポリーニというピアニストがたぶんわかっていないのである。これは人間のたどり着き得る極致のひとつだと思われる。